087 「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」 フリードリヒ・デュレンマット 増本浩子訳 白水Uブックス




 ゴットフリート・フォン・アイネムのオペラ、「老婦人の訪問」の原作者であるフリードリヒ・デュレンマットの小説です。



Friedrich Duerrenmatt

 主人公は内気な独身男アルノルフ・アルヒロコス。大企業の下っ端経理係。酒も煙草もやらないきまじめな彼が食堂のおかみさんのおせっかいで結婚相手を募集する新聞広告を出したところ、絶世の美女が現れる。すると、彼が崇拝する各界の名士に次々と遭遇し、面識もない彼にみななぜか親しげに挨拶してくるばかりが邸宅まで提供される。出社すれば、どうしたわけか異例の大昇進。降りかかるこの不可解な幸運に戸惑うアルヒロコス・・・。

 ユニークなのは、本作にはデュレンマットが本来書きたかった結末と、一般読者向けの結末と、ふたとおりが用意されていること。ただし枝分かれする区切りの部分が明確に示されていないので、そのまま読み続ければいいと思います。簡単に言ってしまえば、ドタバタ喜劇まがいの惨劇と、恩寵による至福の2versionです。

 デュレンマットはスイスの劇作家として名をなした人。散文・小説の創作の中心を移した1970年代あたりのようですね。1970年以降の20世紀文学のご多分に漏れず、ミステリ風の作品(たとえば「約束」)あり、初期には幻想文学風の短篇(「犬」)あり、ほかにもいくつか原文(ドイツ語)でも読みましたが、作風はなかなか多彩な人です。

 ただしこの小説は1955年の作。いかにもデュレンマットらしい、皮肉の効いた喜劇のような小説です。こちらの先入観もあるのか、ついつい舞台での情景を思い浮かべながら読んでしまいます。

 なぜ大統領や総司教、有名画家や大企業の社長たちが突然、名前も知らない(じっさい、間違って呼んでいる)主人公にさまざまなプレゼントしはじめるのか・・・これは、わりあい早い段階で美女クロエの正体の想像がつくので、この謎を解くのがテーマではありません。むしろ、主人公にとっては崇拝していた著名人に会い、想像していたものとは異なる彼らのの実態に戸惑う様、その皮肉が効いたところをこそ愉しむべき小説でしょう。その主人公の戸惑いは、カフカ以上にカフカ的世界です。会話がかみ合わない。もちろん、デタラメではなくて、双方きちんと相手の意を酌んで喋っているのに、話が先に進まない。当然、アルヒロコスの霧は晴れない。もっとも、読者はおおよその想像がついているので、いつ主人公が気付くのか、じれったい思いをするようなら、もう小説に取り込まれてしまっているということです。

 これはあくまで私の読み方なんですが、恩寵であれなんであれ、ただ信じてそれに従えと言われても、その恩寵が大きければ大きいほど、ばかばかしく感じられるということです。なぜなら、主人公はひとつの概念としてしか、世界を見ることができないから。その意味でもアルヒロコスはカフカ的です。大統領にしろ、美女クロエにしろ、その実体を受け止めないと、恩寵は疑いを呼んで後は負の連鎖。結果、恩寵は災厄を招く。それがendingのひとつのversion。もうひとつはハッピーエンドです。

 主人公は後半で大統領を暗殺するべく官邸に忍び込むのですが、ここで大統領が語ることばは―

「あなたは恩寵を受けているのですよ」と老紳士は言った。「この恩寵には理由がふたつ考えられますが、どちらになるかは実はあなた次第なんですよ。ひとつは愛、もしもそれをあなたが信じるとするならば。あるいは悪、もしもあなたが愛を信じないとするならば。愛はいつでも出現可能な奇跡です。悪はいつもそこにある事実です。正義は悪をこらしめ、希望は悪をよいものにしようとし、愛は悪に目をつぶる。愛だけが恩寵をそのまま受け取ることを可能にするのです。それは最も困難なことです。それは私も知っています。世界は悲惨で無意味だ。このすべての無意味なものの背後に、このすべての悲惨なものの背後に意味があるのだ、という希望は、それでもなお愛する人だけを守ることができるのです」

 つまり、それでも(無条件に)信じようというのなら、そこには「愛」が必要だということです。だから、正体露見後のクロエは次のように言います―

「・・・あなたは真実を知ることなしに私を愛することはできなかったし、私たちを危うく破滅させかけた真実よりも強いのは愛だけなのですもの。あなたの盲目の愛は、ちゃんと目の見える愛のために壊されなければならなかったのよ。そういう愛だけが価値のあるものなのですもの」


Friedrich Duerrenmattの自画像


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」 フリードリヒ・デュレンマット 増本浩子訳 白水Uブックス






Diskussion

Klingsol:デュレンマットは「約束」とか「疑惑」しか読んでいなかったので、新鮮だった。

Parsifal:「約束」は映画化されていたよね。

Klingsol:「プレッジ」”The Pledge”(2001年 米)だね。おもしろいことに、「約束」はもともとスイスの教育用映画のために書かれたstoryを改作して小説にしたものなんだよ。それが改めて映画化されたわけだ。

Hoffmann:「約束」の副題は「推理小説に捧げる鎮魂歌」。20世紀文学が必然性とか因果律とかいったものを信用しなくなって、それを逆に推理小説に反映させるというのは、アラン・ロブ=グリエあたりもやっていたね。

Parsifal:必然性や因果律を無視すると、喜劇にもなるということだね。ちなみに、”slapstick”とは言いたくない。アメリカ的に過ぎるのでね。

Hoffmann:もともと、”slapstick”というのは、アメリカ合衆国の道化芝居とかコメディで相手をひっぱたくときに使われた、先が二つに割れた棒に由来することばだよね。音が大きいわりにはあまり痛くなくて、我が国のハリセンはおそらくこれにヒントを得たんじゃないかな。いずれにしろ、これが転じて舞台喜劇のドタバタ芸を指すようになったんだ。

Klingsol:デュレンマットのこの小説はアメリカ的なドタバタではないね。ただ、舞台劇のようなtasteはたしかにある。

Kundry:私は短篇の「犬」が好きなんですよ。

Hoffmann:白水Uブックスの「ドイツ幻想小説傑作集」に岩淵達治訳で入っていたね。種村季弘の編集だ。