111 「妖精の時代」 キャサリン・ブリッグズ 石井美樹子、海老塚レイ子訳 筑摩書房




 18世紀末からのロマン派以来の妖精復活はいかなるものか。

 フランスの中世ロマンが英国でたどった変化、ラテン文学が妖精物語に残している痕跡はどのようなものなのか。

 妖精のそもそもの正体はいかなるものか。つまり、フェアリーの種類とか生態とか、その住まうというフェアリーランドとは。

 この本はこうした疑問に対する、断片的かつ矛盾にとんだ知識に、英国の著名な民俗学者キャサリン・M・ブリッグスが交通整理を試みたものといっていいでしょう。妖精について語ろうとすれば、これは常道として、イギリスの妖精が、中世以来17世紀の半ばに至るまで、文学のなかにどのような姿を現しているのか、文献的にたどってみることとなります。

 妖精といえば、中世のアーサー王の物語からはじまって、チョーサーを経て、いったんは「妖精の女王」のスペンサーに昇りつめて、その後シェイクスピア及びエリザベス朝の諸大家のなかで次々と花開き、やがて次の世紀でミルトンまでも巻きこんで、遂にはパロディ化して鎮静する―という長い歴史を持つもの、というのが一般的な認識でしょう。

 妖精の出現は口承文芸の時代からはじまって、12世紀から13世紀の韻文ロマンスを経て、アーサー王伝説や民間バラッドにつながっていったわけです。そのimaginationは必ずしもアングロ=サクソンとその大元であるケルトの要素だけで成り立っているわけではなくて、ギリシア・ローマ伝説も加わっています。たとえばチョーサーの「カンタベリー物語」では、妖精の王が「プルートー」なんて呼ばれている。もちろんこれはギリシア神話の冥府の王の名前ですね。これは、どうもホメロスの「オデュッセイア」などの翻訳の際、「ニンフ」を「妖精」と訳してしまったための誤解らしい。ニンフというのは自然の精霊で、すべて女性ですから妖精とは違うはず。参考までに「フェアリー」の「フェ」というのもじつは「運命」のこと。これはギリシア神話の運命の女神と関連があって、シェイクスピアの「マクベス」の魔女三姉妹も、一般的な「魔女」という訳は正しくないのです。「ウィッチ」じゃないんですから。

 たまたまシェイクスピアの名前が出て来ましたが、シェイクスピアは「真夏の夜の夢」で「小さな」妖精を登場させました。民間伝承ではめずらしくもないことですが、文学の分野ではどうやらシェイクスピアが草分けであった模様で、後世に大きな影響を与えることとなりました。オベロンなんて中世フランスのロマンスで、ティタニアはオウィディウスからとられている。シェーさんはこれを統合して、妖精というもののひとつの典型像を創りあげたわけです。

 ところが英文学で言うと、スペンサーの「妖精の女王」で妖精の詩は終わってしまいます。なぜか。あれはアレゴリー、すなわちエリザベス一世と12の徳をあらわす騎士たちの寓意なんですよ。純粋に妖精を描こうとしたものではない。だから17世紀で妖精詩は終わったとするのがフロリス・ドラットルという人。あとはロマン派の時代になり、さらにそこから児童文学という流れが生まれたわけです。「ピーター・パン」などがその代表と言っていいものです。そのあたりから、絵画や舞台といった映像化もさかんになりました。また一方では、民俗学の対象となり、神智学も介入してくる。イエイツなんて、妖精譚の収集からはじめて、一度はオカルティズムに首を突っ込んでいますよね。



コティングリー妖精事件から、エルシーが撮った写真「フランシスと妖精たち」

 個人的には、妖精などというものの存在は信じていません。懐疑主義と呼ばないで下さいよ、だって、「懐疑」の対象にすらなり得ないと思っているんですから(笑)

 多様な妖精を四種に分かつと―


1 国をなす妖精

 A 英雄妖精
 B 群れをなす妖精
 C 家庭的な妖精

2 守護妖精

3 自然の妖精

4 怪物、魔女、巨人


 可愛らしい妖精というimageよりも、イギリス人にとってフェアリーの概念は、かなり広いようですね。つまり幽霊や悪霊の類い、魔女や堕天使の一族、龍に妖犬、幽馬の群れといった怪物連中までがこのなかには含まれているわけです。我が国の「妖怪」みたいなimageです。

 これ、フロイトやユングを経た時代に生きている我々にとっては、もう、自明のことではないでしょうか。我が国で「鬼」と言えば朝廷に反逆するもの、あるいは被差別民です。彼の国で「妖精」と呼ばれるものもまた、人間でしょう。ただ、これは特定の集団を指すより以上に、人間の無意識とか、アニマ、アニムス、シャドウといったものを体現しているように思えます。

 角度を変えて考えてみましょう。妖精と戯れるとは、どういうことか。本来、妖精とは人間世界の存在観からすれば非在の存在であり、謂わばポエジー、もともと実体のない空想の仕事なのです。だから人は成人するとともに、妖精とは縁が薄くなる。幼児体質の人間、あるいは詩的素質に恵まれた人間だけが、ふとしたときに、妖精が傍らを通り過ぎてゆくのを感じとることができるのです。

 成人すると、青春時代のように己の自我と格闘することがなくなる。これは自我と折り合いを付けたとも言えるし、また「見て見ぬ振り」をしているだけとも言える。それでは幼児体質の人間、あるいは詩的素質に恵まれた人間とは? 20世紀の文学者ならば、アポリネールやコクトー、画家ならマリー・ローランサンといったところでしょうか。おわかりですか? いずれも、人間の無意識領域に目を向けることのできる(芸術)人たちです。

 さらに、神秘主義、幻想的なものに惹かれる人々。これも実例を挙げましょう―

 コティングリー妖精事件は有名ですよね。エルシーとフランシスというふたりの少女が写したポートレイトに妖精が写っていた。この妖精写真の真偽を巡って、世界じゅうが大騒ぎした事件です。コナン・ドイルはこれを「本物」と鑑定して「妖精の訪れ」という本にまとめていますが、後に83歳になったエルシーが、あれは作り物だと告白しています。なぜ当時白状しなかったかと問われて、有名なドイル先生の名声を落としてはいけないと思ったこと、それに息子に先立たれて、霊界と交信したくて妖精や心霊術にのめり込んでいたドイル先生に同情したためだとこたえています。



コティングリー妖精事件から「エルシーとノーム」(左)、「フランシスと翔ぶ妖精」(右)

 つまり「見たい人」「実在して欲しい人」の前に、妖精は現れるのです。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「妖精の時代」 キャサリン・ブリッグズ 石井美樹子、海老塚レイ子訳 筑摩書房
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「妖精の到来 コティングリー村の事件」 アーサー・コナン・ドイル 井村君江訳・解説 アトリエサード
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Diskussion

Hoffmann:コナン・ドイルの本はいま「妖精の到来 コティングリー村の事件」という表題、井村君江の訳・解説でアトリエサードから出ているね。

Kundry:その本は私も読みました。ドイルも必ずしも全面的に肯定しているわけではない・・・のは、コティングリー事件そのものであって、妖精の実在は信じているようなのですね。


Klingsol:Parsifal君の言うとおり、「信じたかった」んだろうな。

Kundry:以前、UFOとか宇宙人についてHoffmannさんがお話ししたときに、妖精譚にもふれましたよね。

Hoffmann:そう、この妖精が20世紀も半ばを過ぎると、UFOになり、宇宙人になるわけだ。この時代、妖精というのが人間の想像力の限界だったんだよ(笑)


Parsifal:無意識領域だけど、表象化されるとすれば、そのひとの意識が「知っている」ものにしか、投影されないんだよ。世のなかには未知のものというのはあり得ない(だって、未知なんだから・笑)。たとえはじめて出くわしたものであっても、既知のものにしか見えない、そのように認識されてしまうんだ。