113 「従軍日記」 久生十蘭 小林真二翻刻 講談社文庫




 久生十蘭がフランスの遊学したのは1929年のウォール街大暴落から満州事変後の日本大国際的孤立を挟んだ1933年までのこと。日本人留学生としては肩身の狭い思いをしたのでは・・・いや、久生十蘭のこと、ぜんぜん気にしていなかったかもしれません(笑)気にしていたとしても、そんな素振りを見せないのがjuranism(十蘭イズム)。

 そしてはじめて「久生十蘭」の筆名を使用したのが「金狼」発表時の1936年。二・二六事件の年です。1940年には国防文芸聯盟常任委員兼評議委員となり、同年10月には岸田國士の大政翼賛会文化部長就任に伴い文化部嘱託となっています。


久生十蘭

 そして1941年に「新青年」誌に派遣されて中支に従軍、1943年2月から翌年2月まで海軍報道班員として南方戦線へ。その1943年2月24日から9月9日まで、検閲を免れてひそかに記されていた手帳の記述が「従軍日記」として残され、読むことが出来るようになっています。

 その内容は・・・戦地の見聞と、あとは飲む・打つ・買うの日常です(笑)戦争の帰趨などどこ吹く風、それどころか己の生死すら特段気にもかけず、概ね倦怠のうちにあり、これではいけないと思うこともあったようで、本を読む。それも飲む・打つ・買うとほとんど同じく、淡々と、書かれている。いや、そもそも久生十蘭が淡々と生きていたのかも・・・。

 これは日記文学なのか? どうも手帳に書かれていたという点から推測すると、他人に見せるわけではなく自分用に記録したものと見てもよさそうですね。随筆をほとんど書かず、ということは、作品世界の向こう側に身を潜めて素顔らしきものを見せようとしなかった久生十蘭の私的な記録と思えば、たしかに貴重な資料です。いや、いま「資料」なんて言ってしまいましたが、やっぱりそこは久生十蘭なりの「作品」になっているように思われます。

 そもそも「日記」とはなにか?

 「日記論」の著者ベアトリス・ディディエによれば、日記作者には外部から内部に向かう動きがあり、内部は日記のおかげで発見し、発達することが出来るということになります。日記を付けることには平安と内面性の隠れ家を再び発掘することであって、つまり日記は安心感を与えてくれる場所でなのです。その文章は、読み返せば後戻りが出来る記憶装置。日記作者の夢は、最後には一種の虚無にまで退行する、つまり死の願望と虚無への回帰の願望が重なり、自我の存在を誰よりも強く感じ、また読者に感じさせもするはずの作者が、おそらくは自我の消滅と不在の感覚をもっとも明確に抱いている・・・。

 また、日記作者は自分を裁き、自己採点をする。十分仕事をしなかった、本を読まなかった・・・そうして自分を責めること、また日記を付けること自体にマゾヒズム的快楽の味付けがあると考えられる。すなわち受動性のあらわれ。実生活では表面化しないですんだかもしれない態度も取らされてしまう。それでいて、孤独のうちになされる際限のない自己注視は、ナルシシズム的な経験を重ねることと等価で、日記作者はその麻痺状態の中に閉じこもることとなる。

 自我は決してひとつではなく、肉体と魂が区別されており、日記作者は分離した肉体の幻覚にとらわれている。だからこそ、生活と時間とによって引き裂かれた精神の包括的imageを回復してくれる鏡として、日記を使って自我探究の旅をしているというわけです。鏡、それは他者の眼差しであって、日記は自己の分身を創り出しているのです。

 だから、日記作者は日記を発表しないとどんなにかたく決めていても、常に多少とも読者を気にかけているのです。なので、必ず語られていない部分もある。抑制が働いている。日記は、現実を簡略化することではじめて見出される統一性に達するのです。母胎回帰のように、はじまりにあった根源的で郷愁に満ちた至福の状態を回復する―創作の欲動を前提としながらも、作品を創り出すまでには至らない、幸福で、怠惰で、無責任な、統一性と安全な状態を日記の中で回復しようとしているのです。

 それでは、戦時下における日記を書く動機には意味があるのか?

 戦時下の日記といえば、しばしば「後世への証言」という思い入れ、すなわち日記を付けることの動機が見られます。たとえば清沢洌の「暗黒日記」などがそう。戦時下の見るもの聞くもの、狂気ならざるはないという世相を細大漏らさず記録しておきたいという動機です。ましてや言論は封じられています。開戦当時からはじめている徳川夢声、伊藤整、武井武雄も同様です。戦争末期に日記を付けはじめた添田知道、海野十三、一色次郎などは直接の動機は空襲を記録することにあったようで、これは当時の世相の資料として貴重なものでしょう。

 対して、久生十蘭の「従軍日記」はどうかというと、どうもこの人は自分という「個(人)」への関心が強くて、世相を記録しておこうといった動機は窺いにくいところがありますね。日本軍の戦況なんかも、とりたてて記載してあるわけではない。それでも、「資料」としての価値を見出すことの出来る側面はあるのですが、やはりこれは久生十蘭の「作品」なのではないかと思われます。

 たとえば風俗小説はその時代、その社会を知るにはたいへん重要な資料になりますが、文学作品としては一流とは申せません。しかし、思索的な文学作品がその時代の世相を知る一時資料とはなりにくい。久生十蘭の「従軍日記」はわりあい作品と資料のバランスがとれたもので、どちらかといえば作家・久生十蘭の立場に、より軸足が置かれている作品・記録となっているように思われます。

 それでは、久生十蘭の「従軍日記」を読んでみましょう。

 日記原本は全部で3冊。未亡人が2冊目の途中まで清書していたものも発見されています。この清書がなければ「翻刻」は不可能だったでしょう。活字化に際しては、反復・冗長・瑣末な部分を整理したとのことで、結果8割程度の抄録となっているそうです。フランス語(単語)が頻出するところが久生十蘭らしいところですね。

 飛行機でまず着いたのがスラバヤ。第1章は飲む打つ買うの日々で、さすがに本人も自己嫌悪に陥っているのが、どことなく微笑ましい。

 
※ 買春が道徳的に責めを負うような時代ではなかったことをご理解下さいよ。

 スラバヤにおける7月4日(日)の日記から―

入って見ると、大して広くもないサロンに三人のプロンパンがいる。みな大分酔っているらしく、一人だけはガウン風のナイトドレスを着ているがあとの二人はほとんどnuである。奥の椅子の三十六七のプロンパンは最も酔い、ひどく上機嫌に泳ぎ廻る。一人は大柄な顔をしたえらい大女、ナイトドレスのほうはハンガリーの田舎女のような少しオドオドした少し単純な顔をしている。これがいちばん若い。

おれとmarth長椅子で話す。このほうはキャンプ入十四日后に迫っているらし。それについていろいろ話し、明日から十四日毎晩来てくれぬかという。なるたけ来るようにしようというと、SureかSureか、といくども念を押す。しかし、おれにしてももう間もなく前線へ行く身ゆえ、この約束こそ、いわば果敢(はかな)きものなり。森鴎外の「おもかげ」などという古い小説の中の話のようにていささか心惹かる。急速にamoureuxなり。間もなく近藤君merryと出てくる。そのあとへ入る。なにかvifなり。むしろextaseなる如し。あわれに思えり。マンデーをし、Quatre〈en un〉litなり。もう午前五時に近し。


 
プロンパンとは女性のこと、nuはヌード。marth、merryは女性の名前。amoureuxは恋をしている、愛情に満ちたの意。vifは生き生きとした、激しい、extaseは陶酔、恍惚、マンデーは水浴、Quatre〈en un〉litは4人でひとつのベッド。

 第4章でクーバンに移り、以後前線基地を転々とするようになると、記述の調子が若干変わります。といっても戦闘があるわけではないが、ここでは一人残らずみな対空戦闘の配置につくので、防空壕などというものはない。7月20日には、「空襲があったら私はどこに居ればいいですか」と尋ねると「従兵君、そうですなあといって大して問題にもしていないようすである」なんて会話もある。結局第一砲台の指揮所へ、ということになって、念のために案内してもらって場所を確認。すると、翌21日の朝には「配置につけ・・・配置につけ」の声で起こされ、前日教わった指揮所まで「おれは一散に走」って、飛び込むことになる。

 第5章、前線基地のアンボン島のベンテン砲台における8月9日(月)の日記から―

そのうちに運転兵が「来ました来ました、上へ来ています」と叫ぶ。エンジンの音でおれにはきこえないが敵機はもう近くの空の上にいるらしい。右手の海岸から突然、赤い光った玉が空へ孤を描いて打ち上げられる。曳光弾を打ち出した。オープンの幌から空を見上げると頭の真上に吊光弾が宙吊りになってフラフラと動いている。曳光弾の赤い色と吊光弾も薄青い色が交り合って行手の道路と左右の椰子林を奇妙な色に染め上げる。行く手のやや遠くでズドン、ズドンとえらい音がする。

道路の上で動いているものはこの自働車ばかり、上からハッキリ見えるはずで気が気でない。いまにも銃撃されそうでならない。停められるものなら停めて林の中へでも走り込みたいような気もするし、やはりそれでも助からないような気もする。自働車がのろくのろく感じる。砲声はいよいよはげしくなり、曳光弾が赤い玉をあげる。思わず腰が浮き、固唾をのむ。早く早くと心があせる。幌へつかまって空を見上げる。今やられるか今やられるかとあえぐ。ようやく、砲台の上り口へつく。もう少し、もう少しとあせる。


 
第7章ニューギニアではマラリアを恐れ、第8章では昼間の空襲に遭う。戦況に関する記述がないので、読んでいて形勢がどうなのか、読者としては想像のほかないわけですが、おそらく十蘭だって分からなかったんでしょう。そんな日々にも、本を読んで読後感なども記されています。

 日記はこれからマイコールに向かうところで終わります。さすがに日記をつける余裕がなくなったのか・・・じつはこの後11月末に十蘭の留守宅に行方不明との電報が入っているんですね。ところが翌年1月に無事が判明して2月に帰国しています。この間、どこでなにをしていたのか不明なんですよ。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「従軍日記」 久生十蘭 小林真二翻刻 講談社文庫


「日記論」 ベアトリス・ディディエ 西川西川長夫/後平隆訳 松籟社


「日記の虚実」 紀田順一郎 新潮社




Diskussion

Parsifal:久生十蘭は最近文庫化されているよね。リバイバルの気風はたいへん結構なことだ。

Klingsol:この人は長く読み継がれてゆくべき作家だね。微妙に時代精神を超越してしまっているところがある。

Hoffmann:作品の再利用があるよね。そんなとき、同じようなテーマでも立場を変えて語っているときがあるんだ。そこが久生十蘭ならではなんだな。

Kundry:私は海外文学、とりわけフランス文学の影響を感じますが、影響とか模倣というよりも「利用」なんですよね。自家薬籠中のものにしているんですよ。そうしたことを可能にする視点が、この「従軍日記」の記述にもあらわれているような気がします。