039 「世にも怪奇な物語」  ”Histoires Extraordinaires” (1967年 仏・伊) ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ






 これは本日取り上げる映画のスチール写真。

 エドガー・アラン・ポオの小説を題材に3人の映画監督が競作したオムニバス映画です。当初企画段階では7人の映画監督が予定されていたそうですが、完成されたのは3作のみ。実現しなかったのはジョゼフ・ロージー(「約束ごと」)、クロード・シャブロル(「タール博士とフェザー教授の療法」)、オーソン・ウェルズ(「赤死病の仮面」と「アモンティリャードの酒樽」)、ルキノ・ヴィスコンティ(「メルツェルの将棋指し」と「告げ口心臓」)・・・ちょっと観てみたかったですね、ザンネン。

 余談ながら、私ならヴィスコンティに「大鴉」、ケン・ラッセルに「リジイア」、リリアーナ・カヴァーニに「アモンティリャアドの酒樽」、ヴェルナー・ヘルツォークに「黄金虫」あたりを任せたいところです。あ、鈴木清順に「鐘楼の悪魔」なんてのもいいかも・・・誰です、ユルグ・ブットゲライトに「ヴァルドマアル氏の病症の真相」を撮らせようなんて言ってるのは?(笑)

 第一話 「黒馬の哭く館」 ロジェ・ヴァディム



 さて、第一話「黒馬の哭く館」はロジェ・ヴァディム監督、出演はジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダ。

 原作は「メッツェンガーシュタイン」ということになっています。中世の古城や野山を舞台に、美しく驕慢な姫と若者をめぐる物語。何不自由なく、勝手気ままな令嬢の欲求不満は、荒々しい野性的な馬に表象化されています・・・が、映画としては二流と言わざるを得ません。百歩譲って時代考証(あり得ない衣装など)には目をつぶるとしても、ナレーションで設定や登場人物の内面を説明しなければならないなんて、どうかと思います。大昔の「昼メロ」、「よろめきドラマ」じゃあるまいし(古っ・笑)どうも、ロジェ・ヴァディムの映画は傑作か駄作か、両極端で、どちらかというと駄作の方が多いかも。やっぱり「さよなら夏のリセ」は火事場の馬鹿力だったんでしょうか。

 第二話 「ウィリアム・ウィルソン」 ルイ・マル



 第二話はルイ・マル監督による「ウィリアム・ウィルソン」。出演はアラン・ドロン、ブリジット・バルドー。原作はタイトルどおり、これはかなり忠実にストーリーを追っていますね。出演者は豪華です・・・が、それだけ。アラン・ドロンもブリジット・バルドーも、私の好みから遠いところにあることは別にしても、退屈な凡作です。イカサマで相手を負かしたドロンが、その代償としてバルドーを裸にし、鞭をふり上げて、思う存分にその肉体を傷つけるあたりの倒錯的な描写も、ただそれだけ。原作に変更を加えて、最後のカード・ゲームの相手を女性にした理由は、ブリジット・バルドーを使ってこのシーンを撮りたかった(見せたかった)だけなんじゃないでしょうか。これまた、「好奇心」とは比べるべくもありません。

 ちょっと気になったシーンがあったので、そこだけ紹介しておきます。少年時代、寄宿学校生のウィリアム・ウィルソン―

 

 ノートにインクを垂らして、デカルコマニーをやってますね(笑)できあがったのはロールシャッハテストの画像みたいです。

 第三話 「トビーダミット」 フェデリコ・フェリーニ

 さて、第三話はフェデリコ・フェリーニ監督による「トビー・ダミット」。原作は「悪魔に首を賭けるな」なんですが、かなり換骨奪胎しておりまして・・・

 

 幕開けは夕陽に染まる空港。この禍々しさ、のっけからフェリーニ・ワールド全開です。

 

 主人公はテレンス・スタンプ演じるイギリスの俳優、トビー・ダミット。彼は「福音書の贖罪を西部劇に置き換えた」映画に出演するためローマに招かれ、この空港に降り立ちます。やって来たのは報酬のフェラーリがお目当てだから。

 

 彼は白い鞠を持った少女の幻影につきまとわれています。

 

 トビー・ダミット自身、アルコール中毒で、じつはもう1年も仕事をしていない俳優なんですが・・・

 

 イタリアの映画界(テレビ界)の面々が、これまたマトモではない、ほとんど変質者か偏執狂の集団、グロテスクで退廃的。テレンス・スタンプは、アル中でありながらこの場ではまだしもまともに見えるという難しい演技を、ほとんど完璧にこなしています。



 挨拶もそこそこにスタジオを飛び出したトビー・ダミットはフェラーリで暴走・・・。

 

 壊れて渡れない橋。そこにはあの少女の姿が・・・。

 

 第一話、第二話と期待を外された後で、意表を突いたクライマックスの築き方―白い鞠を持った少女で、これはマリオ・バーヴァ Mario Bava の「呪いの館」”Kill Baby... Kill!”(1966年 伊)からの引用ですね。


”Kill Baby... Kill!”(1966)Mario Bava

 フェリーニというと大作のイメージがありますが、このような短篇でも独自の世界を構築しているのはさすがです。とにかく暑苦しくて汗くさい。人間社会の猥雑な側面を描かせれば、このフェリーニとパゾリーニが双璧でしょう。

 ちなみにポオの「悪魔に首を賭けるな」という小説は、なにかというと「悪魔におれの首を賭けよう」と言う男が、奇怪な老人の挑戦を受けて・・・という話。ここでは、トビー・ダミットは「悪魔に首を賭ける」なんていちども発言せず、また悪魔も老人ではなくて少女の姿です。しかし原作をかなり離れていても問題なし、ちゃんとこの監督の刻印が見て取れる傑作です。

 トビー・ダミットが出演する映画で演じるはずだったのは、西部劇の草原に現れるキリスト役だったわけですよ。草原に現れるキリストといえば「マタイ伝による福音書」の、悪魔の誘惑に晒される場面です・・・で、キリストは悪魔との問答で誘惑を退けるのに対して、トビー・ダミットは誘惑に負ける立場なんですね。破滅型の主人公です。そこで誰しも気付くのは、ここで描かれている猥雑な世界で、その異常さから唯一逃れられているのが、少女の姿をした悪魔なのです。たしかに、フェリーニ映画では、少女が無垢のイメージで扱われることが多いんですよね。



 このシーンで披露しているのは、シェイクスピアの「マクベス」の第5幕第5場ですね。前後も含めて小田島雄志訳で引用すると―


 明日、また明日、また明日と、時は
 小きざみな足どりで一日一日を歩み、
 ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
 昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す
 死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
 つかの間の燈火! 人生は歩きまわる影法師、
 あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、
 出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる
 物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
 意味はなに一つありはしない。


(Hoffmann)



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参考文献

 とくにありません。