019 「ソラリス」 スタニスワフ・レム 沼野充義訳 ハヤカワ文庫




 原題は”Solaris”、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが1961年に発表したSF小説です。最初の日本語訳はロシア語版からの重訳で、「ソラリスの陽のもとに」という表題でハヤカワ文庫から出ていましたが、これは旧ソ連で検閲により削除された箇所が含まれていませんでした。そうしたところ、2004年にポーランド語の無削除版からの直訳が「ソラリス」の表題で国書刊行会から刊行され、2015年にはハヤカワ文庫に入りましたので、これを取りあげます。


Stanislaw Lem

 簡単にあらすじを追っておきましょう。

 時代は未来。意思を持った海に表面を覆われている惑星ソラリス。主人公ケルヴィンは惑星上空に浮かぶソラリス・ステーションに到着し、ステーションで発生する奇妙な現象と「海」の謎を探ろうとする。

 ステーションに到着した研究員ケルヴィンは先任者のひとりであるスナウトに会うが、まともな会話が成立しない。別の研究員ギバリャンはすでに自殺しており、サルトリウスは自室に閉じこもっている。研究員たちは、ステーションに存在しないはずの人間が出現するという奇妙な現象により、精神的に苛まれていたのだった。

 ケルヴィンの居室にもほどなくして、何年も前に自殺した恋人ハリーが死ぬ直前の年頃の姿で現れる。謎の人間たちは、ケルヴィンら4人の研究員の記憶をもとにして「海」が生み出したコピーだった。彼らが「客」と呼ぶそれは、一見人間のようだが、怪我をしてもすぐに再生するなど、人間ではありえない。ケルヴィンらはそれぞれ自分の「客」のオリジナルに関して強い情念やトラウマを持っており、「客」との生活で精神が蝕まれてゆく。

 ケルヴィンは亡きハリーの死に対する自責の念に苦しみながらも、「ハリー」に好意を持つようになる。一方で、ソラリス学の研究史を振り返りながら「海」の真意を探ろうとする。

 サルトリウスらは「客」を物理的に消滅させる方法を考案し、準備を進める。ギバリャンが残した音声記録を聞いた「ハリー」は自分が「海」によって作られた存在であること、そしてケルヴィンに苦痛を与えていることを知り、サルトリウスの装置で消滅させられることを自ら選ぶ。

 そして「ハリー」を失ったケルヴィンは、ソラリスの地を踏み・・・。

 この小説のテーマとして語られるのは、未知の生命体とのコンタクトです。未知の生命体、すなわち地球外の知的生命体ですが、見かけはヒューマンではなく、「海」。広大で一見無機質に見えるが、知的な活動は行われている。しかしその意図や目的は人間が理解し得るものではない。それでもソラリスの「海」はたしかに知的な活動をしている・・・。

 これを相手にしようとする人類は、友好関係を結ぶこともできない、侵略することもできない、侵略されることもない、ソラリスはただそこに存在しているだけなのです。ソラリスの「海」は「客」を作り出しますが、そうした活動に意図や目的はあるのか。あるかもしれないが、そんなものは所詮人間の解釈にすぎず、「海」に意思があるかどうかもわからない。そもそも意思だの目的だのという解釈はソラリスの海に通用しないのです。

 「友好関係を結ぶこともできない、侵略することもできない、侵略されることもない」というのは、ほかならぬスタニスワフ・レムがロシア語版に寄せた序文に基づいたものです。以前出ていたロシア語版からの重訳「ソラリスの陽のもとに」(飯田規和訳)の「訳者あとがき」にその序文が翻訳紹介されているので少し引用すると―


 SFは、ことにアメリカのSFは・・・ほかの惑星の理性的存在との接触のありうべき可能性について三つの紋切型ができあがっている。その三つを要約して言えば、相共にか、われわれがかれらに勝つか、かれらがわれわれに勝つか、という定式になる。・・・それは、地球的な諸条件―つまりわれわれがよく知っている諸条件―を宇宙という広大無辺な領域に単に機械的に移しかえたものにすぎない。・・・相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似が存在しなかったら、どうなるか?・・・私はこの問題をもっと広い立場から解明したいと思った。・・・その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。(引用者注・・・は中略)

 そして、ソラリスの世界をこのようなものとして描いたのは、「認識的な問題ではなくて、芸術的性格の問題である」と書いています。

 コンタクトの対象はソラリスの「海」がケルヴィンの記憶から作り出した「客」である「ハリー」なのでしょうか。違いますよね。「ハリー」はケルヴィンの「トラウマ」が実体化したものです。つまりケルヴィンのソラリス(ソラリス・ステーション)への旅は、ケルヴィンの内面への旅なのです。

 ところで、映画の方、すなわちタルコフスキーの「惑星ソラリス」は、一般的にはどのように受け取られているのかというと、美しく幻想的な惑星ソラリスで、ケルヴィンの記憶から決して消えない負の記憶である「ハリー」に自責の念と葛藤しながらも心惹かれる様子が美しく描かれた、「地球外での切ないラブロマンス」といった印象を、多くの人からは持たれているようです。その分、人間という枠を超えた未知とのコンタクトというテーマは薄められてしまっていると。タルコフスキーはソラリスという舞台を使って、あくまで人間の理解の範囲内の話―過去のトラウマ、しかも恋愛にかかわるもの―を美しく、儚く表現した、と。じっさい、スタニスワフ・レムはタルコフスキーの映画を気に入らず、ふたりは大喧嘩したと伝えられています。

 しかし、タルコフスキーの映画は本当に上に述べたような意図で作られているのでしょうか(そうかもしれません)。映画化にあたって「人間の理解の範囲内の話」にしてまとめてしまっているのでしょうか(そうかもしれません)。(でも)もしかしたら、映画を観ている側の我々が、自分のなかで「人間の理解の範囲内の話」に変換してしまっている、ということはないのでしょうか。

 そこで、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」についての話になりますが、これはページを改めることにいたします。


(Parsifal)


※ 映画を観る 001「惑星ソラリス」 に続きます。(こちら


引用文献・参考文献

「ソラリス」 スタニスワフ・レム 沼野充義訳 ハヤカワ文庫
「ソラリスの陽のもとに」 スタニスワフ・レム 飯田規和訳 ハヤカワ文庫 (ロシア語からの重訳)

「完全な真空」 スタニスワフ・レム 沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄訳 河出文庫



Diskussion

Hoffmann:以前出ていたロシア語からの重訳版しか読んでいなかった。

Kundry:私もです。

Hoffmann:映画は観たけど。というか、タルコフスキーの映画は観られる限り、観た。

Klingsol:スタニスワフ・レムは、実在しない架空の本の書評集「完全な真空」しか読んでいなかったな。

Parsifal:レムにしてもタルコフスキーにしても、読者(鑑賞者)を楽しませようというサービス精神とは無縁の人だよね。
 まあ、今回は続きがあるからその後でまた話そう(笑)