064 「源氏の君の最後の恋」 (「東方綺譚」) マルグリット・ユルスナール 多田智満子訳 白水社




 清少納言が恋愛というものをほとんど遊戯化して、自由で明るい「色好み」を描いている(実践もしていたでしょう)のに対して、紫式部が描く「源氏物語」は、まるで近代人の悩める自我を描いているように思われます。「色好み」どころか、むしろ反「色好み」の姿勢で、恋の駆け引きも高級な遊びの感情からではなく、もっと客観的に容赦なく分析する対象としているのですね。「源氏物語」のそうしたところが、現代にも通じる、当時としては新しい文学的視野だったのでしょう。

 その「源氏物語」に「雲隠」という、内容が1行もない空白の巻(帖)があることはよく知られていますよね。このあとに続く物語は、八年間が経過して後の、光源氏の死後の話になっています。「雲隠」というのは高貴なひとの死を意味することばで、つまり「雲隠」において光源氏は死んでしまったということなんですが、紫式部はその光源氏の死を書かなかったのです。従って、「源氏物語」を五十四帖と数えるときには、「雲隠」は含まれていません。

 室町時代あたりには「雲隠六帖」という偽作も生まれています。書かれていない部分を後世の人が想像して書き足しているわけです。本居宣長も六条御息所と源氏の恋のはじめを偽作して、刊行までしていますね。やはり、「源氏物語」ともなると、後の時代の読者は空白部分を埋めてみたくなるようです。

 フランスの閨秀作家マルグリット・ユルスナールもまた、「雲隠」にあたる短編小説を書いています。それが今回取り上げる「源氏の君の最後の恋」です。



Marguerite Yourcenar

 五十路にさしかかり、そろそろ死ぬ心づもりをしなければならないと悟った源氏の君は、山里にある庵に住まい、都との音信も間遠となっていた。昔の恋人の二人か三人が追憶に満ちた彼の独居をわかちたいと申し出ていた。なかでもやさしい手紙はかつての恋の相手のひとり、母性的でおだやかな、しかし比較的影の薄い花散里からのもの。彼女は返信がないので、源氏の庵を訪ねる。せめて下婢としておそばにと嘆願するが、還らぬ昔の日々の痛切な思い出を呼び起こすこの女を前にして、源氏の君は苦い怒りから彼女を無情に追い払う。

 やがて源氏の君がほとんど盲目となったころ、花散里が若い百姓女の着るような粗末な着物で、村娘風に変装して名も百姓総平の娘、浮舟と偽り、再び庵を訪ねてくる。そして18年以上も彼をつつましく慕い続けていた花散里は再び源氏の君の情人となる。ところが、じつは山で迷ったというのは嘘で、源氏の君に会いたくて来たのだと言うと、源氏の君は怒って彼女を追い出してしまう。

 二か月後、花散里は今度は宮廷を知らぬ地方の名家の若妻を装って庵を訪れ、新たな偽装もとに、源氏の君の情人となり、眼の見えない光源氏はその心やさしい女性と最期の日々をすごす。

―そなたは器用で心やさしい。恋にかけては世にも倖せな人であった源氏の君でさえ、そなたほど優しい恋人を得たとは思われぬ。

 ついに秋の終わりに死に瀕して、光源氏は告白する。

―死にゆく者をみとってくれる若い女性よ、わたしはそなたをあざむいていた。わたしは源氏なのだ。

 花散里はこたえる。

―・・・でも、あなたさまは、愛されるためには源氏の君である必要はございませぬ。

 死の床で光源氏はかつて愛した女たちを次々と思い浮かべてゆく。「私の最初の妻、死んだあとでようやくその愛が信じられたあの葵の上」、「わたしの腕のなかでこときれた夕顔」、そして空蝉、長夜の君、百姓総平の娘・・・しかし、花散里の名前だけが思い出されない。花散里は、堅い枕にがっくりと頭を落とした源氏の上に身をかがめてつぶやく。

―お館には、いま名をおあげにならなかったもうひとりの女が居りませんでしたか? やさしい女だったでしょうに。そのひとの名は花散里ではありませぬか? 思い出してくださいませ・・・
 しかし源氏の君のかおばせは、すでに死者だけのもつあの清澄さを示しつつあった。・・・花散里はあらゆる慎みをかなぐりすてて、泣き叫びながら地にひれ伏した。・・・源氏が忘れていた唯一の名はまさしく彼女の名であったのだ。


 皮肉な恋の物語ですね。


(Kundry)



引用文献・参考文献

「東方綺譚」 マルグリット・ユルスナール 多田智満子訳 白水社



Diskussion

Parsifal:容赦のない残酷さを書かせると、女性の作家にはかなわないね。

Kundry:「60『回転木馬』」が皮肉な青春の物語だったので、私は皮肉な恋の物語を取り上げてみました。しかも、この白水社版の「東方綺譚」の帯には、中村真一郎が一文を寄せています。まさしく、「源氏の君の最後の恋」について、「内容が一行もない『雲隠』の巻の奇想溢れる偽作」と書かれています。

Hoffmann:翻訳もユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」(白水社)で有名な多田智満子、装幀は野中ユリと、完璧な本だよね。ちなみに、「ハドリアヌス帝の回想」は、三島由紀夫がこの翻訳者名は女性だが、男性ではないのか、と疑っていたんだよね。

Klingsol:光源氏の思い出す名前のなかで、「長夜の君」・・・というのは?

Kundry:これは訳注に「不詳。こんな人物はいないはず」とありますね。ほかにも、官職名や固有名詞には「いささか不適切」なものがあったので、適当に修正したり省略したりしたところがあるそうです。

Parsifal:それでも、ユルスナールはすばらしいよね。やっぱり「ハドリアヌス帝の回想」がいい。

Klingsol:個人的には「ピラネージの黒い脳髄」(白水社)もよかった。翻訳は同じく多田智満子だ。

Hoffmann:ユルスナールは翻訳が出たものはすべて読んだけど・・・「ハドリアヌス帝の回想」ももちろんいいし、高校生の頃には散文詩風の短篇集「火」(森開社)がお気に入りだった、これも翻訳は多田智満子だね。しかしなんといっても、大作・長篇好きとしては「世界の迷路」三部作がとくに好きかな。「追悼のしおり」(岩崎力訳)、「北の古文書」(小倉孝誠訳)、「なにが? 永遠が」(堀江敏幸訳)の三巻だ。これも白水社。第III巻は未完のまま絶筆となったのが残念だけど、書き上げたところまでは刊行してよいという遺言のおかげで読めるのだからありがたい。第III巻の刊行が2012年の予定を大幅に遅れてずいぶん待たされたような気がしていたけど、いま奥付を見たら出たのは2015年か。

Kundry:話を「源氏物語」の方に移しますが、もちろんアーサー・ウェイリー Arthur David Waley の英訳は戦前から有名で、海外の読者の多くはこれに頼っていたんですよね。

Klingsol:ウェイリーは第三十八帖「鈴虫」を丸ごと省略しているんだけどね。

Kundry:いまはフランス語訳もありますよね、「源氏物語」はフランスではどのように受けとられているのでしょうか?

Klingsol:ルネ・シフェールの仏訳かな。五十四章の大河小説で、各章それぞれ独立したものとして読むこともできる、と捉えているみたいだね。比較されたり喩えられたりするのは、やはりプルーストが多いみたいだ。紫式部を最初の近代女流作家として、エミリー・ブロンテやヴァージニア・ウルフ、マルグリット・ユルスナールを彼女の妹たち、と言っている人もいる。女流作家が男性的エゴチスムを暴いている、という批評はおそらくフェミニズム系の評者だろう。封建社会における宮廷社会の繊細な魂は、彼らを支える貧民や農民の悲惨にはまったく関心がない、という平安社会に対する歴史的批判もあるけど、概ね自然と季節、「もののあはれ」という人生の儚さの感情に注目しているようだね。