024 「草のみずみずしさ 感情と自然の文化史」 アラン・コルバン 小倉孝誠、綾部麻美訳 藤原書店 今回はアナール学派を代表するフランスの歴史学者、アラン・コルバンの本を取りあげます。 アナール学派”L'ecole des Annales”は、フランス現代歴史学の潮流のひとつで、「アナール」というのは「年報」の意味。現在でも発刊が続くフランスの学術誌「社会経済史年報」”Annales d'histoire economique et sociale”に集まった歴史家が主導したために、こう呼ばれるようになりました。 旧来の歴史学が、もっぱら戦争などの政治的事件を中心とする「事件史」や、ナポレオンのような高名な人物を軸とする「大人物史」の歴史叙述に傾きやすかったことを批判し、それまで見過ごされていた民衆の生活文化や、社会全体の「集合的記憶」に目を向けることを訴え、専門分野間の交流が推進し、とくに経済学・統計学・人類学・言語学などの知見をさかんに取り入れたのが特徴です。 アラン・コルバンの著作は我が国でも少なからず翻訳され、「浜辺の風景」「空と海」「木陰の歴史」といった自然と風景をめぐる研究で知られるほか、「においの歴史」「音の風景」といった五感をテーマとする感性の文化史と呼ぶべきジャンルを確立したと言っていいでしょう。 Alain Corbin この本は、いま書名だけ挙げた「木陰の歴史」の姉妹編です。副題にあるとおり、草を取りあげながらも、草に伴うその時代その場所での人間の感情を語り、論じたものです。簡単に内容をたどってみると― 西洋では古代から自然の重要な一要素として草が穏やかさ、清純さ、素朴さ、神聖、楽園性など、さまざまな価値の源泉として評価されてきた。 旧約聖書では、草は3日めに創造され、動物や人間に先立っており、草は始原の風景を構成して、自然のことばで人間に話しかける。 田園は揺籃であり、子供時代の自然体験が草上での遊戯や活動の記憶と強く結びついているため、時に無意志的記憶を呼び起こす。 牧場や草原で憩い、そこを散策するという行為が人々の視覚、触覚、嗅覚など多様な感覚を目覚めさせ、季節ごとの変化、一日のうちの時間の変化で、我々自身の生命の変化が現れ出たり、隠れたままで呼びかけてきたりする。人には観照することばかりでなく、踏み入れる歓びも、もたらされる。草は一時の避難場所であり、休息の場である。こうして人々を甘美な夢想へと誘い、見ること、香りを嗅ぐことの快楽につながっていた。 草や草原のなかに棲息する昆虫や小動物の世界に向けられたまなざしが極小世界を拡大して、人間と交流する。 他方で、こうした幸福な記憶とは別に、牧草地には管理と作業が付きものであるから、草刈りや収穫など時には過酷な労働の場でもある。 また、花壇や庭の芝生は、所有者の富や社会的地位を示すものとしての社会的差異化の記号ともなる。ここでは花壇の花や草は列から外れることを許されず、従属させられる。すなわち自然の制御が見られる。公園や緑地も公共の散歩道に新しいエリートの感性を反映するような枠組みを備えることが目的。かれらは、道徳的、衛生的な意図にかなう自然を眺めることを望む。 とりわけ草(地)と文学の結びつきが鮮やかに露呈するのは、草原が女性の存在を想起させるシーンである。草のなかに女性が思いがけず姿を現すこと、女性の素足が草を踏むさまがエロティシズムの源泉として、古代から詩人たちによって謳われてきた。そして牧神のイメージが、草を絨毯に、寝床とは異なる敷物にする 直射日光のもとで、背や膝は草と直接触れ、自然と親密に、調和をつくりだし、しばしば斬新な欲望と歓喜のかたちをもたらす。これは人間に楽園の記憶を呼び起こす。 墓地や廃墟に生える草がまるで緑の経帷子のように、地面や、墓石や、崩れた壁を覆って、生と文明の終焉を象徴する。ここでは、牧場も、その完全な平坦さゆえに、自死の場また事故死の場となる。墓地の草は神聖なもので、死からの隠れ場所として草は世を去ったものの思い出を守ることができる・・・。 ―以上のような流れです。 じつは、これではこの魅力的な本の内容を紹介したことにはなりません。著者は、上記のような人間の感性、感情の表象を、多くの作家や詩人の小説、詩、日記や手紙などに求めて、頻繁に引用することで示しているのです。 従って、わずかながらでもこの本における、草と人間の間にある情動の多様性と表現の美しさを紹介しようとすれば― 田園は「無垢のゆりかご」(ベルナルダン・ド・サン=ピエール)であり、休息の場は「孤独のひじ掛け」(ルネ・シャール)である。 ―これで伝わるでしょうか。あるいは― アラン・コルバンは、「死者の草」、その草は人間の推移の象徴であるとして次のように引用する― 「しかしながらご婦人は朝から晩までを野の草のように過ごしていかれました。朝、花を咲かせていました。いかほどの優美さをもってか、ご存知の通りです。それが晩には枯れていたのです」(ボシュエ、フランスの司教) 「かれらの栄光は草のように枯れる」(フレシエ フランスの説教師) 「わたしは野の草のように枯れてしまった」(シャトーブリアン) とくにイギリスでは、墓地の茂った芝は神聖であり、それを損なうことは言語道断である、とした出発点から、著者が次々と引用するのは、フローベールの感情はこれとはまったく異なるとして・・・ユイスマンスが登場人物に語らせたのは・・・そしてゾラの登場人物は別の感受性を示すとして・・・それより一世紀前のゲーテは・・・アメリカではホイットマンが・・・ラマルチーヌは・・・ヴィクトル・ユゴーはこれほど陰鬱ではなく・・・ロンサールは・・・と、コルバンは草に寄せる、人の感性を示してゆく。 ―いかがでしょうか? 原題にあるとおりの、「草」をめぐる「さまざまな感情の歴史」”histoire d’une gamme d’emotions”がどのように展開されているか、その一端だけでもご理解いただけたでしょうか。これもまた原題にあるとおり「古代から現代まで」”de l’Antiquite a nos jours”ですから、感情を表象するための引用元となる作家や詩人は、古くはウェルギリウスからマルセル・プルースト、ロンサール、ウォルト・ホイットマン、ヘルマン・ヘッセ、ローベルト・ムージル、ピエル・パオロ・パゾリーニ、その他の現代詩人にまで及び、さらに哲学者、画家など、その名前は到底ここには並べきれないので、ぜひともこの本を手に取って、巻末の人名索引をご覧いただきたいと思います。 この本は書店では歴史書の棚に並んでいますが、言わば「草の文学史」、「草」をテーマにしたアンソロジーです。 緑の、柔らかな絨毯のような牧草地を散策するように、ゆっくり、ときに微風を頬に感じ、虫のかすかな羽音を耳にしながら、この本を読むのがおすすめです。 Caspar David Friedrich ”Wiesen bei Greifswzld” カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの「グライフスヴァルト近くの草原」 この本の第4章の口絵にも採用されています。 (Parsifal) 引用文献・参考文献 「草のみずみずしさ 感情と自然の文化史」 アラン・コルバン 小倉孝誠、綾部麻美訳 藤原書店 今回とくに参考文献はありませんが、アラン・コルバンの著書でのおすすめをいくつかご紹介― 「木陰の歴史 感情の源泉としての樹木」 アラン・コルバン 小黒昌文訳 藤原書店 ※ 「草のみずみずしさ」の姉妹編。 「静寂と沈黙の歴史 ルネサンスから現代まで」 アラン・コルバン 小倉孝誠、中川真知子訳 藤原書店 ※ 静寂や沈黙の効果について。音で空間と時間を飽和させようとしている現代における意味について論じる。 「時間・欲望・恐怖 歴史学と感覚の人類学」 アラン・コルバン 小倉孝誠、野村正人、小倉和子訳 藤原書店 ※ 19世紀フランス、資本主義勃興の時代における女性史と近代都市をめぐる問題について論じている。 「風景と人間」 アラン・コルバン 小倉孝誠訳 藤原書店 ※ 詩や絵画における風景のなかの人間について、ジャーナリストの質問に答えるかたちで語られている。 以上、比較的入手しやすい本です。 Diskussion Hoffmann:引用が多彩だね。フランス人だからユゴー、ゾラ、プルーストなんかは当然として、田園詩はウェルギリウスだし、ペトラルカにパゾリーニの詩まで・・・。 Kundry:パゾリーニって、あの、映画監督の? Klingsol:そう。もともと20歳の時に詩人としてキャリアをスタートさせているんだよ。 Parsifal:詩篇103の神の賛歌だけどね、「人間、彼らの日々は草のようだ/野原の花のように花咲く。/風が通れば、花はもうない、/花がいた場所はその花を忘れた」というのは、「ペトロの手紙1」と似ているね。 Klingsol:「旧約聖書」でも「新訳聖書」でも、草はすばやく繁茂してすぐ枯れるというので、とくに人間の「はかなさ」をあらわすために使われている箇所は多いんじゃないかな。 Parsifal:ドイツ語で言うと― Denn alles Fleisch es ist wie Gras undo alle Herrlichkeit de menschen wie des Grases Blumen. Das Gras ist verdorret und die Blumen abgefallen. Hoffmann:訳すと― 人みな草のごとく、 その栄華はみな草の花に似ている。 草は枯れ、 花は散る。 Parsifal:そう。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の第2曲「人みな草のごとく」の歌詞だよ。もとの「ペテロの手紙1」では「あなたがたが新たに生まれたのは朽ちる種ではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言によったのである」と語られた後の詩句だな。「花は散る」の後には「しかし、主の言葉は、とこしえに残る」と続くんだよね。 Hoffmann:ブラームスの第1曲では「悲しんでいる人たちは幸いである。かれらは慰められるであろう」と、「マタイ福音書」の「山上の垂訓」の詩句ではじめられ、そのあとに「詩篇」からとった「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」と続いている。第2曲はこれを受けて、枯れる草ではなく、「朽ちない種」の詩句を選んでいるわけだ。 Kundry:ブラームスの「ドイツ・レクイエム」はHoffmannさんのお好きな作品ですよね(笑)お気に入りのdiscをご紹介いただけませんか? (追記) ブラームスの「ドイツ語によるレクイエム」のdisc紹介のページ、upしました。(こちら) |