079 「審判」 フランツ・カフカ 原田義人訳 新潮文庫




 主人公が虫に変身する小説、しかも、変身したところからはじまる小説「変身」の作者、フランツ・カフカの見事なところは、そうした異常な状況を、まるでフローベールのように正確かつ完璧に書いているところです。決してつじつまの合わない「変な」世界を「変に」書いているわけではないのです。



Franz Kafka

 「審判」では、ヨーゼフ・Kがある朝逮捕されることろからはじまりますが、主人公と突然現れた男たちとの会話が成立していません。この、成立しない会話を模倣できるものならしてごごらんなさい。デタラメじゃダメなんです。ちゃんと正確に相手の発言を理解して、語るべきことを語っていながら、成立していない会話でなくてはならないのです。袋小路に入り込んでしまってもダメですよ。成立しないままに、会話はどんどん先に進んでいくのです。

 そもそもが、日常のありふれた行動にも難渋し、他人ともお役所ともまともな関係が保てない人間が主人公です。主人公の目線で書いてあるから、なんだか主人公を取り巻く世界に問題があるように見えてしまうかも知れませんが、異常なのは外の世界ではなくて、主人公の側なのです。

 文庫本の「解説」にありそうな、現代社会の不条理とか疎外とか、いわれなき処罰だとか、もっともらしい解釈に頼っていては、重要なことを見落とします。というか、不条理とか疎外なんて言っているとお里が知れますな(笑)そういう読み方に頼るということは、その読んでいる人自身の問題がそこにあるからなのです。それを「社会」とか「他人」に責任転嫁しがちな人ですね。

 カフカがどのような人間であったのかは、厖大な書簡や日記もあるし、いろいろ調べてくれたひともいますから、知ること自体は難しいことではありません。しかし、それを知ったところでカフカの小説の解読表になるわけでもない。それでも、「変身」にしろ、「審判」にしろ、その他の長短篇小説を残してくれたカフカのことは最低限度のことくらいは知っておきたいもの―。

 フランツ・カフカは1883年7月3日にプラハの旧市街のユダヤ人地区で生まれました。父親のヘルマンはボヘミアの寒村から出て来たチェコ系ユダヤ人で、プラハで小間物の卸業を営む、一応の成功者。母親ユーリエはドイツ系ユダヤ人。だからその間に生まれたフランツもユダヤ人。3人の妹、エリ、ヴァリ、オットラも同様で、後にナチスの強制収容所で死んでいます。フランツだって、1924年に喉頭結核で死ななければやはり収容所で死ぬことになったかも知れません。

 両親のことを言えば、幼いカフカに与えられた家庭環境はあまり知的な環境であったとは思えず、しかしそれがために親の反対物へと自己形成していったということは考えられそうです。36歳のカフカが書いた「父への手紙」はカフカにとって父親の存在することがいかに不当であるかを訴えているもの。これはさすがに母親が握りつぶしてしまったのですが、いま我々が読んでみれば、なんとも明晰で論理的な主張です。ただ、到底かなうはずのない相手に向かって、自らの妄想を、几帳面なまでに論理的に組み立ててはいるものの、父親が読んだところで理解不能であったでしょう。



カフカの父母。

 女性関係。カフカは41歳になる直前に亡くなるまで独身でした。正確に言うと、正式な結婚をしませんでした。いや、人妻を含む何人かの女性と親しくなったり、婚約しようという女性の友人と親しくなって文通したり、それでも婚約して、1か月後には解消して、3年後に同じ女性とまた婚約、そしてまた半年後に解消・・・まだまだ先があるんですけどね、口約束の婚約とかその解消だとか。上記でようやく半分くらい。語っているだけでもうんざりしてきて、そりゃあ父親だって「もう、いい加減にしてくれ」と言いたくなりますよね。

 婚約婚約って、この男、契約には興味があるけれど、どうも履行することには関心がなさそうです。いつも、無期延期。だから相手は破棄せざるを得なくなる。例えていえば、「人生は生きるに値するのか」「人生いかに生きるか」という問題の追及に没頭して、なにもしないでいるようなもの。いや、カフカの場合はなにもしなかったわけではありません。結婚という、する気もないことをしようと努力して(あるいは努力したふりをして)、ひとしきり悪戦苦闘したら、小説の執筆に取りかかっています(そしてほっとする)。それがカフカの生涯だったのです。つまり、書くことが自己処罰だったのです。



2度婚約して2度解消したフェリーツェ・バウアーFelice Bauerと。

 ただし小説を執筆するカフカは、我が国の私小説作家のように、その悪戦苦闘の様をそのまま描くほど厚顔無恥ではありませんでした。もっとも、そのまま書けばどう見たって主人公に原因がありそうな物語になってしまったでしょう。カフカはそこを巧みに隠蔽しているのです。

 じっさい、フェリーツェ・バウアーとの婚約解消後に書きはじめられた(そして結局未完に終わった)「審判」は、一見婚約解消とはなんの関係もない話のように見えますが、処罰を受ける物語です。そしてこの小説中で自己処罰をすることによって、カフカは自らを救済しようとした。もちろん、フェリーツェ・バウアーをはじめ、いかなる関係者に対しても、なんらの責任を果たしていないわけですが、カフカ自身にとってはこれが自己の問題に決着を付ける方法だったのです。

 書くことが救いにつながるのはあくまでカフカにとっての話であって、じっさいにはなにもしていないのと同じ、いかなる意味でも有効な行動を起こしてはいない。それがカフカという男なのです。隠蔽しているのは、まさにそのこと。小説ではあたかも主人公の外部の世界がいかにも無意味で、主人公のあらゆる行動を無効化するべく疎外しているように読めてしまう。これはカフカの自己正当化。この点ではカフカも相当厚顔無恥です。

 不条理の世界だとか、官僚機構とか管理社会の非人間性だとか、迫り来るファシズム、マックス・ブロートが言うような宗教的解釈なんぞ持ち出すまでもない。主人公が自ら進んで、無意味な行動をとり続けているのです。それを、自分の都合ばかり優先して、しかも即物的に書いているから、ついうっかり主人公に感情移入してしまった読者は、異常なのが主人公ではなく、主人公を取り巻く世界の方だと勘違いしてしまうのです。

 もうひとつ―これはわりあいよく言われることなんですが、カフカの小説は「悪夢」の克明な叙述なのです。「変身」でも「審判」でも、主人公が目覚めたところからはじまります。「城」の場合は宿屋について眠り、起こされる。つまり、これ以降は眠っていたときの悪夢の続きなのです。だから、見たまま、感じたままを書いている。無用な解釈を加えてみたり、批評したり分析したりはしないのです。そこがいかにも20世紀文学でもあるわけです。

 そう考えると、いわゆる実存主義的解釈などがいかに滑稽なものであるか、おわかりいただけるでしょう。往年の左翼系文芸評論家とか進歩的知識人などは、カフカに限らず、ゲンダイブンガクというものに、いちいち官僚主義とか管理社会とか疎外とか、現代風の解釈を持ち込んで深刻ぶってみせていました。しかし、ほかの作家はともかく、少なくともカフカがそのようなものを書きたくなったとは、ちょっと考えにくい。その、いささか滑稽な例がオーソン・ウェルズの映画「審判」であり、スティーヴン・ソダーバーグの映画「Kafka 迷宮の悪夢」です。後者はカフカの作品が原作ではなく、物語はフィクションではありますが、管理社会といった、カフカの作品解釈でよく持ち出される、もはや手垢がついて黴が生えたテーマを振りかざして深刻ぶって「カフカ的世界」を描いています。

 深刻ぶった取り組みがなぜ滑稽になるのか。それはもちろん、カフカの作品が滑稽だからです。映画「審判」のときにもお話ししましたが、たとえば「審判」についてwebで検索すると、主人公ヨーゼフ・Kについて「無実の罪で逮捕され」とか「いわれのない罪で」と書いている人が多い。坂内正の「カフカ解読」(新潮選書)でさえ、「ある朝、なんの理由もなく・・・突然行なわれる逮捕」なんて書いている(おそらくこの件は著者の不注意でしょう)。このように、カフカの主人公を「被害者」だと思う(思わせる)ところがそもそも間違っているのです。だから悪いのは世界だ、社会だ、不条理だ、という解釈に逃げ込んでしまう。ついでに言うと、「不条理」だの「シュール」(このことばの誤用です)だのという「レッテル貼り」は便利ですね。小説を読んでも分からなかったときは、そう言っておけばいい(笑)

 念のためヨーゼフ・Kの逮捕について補足しておくと、注意深い人が書いているように「身に覚えのない罪で」あるいは「なんの罪か分からないまま」逮捕されたのです。身に覚えがないのも、なんの罪か分からないのも、当人が分からない(ふりをしている)だけなのです。なにをやってもうまくいかない、そもそも行動する気がない、女性で躓いてばかりいる、ことに女性問題に関しては、検討してみればすぐに分かることですが、すべては本人の(責任感の欠如の)せいなのです。カフカはそれを巧みに隠蔽しようとして、主人公の行動が無効であるのは、あたかも無意味な世のなかに問題があるかのように振る舞って、トボけているのです。


Franz Kafka

 なにもせず、怠惰な生活をしていながら、自分は悪くないと言って、それを世のなかのせいにしている人、いますよね。カフカはその草分けなのですよ。それでも、(おそらく)自己処罰の一環として小説を執筆したのですから、まだしもだったかもしれません。私だって、学生の頃にはカフカを模倣した小説など書いたりしていましたからね。だれだって、ちょっと真似してみたくなるような小説じゃないですか(笑)



(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「審判」 フランツ・カフカ 原田義人訳 新潮文庫

「フランツ・カフカの生涯」 谷口茂 潮出版社
「カフカの『審判』」 坂内正 創樹社

「カフカ解読」 坂内正 新潮選書
 ※ じつはあまり参考にしていません。ただし上記で若干批判めいたことを言いましたが、「カフカ解読」は読むときの指標として役に立つ良書です。「カフカの『審判』」では「なんの理由もなく逮捕」とは記述されていませんが、叙述がやや回りくどいと感じられます。






Diskussion

Parsifal:なるほど、今回は映画2本を先に取り上げた理由がわかったよ(笑)

Klingsol:こちらが言いたかったことなんだな。映画には少々批判的なんだ。

Hoffmann:オーソン・ウェルズもスティーヴン・ソダーバーグもそれぞれにおもしろく観ることができる作品なんだけどね。カフカの原作の映画化、あるいはカフカを登場させる映画としては、通り一遍な印象なんだよね。

Parsifal:オーソン・ウェルズは世代的な限界だろうな。スティーヴン・ソダーバーグも、カフカに対する視点に新しいものがなにもない。

Kundry:みなさん、厳しいですね(笑)

Hoffmann:音楽評論も文芸評論も、昔の左翼系評論家のひとりよがりな言説が未だに幅を利かせているんだ。まあ、オーソン・ウェルズなんかは1963年に制作されているんだからしかたがないけど・・・スティーヴン・ソダーバーグなんて、1991年の時点だからなあ。

Klingsol:翻訳者も知らず知らずのうちに主人公に肩入れしてしまうから、無理もないかも知れない。でも、Hoffmann君が指摘しているように、ヨーゼフ・Kが無実なのに逮捕された、という理解は誤解だ。

Parsifal:長篇は父親との関係から読み解くこともできるよね。初期の「田舎の婚礼準備」では、主人公がベッドでのらくらできるからという理由で、冗談半分に甲虫になりたいと言っている。「変身」だよね。一種の胎内回帰願望なんだ。父親はその怠惰なまどろみを許さない存在なんだよ。

Klingsol:「抑圧」を強制されるわけか。たしかに、「審判」では弁護士に言わせれば「有罪宣告を妨げる」のがひとつの方法だった。つまり、被告人であり続けるしか生きていく方法がなかったんだ。責任を自覚して、その責任を負わなければならなかった。ところがあくまでも無罪宣告を勝ち取ろうとする主人公は、抑圧を拒否してベッドでのらくらしていたいと主張し続けていたわけだ。

Kundry:父親による快感原則の禁止と抑圧ですか? エディプス的な状況ですね。

Parsifal:そう。そこでカフカは胎内回帰願望の赴くままに、自分の夢想する世界に立てこもった状態を保ちつつ、父親に立ち向かってしまった・・・だから「審判」でも「城」でも迷路に入り込んでしまう。だって、出発せずに回帰しているんだから、解放されるわけがない。カフカとその主人公たちの行動に見られる無意味な振る舞いの正体はこれだよ。

Hoffmann:そう考えると管理社会だとか官僚主義なんて解釈はとんでもないね。

Parsifal:役所や官僚をおちょくって遊んでいるのはカフカとその作品の主人公の方なんだよ。

Hoffmann:そして「いかに書くか」という方法で選ばれたのが、悪夢の克明描写なんだよ。画家の部屋の扉を開けると、裁判所の事務局の待合室だったよね。画家によれば裁判所事務局はほとんどの屋根裏にあると・・・この空間的歪みは典型的な悪夢のそれだと思うよ。

Kundry:カフカの「審判」はオペラになっていますよね。ゴットフリート・フォン・アイネムでしたっけ?


(追記) アイネムの歌劇「審判」と「老婦人の訪問」 upしました。(こちら

(参考) 映画「審判」 (1963年 仏・伊・西独) オーソン・ウェルズ (こちら

     映画「Kafka 迷宮の悪夢」 (1991年 米) スティーヴン・ソダーバーグ (こちら