059 「ブリキの太鼓」 ”Die Blechtrommel” (1979年 西独・仏) フォルカー・シュレンドルフ




 胎内回帰願望、すなわち外界から隔絶された、薄暗い、生暖かい、小さな秘密の空間でぬくぬくとしていたいという欲望です。洞窟、壺、箱など、内部が空洞になっている物体がなにを象徴しているかといえば、つまり子宮。子宮というのは、この世に生まれたすべての人間が、かつて棲んでいたところです。だからそこへ行くということは帰ること、すなわち回帰すること。子宮に再び帰りたいという欲求は、無意識の層で、子供のみならずあらゆる大人の記憶にも結びついているものです。

 この子宮願望をガストン・バシュラールは「ヨナ・コンプレックス」と呼びました。ヨナは旧約聖書に出てくる人物。航海中に嵐に遭って海に投げ込まれて魚に呑まれて三日三晩鯨の腹の中にいた。やがてエホバの祈りにより、魚の口から吐き出されたのですが、こうした巨大な生き物の腹の中に呑み込まれはしないかという、恐怖と魅惑のアンビヴァレンツ(反対衝動)を伴った、無意識の感情がヨナ・コンプレックスです。これも子宮願望の一種。


ギュスターヴ・ドレPaul Gustave Doreによる「大魚に吐き出されたヨナ」

 類話はたくさんありますよ、一寸法師が飛び込む鬼の口も、トロイの木馬も、江戸川乱歩が押し入れに閉じこもったのも同じこと。部屋から出てこない引き籠もりだってそうかも知れない。それぞれの小部屋が意味するものはどれも子宮であり、かつて我々が棲んでいた懐かしい故郷なのです。なにかにかこつけて、隙あらばもぐりこみたい・・・。

 ユングはこのヨナ・コンプレックスを敷衍して、ここに錬金術の理論を適用しました。つまり、人々が憧れている故郷とは子宮の羊膜を満たす水であり、万物を生成する元素としての水であると―。これは人間を含むすべての生物の源が海であるという考えとも合致しているわけです。そう、女性の性器は母なる海なのです。漢字で書いても、「海」という字のなかには「母」という字が含まれている、と歌ったのは三好達治でしたっけね。すべての人間は、誕生以前に胎児の状態で、暖かい平和な水に守られて、幸福に、ぬくぬくと過ごしていた、その記憶が無意識の中に眠っているのです。

 余談ながら、小さな箱、小さな容れ物という子宮の象徴は、同時に棺のimageでもあります。死者を収める箱、それが同時に母胎でもあり、ヨナの例で説明すれば、三日三晩というのは、墓の中で復活の日を待つキリストなのです。子宮という人間の最初の棲み家と、棺という最後の棲み家は、人間を外界の脅威から守ってくれる、もっとも平和でやさしい場所と同じimageを持つ、等価な存在なのですよ。言うまでもなく、埋葬もまた母なる大地への回帰であることを思えば当然ですよね。死とエロティシズムはこうして結びつくのです。



 さて、「ブリキの太鼓」”Die Blechtrommel”は、ドイツの作家ギュンター・グラスが1959年に発表した処女作。この長篇小説の第一部を映画化したのがフォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」”Die Blechtrommel”(1979年 西独・仏)です。以前、フォルカー・シュレンドルフの映画を取り上げたときには、あまり好意的に語りませんでしたが、こちらの「ブリキの太鼓」はいいですよ。

 1920~40年代の激動のポーランドを舞台に、3歳で自らの成長を止めた少年オスカルの視点で見た世界を描いたもの。このオスカル少年には、誕生日のプレゼントにもらったブリキの太鼓を叩きながら奇声を発するとガラスが割れるという不思議な能力があります。

 なぜ最初に胎内回帰願望の話をしたのか、もうおわかりですよね。この映画の冒頭にしてからが、オスカルの祖父、放火魔のコリャイチェクがジャガイモ畑で焼き芋を頬張っているカシュバイ人農婦アンナ・ブロンスキの4枚重ねのスカートの中にもぐりこむ場面です。ああ、大地母神の緞帳ならぬスカートよ!



 生まれ落ちるより以前、生まれる前から、オスカルは母の胎内から出たくなかった。それでも引っ張り出された上に、へその緒が切られてしまって万事休す―。

 そしてチャンスは3年後。ブリキの太鼓を手に入れた3歳の誕生日に、故意に地下室へと下りる階段からコンクリートの床の上に転落して、この事故をその後の成長停止の原因と偽装することに成功します。こうしてオスカルは成長を止めて擬似的に胎内回帰を図ろうとするわけです。そんな3歳児の視点で世界を見ているのがこの作品。3歳児ですからね、批評を加える必要はないし、好きなこと、したいことをしていればいい。「生活することなんか下僕にまかせておけ」と―。



 そこはそれ、原作は20世紀文学ですからね。自分の外で起きていることには批評を加えない。家を出て旅をするのも、あくまで内面への旅。だから自分が原因でなにかが起こっても、間接的にも自分のせいでだれかが死ぬ羽目になっても、罪の意識を負うこともありません。子供なんですから。間違っても、この物語をオスカルを主人公としたピカレスク・ロマンだなんて考えてはいけませんよ。3歳児には善意も悪意もないんです。ただ欲望の赴くままに生きているだけ、それが許される存在、すなわち子供なんですから。

 だから、画一的な学校の授業、退廃した教会、そしてナチスによって右傾化していく社会に潜む偽善性を、オスカルが告発していると見るのは大間違い。作者が、オスカルを通して、すなわち子どもの立場を利用して、社会のあらゆる欺瞞性を批判しているのです。なにせこの3歳児もまた、子供の仮面を付けた偽善的な存在ですからね。いわばトリックスター。作者にとっても、読者にとっても、告発者が相対化されているのです。ああ、やっぱり20世紀文学だ(笑)

 

 オスカルの欲望―精神的には時間の経過とともに年齢を経てしまうので、性の目覚めはあります。しかし、子供に情緒は不要。つまり恋愛は必要ないし、そもそも理解できない。面倒な手続きは不要。スカートの中にもぐりこんでしまえばこっちのもの。祖母とコリャイチェクの場合と同じです。拒絶されれば、子供ですからヒステリーを起こします。それが許されるのが子供というもの。

 オスカルの旅―原作者のギュンター・グラスは2006年の回顧録「玉ねぎをむきながら」において、S・S(ナチ武装親衛隊)の少年兵であった過去を告白したことによって、政治的姿勢が改めて問い直されることになりましたが、少なくともオスカルの場合は、なにが善でなにが悪か、そんなことはどうでもいい。そもそも政治的姿勢なんて3歳児に問う方がおかしいのです。ナチスの兵隊も、内面への旅の過程で出会い、すれ違ってゆくだけ。だって、それを望んで成長を止めたんですから。



 オスカルが、醜い大人たちを冷ややかな目で見ている、なんて「批評」しちゃいけません。オスカルは、プルーストの「失われた時を求めて」の「話者」のように、ただ観察しているだけで、批評を加えてはいないのですから。だから「20世紀文学」と言ったんですよ。見ている大人の会話も、やることなすことも、ちゃんと理解はしているんです。でも、批評はしない。みなさんは、オスカルが自分の利害を計算したうえで、抜け目なく立ち回っているように見えますか? 違いますよね。それは結果に過ぎない。オスカルは大人になることから逃れ、子供のままでいようとしているだけなのです。それが、暗い現実と直面することを避ける結果につながっているだけなのです。

 もしも、カフカがこの映画を観たとしたら、あるいは原作小説を読んだとしたら、「これは私のことだ!」と泣いて共感の意を示したのではないでしょうか。突飛なことを言うなあと思った人は、ちょいとこちらのお話に眼をとおして見て下さいな。



 しかし、この子供も辛い現実に向き合わざるを得なくなります。14歳の時に、精神を病んだ母親が過食症に陥って亡くなる。子供ですからその責任を自覚しないでやり過ごそうとするも、母の喪失はブリキの太鼓を買い与えてくれる存在、すなわち自分を庇護してくれる、絶対的な存在の喪失であることに気付きます。おまけに伯父(推定上の父親)、父親(現実の・法律上の父親)が、相次いで、ほかならぬオスカル自身の言動が遠因となって命を落とす。そうしてオスカルはすべての庇護者を失い、21歳にして岐路に立たされます。なすべきか、なさざるべきか・・・。

 

 決心したオスカルは、太鼓を埋葬されつつある父親の棺の上に投げ捨て、再び、18年ぶりに成長をはじめます。墓穴に落ちるということが、子宮に回帰することと等価であるということをここで思い出して下さい。そしてそこから救い出される・・・つまりこれが2度目の生誕・出生なのです。おさまるべき子宮はもうない。ブリキの太鼓ともお別れだ―。

 

 映画はここまで―。

 原作に描かれたその後を簡単にお話ししておくと、戦後、オスカルは故郷ダンツィヒを離れ、闇商売から出発し、その後、石工、美術学校のモデルと職業を替えた後、ジャズバンドのドラマーとして華々しく脚光を浴びることとなります。成長するとともにガラスを破壊する声は失われてしまいますが、「ブリキの太鼓」を叩くと、観客たちの幼少時の記憶を喚起するという能力が身につきます。これによって、再び「ブリキの太鼓叩きのオスカル」に戻っていく・・・。

 ところが殺人事件に巻き込まれ、その容疑者として逮捕されるも、精神障害と診断されて精神病院に入院させられてしまう。そこで彼は自分自身の幼少時からの記憶を、毎日「ブリキの太鼓に語らせ」ることになります。身体は30歳まで成長しても、精神面が追いついていない、「永遠の3歳児」。なにより恐ろしいのは、この安寧の生活が破られること。やがて殺人事件の真犯人が逮捕され、裁判が再開されるという知らせがあり、その恐怖が現実のものとして迫ってくる・・・。


(Hoffmann)


参考文献

 とくにありません。