001 「惑星ソラリス」(1972年 露) アンドレイ・タルコフスキー






 「映画を観る」のページ、第1回目めはアンドレイ・タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」です。

※ 本を読む 019 「ソラリス」 からの続きです。(こちら

 もちろん、スタニスワフ・レムの「ソラリス」を原作としているのですが、冒頭の地球上でのエピソードは原作にはありません。主人公の父親も母親も原作には登場しない。またタルコフスキーによる宇宙ステーションでの物語は、もっぱら主人公と、ソラリスが主人公の記憶の中から再合成して送り出してきた、かつて自殺したハリーとの関係に集中しています。レムがテーマとした、「人間と、意思疎通ができない生命体との関係」について展開した小説とは、かなり異なって見えます。

 なので、レムはタルコフスキーのこの映画がまったく気に入りませんでした。一方タルコフスキーの方も、そもそもSF小説に特別関心があったわけではなかったようです。タルコフスキーはキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観た際には「人間の道徳の問題を忘れている」と言っています。タルコフスキーにとって、自身の映画制作において重要なのは、なによりも人間の心の問題なのです。



 冒頭の川の流れ、蠢く水草、それは時の流れを暗示して、ソラリスの「海」とも呼応しているように観えることから、この映画がロマンティックなドラマであると印象付けられてしまいかねないのですが、その視覚的な美しさにとらわれなければ、後にたびたび(9回)映し出されるソラリスの「海」は極めて活動的で、運動と生成を繰り返していることに気付かれるでしょう。

 そもそもレムの原作においては、コンタクトの対象はソラリスの「海」がケルヴィンの記憶から作り出した「客」である「ハリー」ではなくて、あくまでもソラリスの「海」です。しかし、コンタクトは不可能なわけで、登場人物(あるいは作者)にできることは、ひたすら思弁的な物語を紡いでいくことだけです。

 では「ハリー」はなにものなのか。これはケルヴィンの「トラウマ」が実体化したものです。つまりケルヴィンのソラリス(ソラリス・ステーション)への旅は、ケルヴィンの内面への旅なのです。

 抑圧されたものは必ず代理表象を経由して物語として徴候化するものですから、抑圧されたものを直接名指すことは、原理的には不可能です。この「名付け得ぬもの」を「トラウマ」と命名したのはフロイトですね。トラウマは個人の正史には位置付けられていないので、語ったり評価したりする言語がその人自身には欠落しています。つまり、もしもトラウマが言語化できたとしたら、その人の人格そのものが失われたときです。つまり、自己同一性を保ちながらトラウマを語ることはできないのです。

 ところが、この映画ではそのトラウマが実体化してケルヴィンの目の前に姿を現している。ある経験から目をそらしていることで成り立っている人格が、いまその経験に向き合わざるを得なくなっているわけです。苦痛の原因を寛解するために、あえてトラウマに気付かせ、語らせるという精神療法においてだって、そこで語られることは現実にあったことではなく、「物語」なのです。言わば、「記憶の創出」です。

 「ハリー」は、この「記憶の創出」の過程で苦しんでいるのです。それはつまりトラウマと向き合おうとしている、向きあわざるを得なくなっているケルヴィンの苦しみです。ときどき挟まれるケルヴィンの記憶の映像は、ケルヴィンの作り話―記憶や欲望について語るとき、宿命的に避けることのできない「嘘」なのです。この嘘のおかげで、ケルヴィンは精神的に破綻せずにいられるのです。

 しかし、トラウマそのものである「ハリー」はどうか。ケルヴィンは自らのトラウマと折り合いをつけてゆく目処が立ったとしても、トラウマが現実の生のなかに共存できるはずもなく、再びケルヴィンの内面、当人にも説明のできない、さまざまな症候を生み出す言語化できない穴の彼方に抑圧されてしまわざるを得ないのです。すなわち、ケルヴィンの前からは消滅してしまう・・・。

 これが、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を観ていて、ただしケルヴィンへの、またとりわけ「ハリー」への感情移入を可能な限り廃したとき、私が観たと思ったものです。

 原作ではケルヴィンがソラリスの地を踏んだところで物語は終わりますが、映画の最後では、地球に帰還したケルヴィンが父親の前に跪く―しかしそれはソラリスの「海」に浮かぶ島なのです。家のなかに雨が降っている(水がしみ出している)ことから、この家も父親も、ソラリスの「海」が作りだしたものなのでしょう。それではここで跪いているケルヴィンは、ソラリスにとどまったケルヴィンなのか、あるいはこれもソラリスの「海」が作り出した「ケルヴィン」なのか・・・。ここに「悔恨」と「贖罪」が読み取れるところが、原作が語っていることと、映画があらわそうとしているものの、もっとも大きな違いでしょう。



 いかがでしょうか、解釈の余地がある以上、映画も小説も、監督(作者)が意図したとおりに(明確に意識していたとおりに)できあがっている、とも限らないものです。

(Parsifal)




参考文献

「映像のポエジア 封印された時間」 アンドレイ・タルコフスキー 鴻英良訳 ちくま学芸文庫
「聖タルコフスキー 時のミラージュ」 若菜薫 鳥影社



注意! CRITERION COLLECTION版Blu-rayは画質・音声ともに良質ですが、英語字幕のみ。日本語字幕はありません。



Diskussion

Hoffmann:「禁断の惑星」(1956年 米)ではイドの怪物が実体化するが、「惑星ソラリス」ではトラウマが実体化するわけか・・・。

Kundry:今回あわててポーランド語からの直訳版の「ソラリス」を読んだのですが、十分、タルコフスキーに歩み寄れる程度に、ロマンティックな小説だと感じましたよ。

Klingsol:よく「ハードSF」ということばを聞くけれど、たいがいは似非科学にそれらしい理論付けを施しているだけだよね。「ソラリス」はその意味では「ハードSF」ではない。理論を語っているよりは、思想・思弁を展開している小説だ。

Parsifal:難解ではないよね。とくに終わり近くになって、ケルヴィンがソラリスの地を踏んでくると言い出すあたりから以降は、かなり感傷的な雰囲気が漂ってきている。まあ、「愛の奇蹟」ってのは、信じていないけれど・・・。

Kundry:信じていないんですか?(笑)でも、私はトラウマ説も悪くはないと思いますが、同時にケルヴィンの男性的願望の投影でもあると思いますよ。これは原作者の意図しないことだとしても、そのように見えます。

Hoffmann:それが液体酸素を飲んで自殺を試みたりするのも願望?

Parsifal:だからトラウマだと思うんだけどな。でも、たしかに「ハリー」の容貌なんか美化されているんだよね。

Hoffmann:よけいなことかもしれないけど、あのシーンはおそろしくエロティックだね。水に濡れているからメリザンドを連想してしまったけど・・・



Kundry:原作ではケルヴィンはなおもソラリスの海に向き合おうとしているのですが、映画では(ソラリスの海に浮かぶ島での情景ですが)父親の前に跪く―という結末ですよね。映画であらわされているのはノスタルジーなのではないかと思えるのです。その意味では映画の方がより感傷的ですよね。もちろん、だからといって安手のメロドラマなどとは思いませんけれど。

Parsifal:あの結末はたしかに、そうだね。内面への旅の行き着いた先がノスタルジーだとすると・・・これはかなり感傷的といわざるを得ないなあ。

Hoffmann:川(水)の流れが時間の不可逆性をあらわしているというのはわかるんだけど、ソラリスの渦巻く海は「抑圧」なんじゃないかな。そこに顕れた島とかケルヴィンの家や父親、もちろん「ハリー」も、抑圧された心的エネルギーの症候化―つまり夢とか妄想とか神経症とかなんじゃないかな。



Klingsol:なるほどね。だからステーションの学者たちは精神的に不安定になって、自殺者も出た。さらに、できることなら「客」を消滅させたいと・・・。

Parsifal:こうして話しているとおもしろいな。だから、「解釈の余地がある以上、映画も小説も、監督(作者)が意図したとおりに(明確に意識していたとおりに)できあがっている、とも限らないもの」なんだよ(笑)