058 「晩夏」 アーダルベルト・シュティフター 藤村宏訳 集英社(世界文学全集 Belage 第31巻)




 アーダルベルト・シュティフターの「晩夏」、いわゆる「教養小説」と呼ばれるものです。「教養小説」とはドイツ語で”Bildungsroman(ビルドゥングスロマン)”。”Roman”というのは長篇小説という意味、”Bildung”が「教養」と訳されている語で、なにかを形づくること、形成することを意味しています。この場合は人間形成ですね。ドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイが、「シュライアーマッハーの生涯」という本のなかで、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を中心に、それに類似した作品群を指す言葉として使用したのがはじめです。主人公がその生きている時代のなかで、さまざまな経験を通じて人間的に成長してゆく、その人間形成の過程を描いた小説を名付けたもので、「発展小説」”Entwicklungsroman”と呼ばれることもあります。

 その、「教養小説」の、ゲーテ以後の代表的な作品として挙げられるのが、ノヴァーリスの「青い花」、ヘルダーリンの「ヒュペーリオン」、ケラーの「緑のハインリヒ」、そしてこのシュティフターの「晩夏」です。


Adalbert Stifter

 この長篇小説のstoryは、ほとんどひと言かふた言で説明できます―

 ある自然科学者がリーザハ男爵の屋敷を訪れて、若かりし頃の男爵のマティルデとの恋物語を聞き、マティルデの娘ナターリエと結ばれる。若き日の恋が実らなかった年長者たちは諦念のうちにより高貴な自己を形成し、若者たちはその精神的遺産を受け継いで高貴な人生のうえに幸福な生活を築きあげようとする・・・。

 ・・・これだけです。

 フリードリヒ・ヘッベルは「この小説を終わりまで読み通した人にはポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評、一方でニーチェは、ドイツ散文文芸のもっとも完全なもののひとつとして、繰り返し読むに値する「ドイツ文学の宝」であると賞賛しています。また、リルケは「この小説は、物静かな穏やかな人によって、ゆっくりと朗読されなければなりません」と言っています。この小説は時の流れにそって書かれているため、特有のリズムがある、そのリズムに合わせてゆっくり読まなければならない、ということです。

 上記ではあんまりなので、もう少し詳しくあらすじを紹介すると―

 主人公ハインリヒはウィーンの富裕な商人の息子で、両親は健在。相続した遺産もあって、食べるのには困らない境遇にあり、地質学の研究に専念している。

 ある日調査旅行中に嵐を避けるため立ち寄った屋敷には薔薇の花が咲き誇っている。この家の主人リーザハの自然、学問、芸術に造詣が深く、ハインリヒは彼と親交を結び、その指導を受ける。リーザハはいまは引退しているが、かつて官吏として高い地位にあり、その功績により男爵の位を与えられた人物。毎年リーザハを訪ねてくる母娘マティルデ、ナターリエとも親しくなり、ハインリヒはナターリエと愛し合うようになる。

 じつはリーザハはマティルデと深く愛し合っていたが、彼女の両親から認められず、このためリーザハは勉学に励んで官吏となって高い地位に就くまで勤務に邁進したのだった。リーザハもマティルデもそれぞれに結婚していたが、いずれも配偶者を早くに亡くし、いまはリーザハとマティルデは精神的なつながりで結ばれ、人生の晩夏の時期をすごしている。そして自分たちには与えられなかった幸福を得ようとしているハインリヒとナターリエを祝福する・・・。

 ・・・いかがでしょうか。storyに起伏が乏しい・・・というより、storyがないといった印象ですね。書かれていることといったら、美術品の描写、大理石をどのように加工した、食卓にはどのように並んで座った・・・といったことばかり。それに、いっさいの悪が排除されていて、「立派なひと」「いいひと」しか登場しない。貧困も、差別も、裏切りも諍いもない。マイナス要因がまるでないのです。主人公とナターリエの恋にもまったく障害はなく、なにひとつ不自由のない境遇でめでたしめでたし・・・(笑)

 小説のはじめの方で、話者(主人公)が両親のことをこんなふうに語っています―


 母はやさしいひとで、私たちを大変かわいがってくれた。・・・(中略)・・・そして私たちにとっては、一点の非の打ちどころもない父と同様に、尊敬すべき善の模範であった。

 自分の父母なんですから尊敬するのは結構ですが、ここまで完全無欠な人物として両親を紹介するような男は、批判精神の欠如した世間知らずの若者ではないかとさえ疑いたくなります。それにこんな完璧な善人や道徳家なんて、小説のなかではあまりに現実味に乏しいですよね。こうした登場人物たちの「幸福な」生活を延々と語られたら、退屈しないほうが不思議なくらいです(笑)

 じつは、シュティフターを取り巻く環境は、必ずしも平穏なだけのものではなく、政治に対してはあまり積極的な態度をとってはいなかったものの、三月革命では旧体制の転覆と革命の成り行きに期待を寄せ、しかしものの見事にその期待は裏切られ、「中庸と自由」を求める彼はウィーンを離れます。しかしシュティフターはそうした時代状況を一切無視しているのですね。あえて、書かない。書かないぞ、という決意さえ感じられるのです。

 この小説が発表されたのは1857年です。隣のフランスではボードレールの「悪の華」とフローベールの「ボヴァリー夫人」が発表されています。フランス文学は古典悲劇を模倣した完結的なものであって、社会に対して対立的・批判的であることが半ば常識化しています。ところが、ドイツ小説、とりわけ「教養小説」と呼ばれる作品群は。現実社会を善きものとして、肯定的に生きる主人公を描きます。その主人公の性格やものの考え方は、あらかじめ「できあがって」はいない、小説の中で学んでゆくのです。ということは、その生き方は概して「受け身」であるということです。事件は主人公の内的成長を導くための舞台を用意するだけで、事件としては完結しません。美的な均整と旋律のかわりに、部分部分の考察があって、綿密な自然描写も物語の筋とは無関係に、展開される。しかも孤独な人間と自然との無限の対話こそがドイツ小説の特徴ですから、これが長い。

 ・・・聞いていると、なんだか退屈そうだなあと思いませんか。そう、退屈なのです(笑)

 ドイツ教養小説はヨーロッパにおける後進国ドイツが、普仏戦争後、列強の仲間入りをして近代国家の仕組みを整えた(と自覚した)ときに登場したものです。つまり、希望に満ちていた時代だからこそ、未成熟な人間が、人生の経験を通して社会の一成員になるという近代国家にふさわしい人間の物語が成立し得たのです。ルネサンス以来の、人間が齢を重ねるに従って精神的に深まり、高められてゆく、という近代精神の信仰が生きていた時代なんですね。しかし、人間精神はそんなに前途洋々たる希望に満ちたものでないことはいうまでもありません。人間の人格はそんなに統一的に一貫したものではない。

 だからこそ、ゲーテのような、つねに発展成長し続けようという精神には価値を認めざるをえないとも言えるわけです。人格的な統一が最良の目標であるかどうか、必ずしも断定はできないとしても、孤高を貫こうとする姿勢はやはり立派なものです。そう考えてみれば、「晩夏」も、教育や労働によって、またいろいろな経験を経ていくことによって、人間の精神が改革されていく、それこそが人類の希望であった近代人の視点(あえて思想とは言いませんよ)で書かれた記念碑的小説であるということがおわかりいただけるのではないでしょうか。ただし、記念碑といっても、すでに失われた希望へのメモリアムなのかもしれません。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「晩夏」 (集英社版世界文学全集31) アーダルベルト・シュティフター 藤村宏訳 集英社

 ※ 過去にちくま文庫から上下2巻本で出ていましたが、いまは品切れか絶版のようです。再刊希望のハガキを出しましょう(笑)



Diskussion

Hoffmann:誤解のないように付け加えておこう。「退屈」「退屈」と言ってしまったけれど、これはなかなか価値ある、心地よい退屈なんだよ。

Klingsol:ニーチェが「晩夏」とともに称賛したのはゲーテの「エッカーマンとの対話」、リヒテンベルクの「箴言集」、ケラーの「ゼルトヴィラの人々」・・・だったね。シュティフターはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセも評価している。

Parsifal:影響を受けたということではないけれど、トーマス・マンもヘルマン・ヘッセも「教養小説」を書いているね。

Kundry:ゆっくり読めというのはわかりますね。作品の時間の流れに合わせていったほうが愉しめますね。

Hoffmann:指揮者のフルトヴェングラーはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を指揮するにはシュティフターを読んでいなければならない、と言っている(笑)

Parsifal:天候とか森の自然とか、自然を自然として、自然のために書くよね。物語の効果造りのために書くのではない。よく言えば、書き割りではない、そのものを書こうとしているのがいいよね。だからフルトヴェングラーもそう言ったんだろう。そこに、ブラームスやブルックナーの作品名を入れてもいい。


Hoffmann:日本では島木健作の「生活の探求」が有名だけど、まったく評価されていないよね。読んでみれば、たしかに退屈なんだけど(笑)でも、個人的には「晩夏」は主人公がことさらに「深刻ぶらない」、あらすじのところで述べたとおり、食べるのには困らない境遇だから。こういう設定を、とくに我が国では「結構なご身分ですなあ」と、はじめから拒否してしまう傾向がある。

Klingsol:日本はプロレタリアートの自然主義が根付いてしまっているからね。


Kundry:ただ、どうしても、ラスコーリニコフやヒースクリフの方が、小説の登場人物としては魅力があるというか・・・生彩がありますよね(笑)

Klingsol:トルストイの「アンナ・カレーニナ」の書き出しは、「幸福な家庭はどこも同じようなものだが、不幸な家庭の事情はさまざまだ」・・・だからね。幸福な人生図というものは退屈なものだということになってしまったんだ(笑)

Parsifal:やっぱり近代小説はイギリス、フランス、ロシアなんだね。それでも、E・T・A・ホフマンなんか、フランスに影響を与えている。やっぱりホフマンが突然変異的な作家だったのか・・・。

Hofmann:ドイツの作家で、本当に国際的に関心を持たれたのは、先ほどParsifal君が名前を出したトーマス・マンとかヘルマン・ヘッセあたりが草分けなんじゃないか?

Klingsol:ドイツの小説って、なんでも考察の対象になるから、随想録を読んでいるような気分にさせられるよね。登場人物は常に作者の哲学の代弁者なんだ。そうした傾向は、トーマス・マンやヘルマン・ヘッセに至っても見られるよ。

Kundry:クラシック音楽の話になりますが、ある演奏家が年月を経てある作品をレコーディング(再録音)すると、必ずといっていいくらい、やれ表現が深まったの、やれ演奏の奥行きが増したのと、ほめられますよね。ところが、若い頃の方がずっといい演奏だったりすることもあるんですよ。再録音を褒めるのは、発売されたCDを売ろうという商業主義的な都合だとは思いますが、やはりここにも人間は成長し、発展するものだという盲目的な信仰がいまに生きているのかもしれませんね。

Hoffmann:人間精神への盲目的な信仰や、成長発展することへの信頼については、引き続き別な本を取り上げて話してみよう。