041 「吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲」 ”Nosferatu - Eine Symphonie des Grauens” (1921年 独) F・W・ムルナウ




 本日はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ Friedrich Wilhelm Murnau の歴史的名作、「吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲」”Nosferatu - Eine Symphonie des Grauens”(1921年 独)です。

 

 F・W・ムルナウは1888年生まれの、戦前ドイツ映画を代表する巨匠です。「フォーゲルエート城」“Schloss Vogeloed”(1921年 独)、「最後の人」(1922年 独)や、渡米してハリウッドで撮った「サンライズ」”Sunrise:A Song of Two Humans”(1927年 米)あたりを代表作とするべきでしょうか。つまり、別にホラー映画の専門家というわけではありません。「サンライズ」はアカデミー賞2部門を受賞しています。もっとも、ハリウッドの水は合わなかったようで独立プロを設立、その第1回作品「タブウ」”Tabu:A Story of the South Seas”(1931年 米)のプレミアに向かう途中、交通事故で亡くなられました。1931年、わずか42歳、惜しいですね。なお、死後のことを語っておくと、ムルナウは同性愛者だったという噂が表面化して、葬儀に出席したのは勇気ある11名のみ。そのなかにはグレタ・ガルボもいて、彼女はムルナウのデスマスクをとり、机に飾っていたそうです。


Friedrich Wilhelm Murnau

 「吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲」はムルナウの出世作にして、あらゆる吸血鬼映画の原点と呼ぶべき傑作です。原作は言うまでもなくブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」なんですが、ストーカー未亡人が映画化を許可しなかったために、監督のムルナウと脚本のヘンリク・ガレーンは登場人物の名前をオルロック伯爵とし、ヴァン・ヘルシングはブルワーに、ハーカーはフッターに、ミナはエレンに、舞台もロンドンからブレーメンとするなど、かなりの変更を加えて映画化しました。ちなみに「ノスフェラートゥ」というのは「不死者」という意味。ところがそれでもストーカー夫人から訴えられて、裁判の結果フィルムは哀れ焼却処分に。ああ、なんてこった。しかし、残念なことに、ありがたいことに、フィルムの焼却は完全履行されず、いまに我々が観ることができるわけです。



 原作とはかなり異なったimageを持つオルロック伯爵役はマックス・シュレック。じつはマックス・シュレックは本物の吸血鬼だった、という設定で「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」”Shadow of the Vampire”(2000年)という映画まで作られていますが、たしかにそんな発想が生まれてくるような、なんとも異様な容貌の役者です。紳士然としたベラ・ルゴシとも、貴族的でありながら野獣が発情したようなクリストファー・リィなど、後にドラキュラを演じたとはまったく異なっており、社交性もなく、堂々としたところもなく、どことなく気弱で内省的に見えます。



 光と影の動きを巧みに利用した恐怖演出はたいへん美しく、その後さんざん模倣されることになります。

  

 伯爵のブレーメン侵略はペストの流行としてあらわされます。

 

 吸血鬼を退治するには「無垢な女性が自分の血を犠牲にすること」とされており、エレンは自らの女性性を利用して、伯爵に自らの血を吸わせ、夢中になっていた伯爵は夜明けを迎えて日光により消滅してしまうという結末。心臓に杭を打たれたりはしません。

  

 第一次大戦後のベルリンで設立された映画会社プラーナ・フィルムの第一作で、かなり力が入っていたのでしょう、1921年の夏から秋にかけて撮影され、完成して検閲に出されたのは12月、当時としては異例とも言うべき長い撮影期間でした。このため、この作品は1921年作品と書かれる場合と1922年と書かれる場合があるのですが、前者は制作年で、後者は公開年であるわけです。

 ベルリンのプリムス=パラストでのプレミア上映は1922年3月4日。この日には豪華にして奇抜なパーティまで催され、プラーナ・フィルムがこの映画に描けた宣伝費も相当なものであったようです。ストーカー夫人が著作権侵害で訴えなかったとしても、制作費を上回る宣伝費と放漫経営、実体があるのかないのか怪しげな金融機関からの援助を当てにして、結局会社は見事に倒産。裁判の方は1925年に、「ノスフェラートゥ」のすべてのネガとポジ・プリントを破棄せよということで決着。

 ところが、失われたはずのプリントをイギリスの輸入業者が所持しており、これをロンドンで上映しようとしたものの、検閲で恐ろしすぎるからとクレームがついて公開できず。次にこのフィルムがあらわれたのが1928年。これを公開したのがイギリスのフィルム・ソサエティ。ストーカー未亡人が抗議するも、フィルム・ソサエティは、当社はストーカー家から「ドラキュラ」映画化権を取得しているアメリカのユニヴァーサル社のロンドンの代理人ユーロピアン・フィルム・カンパニーの許可を得ていると主張、半ば強引に上映。その後フランスでも上映されて、プリントはアメリカにも渡っています。

 その後1929年3月になって、フィルム・ソサエティはストーカー未亡人にフィルムを手渡し、焼却されてしまったのですが、どうやら焼却処分を逃れたフィルムが存在して、編集に手を加えていくつかの場面が追加された作品が上映されるなどといったこともあり、可能な限り制作時の状態に修復されて、いまに至っているわけです。

 長らく流布してきたのはアメリカで編集された62分版ですが、パブリック・ドメインとなって新しく音楽を入れた81分版、84分版なども作られました。これは台詞字幕の表示時間をどうするかによって差が出る程度のことなので、あまり気にする必要はありませんが、私が持っているDVDはcritical editionでoriginalに近い94分版です。

  

 なお、オルロック伯爵という名前は「カリガリ博士」(1919年 独)のロベルト・ウィーネも使った名前で、「オルロックの手」(1925年 独)という作品がありますね。これはピアニストのオルロックが列車事故で両手を失うが、処刑された殺人鬼の両手を移植、やがて彼はその手に操られるかのように、殺人に走る。このオルロックを「カリガリ博士」でツェーザレに扮したコンラート・ファイトが演じています。

 「オルロック」という語はオランダ語で「戦争」という語の響きを持つことから、伯爵が潜む荒れ果てた館や棺の行列は、ペストをimageさせるだけでなく、第一次世界大戦の体験をも表現しているとはよく指摘されるところです。


(おまけ)

 先ほどお話の中に出てきました、じつはマックス・シュレックは本物の吸血鬼だった、という設定で作られた映画、「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」”Shadow of the Vampire”(2000年 米)は、この設定からも察せられるとおり、じつに映画愛にあふれた作品です。そのうちに取り上げたいですね。


「シャドウ・オブ・ヴァンパイア」”Shadow of the Vampire”(2000年 米)から―


(おまけ その2 予告篇)

 
右は 「ノスフェラトゥ」”Nosferatu”(1978年 独)から―

 さて、この「吸血鬼ノスフェラートゥ」がパブリック・ドメインになったことで制作されたのがヴェルナー・ヘルツォーク監督によるリメイク版、「ノスフェラトゥ」”Nosferatu”(1978年 独)です。
リメイクというのはたいがい出来が悪いものですが、これは例外中の例外で、不気味さも悲哀感もより増幅された傑作です。その予告編ということで、上の画像をご覧いただきましょう。


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 それではちょうどいい機会なので、ここでサイレント期の映画でよく使われた手法、フィルムの染色について少し説明しておきます。

 サイレント期のフィルム染色について

 今回取り上げた「吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲」の画像をご覧ください。あるいは、以前取り上げた「フォーゲルエート城」”Schloss Vogeloed : Die Enthullung eines Geheimnisses”(1921年 独)の画像でも結構です。各場面がブルー、グリーン、ピンクなどの色になっていますよね。あれはフィルムが染色されているためです。

 もともとのフィルムは白黒だったわけですが、どうした考えからフィルムを染色するようになったのか、当初の意図は分かりません。しかし、すぐに幅広い用途が見出されていきました。

 たとえば夜間の場面。当時のフィルムですから感光度も低く、撮影は困難、満足なロング・ショットを撮ろうとすれば大量の照明が必要になります。しかし、夜間にとったクローズアップと昼間に撮ったロング・ショットをつなぎ合わせて、その全体を青く染色すれば、立派に夜のシーンとして通用します。

 これをうっかり白黒で複製してしまったものを観ると(つまり染色のない状態で観ると)、後の時代の観客はなんらかの初歩的なミスか、昼間の撮影を強引に夜のシーンだと言い張っているものと考えてしまうわけです。

 やがて、普通の昼間のシーンは琥珀色、火事のシーンは赤色、早朝ならば金色、日没はピンク色というように、さらに細かい色分けが試みられるようになります。もちろん、こうした染色は、各場面の雰囲気を演出したり、劇的効果を高めるのにも、大きな威力を発揮しました。

 映画の染色は、映写技師が映写機のレンズの前に着色したゼラチンをかざしたときにはじまったと言われています。その後、フィルムが染色されるようになったのですが、同時に調光も行われるようになります。つまり、暗い部分は色を付けて、明るいハイライト部分はそのままに保つわけです。これを染色すると二色カラーの効果が得られました。

 編集技師は監督と相談して、琥珀色は琥珀色の、ブルーならブルーのシーンをひとつなぎにして、現像所に送る。これが染色されて戻ってきたら、もう一度もとどおりに並べ直してワーク・プリント(編集作業用のプリント)にする。サイレント期によく使われた手法は、銀を色の付いた金属化合物に置き換えるというもので、たいていはフェロシアン化合物で、あたたかいブラウンは硫化物、緑がかった黄色はバナジウム、赤みがかったブラウンはウラニウムといったもの―。それぞれの化学物質の溶液の入った大桶があって、フォルムをそこに浸して染色したのです。

 しばしば誤解されるのですが、手彩色ではありません。手彩色は1921年に9種類のカラーが導入されて、染色技法が一般化するよりも前の時代のものです。手彩色では多くの場合、シミや斑点などの色むらが画面上でゼリーのようにぐらぐら揺れてしまうのですが、1900年前後に開発されたフランスのパテカラーはこの分野でもっとも優秀であったそうです。これは費用も手間もかかるもので、ヨーロッパでは手彩色がある程度続けられましたが、アメリカでは普及しませんでした。

 染色が廃れたのは、トーキーになると、染色処理はサウンドトラックに支障を及ぼすためです。もちろん、フルカラーになれば当然手彩色も染色も不要になりました。


(Hoffmann)


参考文献

「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会





(追記) ヴェルナー・ヘルツォークの「ノスフェラトゥ」upしました。(こちら