118 「自由からの逃走」 エーリッヒ・フロム 日高六郎訳 東京創元社




 エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」は、ワイマール体制の過剰な自由がかえって「自由からの逃走」を生み、大衆がファシズムに隷属することとなったとする、いまや古典的な著作です。

 要約すると、近代人は自由を得る代わりに孤独になったということ。多くの人々(大衆)が孤独という感覚を持つに至ったのは近代に入ってから。領主のもとに従属していた時代、封建社会では、人々は各階層やギルドのなかで役割を与えられ、その役目を全うすれば、生活ができた。社会秩序のなかで自由はなかったが、しかし固定した役割があり孤独や孤立してはおらず、また役割のなかではそれなりに自由でいられた。

 ところが、ルネサンス期になると経済力がモノをいう上流階級の文化となる。すなわち資本力。それまでギルドから独立して親方になるという道があったものが、一部の親方が資本を蓄えることによって雇用される側が増え、資本家に富が集中していくことになる。市場と競争の発生。

 そこにさらに宗教改革。それまでは免罪符なんて教会の金策のかげで、金さえあれば罪を犯しても赦免されていた。ところがルターの主張は「神の前に万人は平等」であり、教会の権威に反抗し、金によって新たに生まれた富裕層への怒りを代弁するもの。そうして実現した宗教改革では、ルターの神に対する関係は、完全なる服従。つまり、ルターも相当権威主義的。

 ルネサンスと宗教改革は、封建社会というすべての社会的地位にいる人たちが、経済的に安定していた状態から解き放った。つまり、社会階層が固定化せず役割が不安定になると、個人の努力が求められる。他人は共同の仕事をいっしょにやる仲間ではなく、競争の相手となった。そのため、中流階級(と貧困層)は不安を抱えて孤独になる。そうしたとき、人々の不安は神への服従という形で現れる。ここで、「権威主義的性格」を「サディズム、マゾヒズム的性格」ということばに言い換えていることにご注意下さい。

 資本主義になると、積極的な自由が増加すると同時に、個人はますます孤独になる(孤独にさせられる)。これは、自由になった代償として自分で生きる自主性が重んじられるようになったということで、そんな状況で帰属するものがないと、人は孤独や不安に陥る。自由競争の中で、とくに中流階層と貧困層は役割を探し求め、自由がもたらす孤独感が募って、この自由から逃げたくなる。そして大衆は、力強く自分を導いてくれる権威への服従を求めるようになり、ファシズムのような権威主義に熱狂していった・・・。

 この、自由を捨てるという逃避行動には3つの型がある。

1 権威主義(依存)

 人は、子どもが親との絆から離れるような、第1次的な絆からの脱却を果たすと、次に第2次的な絆を求める。これは「服従と支配」への努力という形であらわれる。フロムはここでサディズム的傾向とマゾヒズム的傾向という説明をしている。サディズムは、対象を絶対的に支配しようとすることで、対象を自己に依存させる道具とするもの。マゾヒズムは個人的自己から逃げること、自分自身を失い、自由の重荷から逃れることを目的としている。

2 破壊性(破壊)

 権威主義が、対象との共棲を目指すものだったのとは異なり、対象との関係を除去しようとするもの。外界からの脅威をすべて除去して自己を強めようとすること。

3 機械的画一性(同調)

 自己を捨てて自動人形となる。周囲の人々(自動人形)と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感じることがない。じつはこれが大部分の人が選択する解決策。現代でもそう。つまり、機械的画一性というのは、「個人が自分自身であることをやめる」「文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを完全に受け入れる」ということ。他人と同じように行動すれば、孤独に陥るリスクが軽減される。

 そのファシズムに対し、フロムは「ファシズム国家では人々に自由を捨てさせた」と表現しているのですが、ファシズムは当時の人々を魅了したからこそあのような形になり得たということです。つまり「捨てさせた」と言っても、人々は進んで自由を捨てたということなのです。

 結論としてフロムは、デモクラシーが個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創りだす組織であり、ファシズムは個人を外的な目的に従属させ、純粋な個性の発展を弱める組織であるとして、民主主義に肯定的です。そのためには、「自発性」が必要であるとして、人々の目的に奉仕するような合理的経済組織の確立と、人民の人民による人民のための政府という原理を発展させるべきだとしています。

 ちなみにエーリヒ・フロムは後にフランクフルト学派と呼ばれた思想家たちのうちのひとりです。そのフランクフルト学派のマックス・ホルクハイマーやテオドール・アドルノは「ファシスト的性格」という性格概念を打ち出していますが、これは国家や強力な指導者などの権威に屈従することでその権威の一端に与ろうとする権威主義的従属(フロムの言うマゾヒズム的性格)と、その権威に逆らえないという抑圧から、逆に他人のうちに不道徳性を見出そうとする攻撃衝動を抱え込む権威主義的攻撃(フロムの言うサディズム的性格)のふたつがあるとしています。いまどきの、なにかというと他人様のSNSを「不謹慎」だと言って攻撃するひとたちなんか、まさにこの後者の典型ですね。ホルクハイマーらはこれをフロイト的解釈で親-子の関係に帰しており、権威主義的で利己的な親子の依存関係は、底辺にあると考えられるものはなんでも軽蔑して拒否することに無批判にしがみつくだけの、政治哲学や社会観を蓄積する・・・その一方で基本的には平等主義的で寛大な対人関係によって特徴付けられるともしています。このあたりがおそらくはエーリヒ・フロムの「自由からの逃走」から取り込んだ理論と思われます。

 フロムはナチズムを心理的な問題としつつも、心理的要因それ自体は社会経済的要因によって形成されたという立場を取っており、その点がホルクハイマーやアドルノとは異なるところ。フロムの独自性は、権威主義的従属(マゾヒズム的性格)と権威主義的攻撃(サディズム的)を近代の下層中間階層の特質にまで敷衍したこと。ホルクハイマーやアドルノは、フロイトの忠実な信徒として、この性格の要因を個人の素養や家族関係に求め、フロムはこれを集合的なものととらえて、たとえば中間層の経済的没落といった、歴史的・社会的な要因を求めたわけです。


Erich Seligmann Fromm

 この本が出版されたのは1941年。ユダヤ人であるフロムは既にアメリカに亡命していました。ひと言で言えば、自由になったことで不安になった大衆心理に付け込んだファシズムに対する批判・・・なんですが、どうも「民主主義を守れ」というアジテーションのようにも思えます。

 つまり、ナチス政権の樹立もその政策も、すべて民主主義のプロセスを経ていましたからね。ドイツでは多数の国民の賛同のもと、非人道的な独裁政権が誕生してしまったんですから。だからドイツの現状をデモクラシーの危機としてとらえている。フロムは大衆を一方的に迫害・疎外されし弱者だと言ってすませることはできなかったわけですよ。否が応でも、人々がなぜ自由を放棄し独裁体制を生み出してしまったのか、という形でナチスの問題に向き合わなければならなかった。この姿勢は必然だったわけです。

 また、ファシズム運動を、一方ではヒトラーの権威に従いその犠牲になることに喜びを感じ、他方では自分より劣った者、たとえばユダヤ人を蔑視・虐待することで、欲求不満や劣等感を解消しようとした心理や行動のあらわれであるともしている。これ、現代でも同じことが言えますね。よく、なにかというとマウントをとって相手を底辺扱いしている人、あればじつはその人自身の個性の喪失と画一化のあらわれなんですよ。

 サディズム、マゾヒズムという表現は、フロイト左派としてフロイト理論を受け継ぎ、人間心理の社会的影響を視野に入れたフロムらしいところです。その社会心理学的な立場はよくわかるんですけどね、ひとつ気になるのは、ヴェルサイユ体制後のドイツ国民の心情(心理)が考慮に入れられていないことです。自由自由って、それは西欧全体の集合的無意識的なものと思えば当たらずとも遠からずだと思うんですが、ヴェルサイユ条約後屈辱にまみれていたドイツ国民が新たな指導者を待望していた、そこにヒトラーが現れたということは、やはり重要なんじゃないでしょうか。もちろん、それに隷属してしまうところに、「自由からの逃走」が見られるのかもしれませんが、第一次世界大戦の賠償金は、まともに払っていたら1980年代まで続くものでしたからね。当時の人々の2世代後くらいまで続く負債だったわけですよ。このドイツ国民の置かれていた状況を(社会)心理学の立場で「過剰な自由」と呼んでいいものか、やや疑問を感じます。

 それに、第一次大戦中からミュンヘンではオーストリアのシェーネラーが提唱した国家主義的、全ドイツ主義の運動が盛んで、さらに反ユダヤ主義も加わって右翼運動の一大中心地となっていましたが、そうした「前史」を無視してはいないでしょうか。反ユダヤ主義といえば、そもそもこの時点ではじまったことではなくて、ヨーロッパ全域において長ーい歴史を持つ風土病です。さらに、ワイマール連合の弱体ぶりと、折から波及してきた世界恐慌の影響も無視することはできないのではないでしょうか。

 フロムの、これからの民主主義に関する結論も、アメリカ亡命中であることを考え合わせると、フロムの社会心理学の方法が人間を「社会的存在」としてとらえているとおり、移住地であるアメリカにおける社会的構造との影響関係で、フロムの「社会心理」をあらわしているのではないかと思えるのです。いや、べつにフロムのことを我が国の政府の諮問機関に名を連ねているような「御用学者」だなんて思っているわけじゃありませんけどね。でも、トーマス・マンだって、その発言はいかにも「亡命先」の国で口に出すにふさわしい発言になっていたじゃないですか。戦後ドイツ国民がトーマス・マンに対して、「なんだい、自分は亡命して、カリフォルニアで王侯みたいな生活をしていたくせに」って、怒りの声を上げましたよね。エーリヒ・フロムのこの理論に対して、戦中ドイツに留まらざるを得なかったドイツ国民はどのような反応をしたんでしょうか・・・。なんだかね、どうもフロムの「それではどうすればいいのか」という理想論は、いかにも民主主義国家を標榜するアメリカの地で考えそうな絵空事にしか思えない。そんな性善説で片が付くなら苦労はしないよ・・・って思うんですよ。

 もうひとつ―ダニエル・C・デネットの「自由は進化する」(山形浩生訳 NTT出版 2005年)では、「自由」ということを、長期的な合理性を選択できるという意味にとらえている。つまり、短期の誘惑からの自由ということで、例えれば、公共の場で喫煙できないようになっているのも、当人の健康面から考えれば「不自由」とは言えないということ。これは、詭弁と言えば詭弁。煙草が吸えないのはあくまで社会の要請であって、それが人間が短期の誘惑から逃れて長期の合理的利益になるんだとしても、それを「自由」と言っていいのかどうか。目先の欲望にとらわれるのだって、「自由」の一形態ではあるわけですよ。逆に言えば、煙草を喫いたい人はそれを禁止されることで、やっぱり社会のルールに縛られていると実感しているはず。

 このようなデネットの「不自由こそじつは自由」なんて理屈が通るのならば、当時のドイツ国民がナチスを支持したのだって、それ自体が「自由な選択」だということになる。ヴェルサイユ条約で屈辱にまみれたドイツ国民の生活を、長期的には改善してくれるだろうという期待があったはずでショ。むしろ、ナチスは「不自由の自由」を提供してくれていると感じていたかもしれないわけです。

 ここで、ジョージ・エインズリーの「誘惑される意志」(山形浩生訳 NTT出版 2006年)を参照すると、人間の意志は短期の誘惑に対する対抗手段であって、フィードバック機能を持っていることから、長期的な利益を実現するための状態に近付いて(発展して)行くことができるものとされている。ところが、それでありながら、意志の求める明確なルールのために、最も望ましい合理性を実現できなくなる可能性がある、「効率の高い意志は欲求をつぶす」としてます。さらに、エインズリーは、文明の崩壊さえ、じつはここに原因があるのではないかと考えているのですね。これはもう、実証不可能な仮説になってしまうんですが、ひょっとすると、ナチスを支持したドイツ国民にも、あてはまることかもしれません。とりわけ、爛熟期から一気に恐慌をきたして転落してゆく文明においておや。

 後悔と反省と改善、なんて言うとたいへん結構なもののように聞こえるかもしれませんが、じつはそれがあの時代のナチスを支持する陣営に回って、対する反ナチス感情の根底には、一見合理的人間の、否定的に見える要素、迷いと逡巡と優柔不断があったのではないかと思えるんですよ。これはまた別な話になってしまいますが、ひとことふたこと付け加えるならば、怜悧で誤りのない完璧な計算高さと合理性を追求するならば、もはや人間の意志及び自由意思は必要なくなるわけで、AIに任せておけばいいってことになりますよね。それでいいんだとは、なかなか考えにくい。



 そこで、別な側面からナチズムの政治社会学的分析を行った、ヴィルヘルム・ライヒの「ファシズムの大衆心理」(平田武靖訳 せりか書房)にも目を通しておくことをおすすめします。これは翻訳で上下2巻本ですが、とくに下巻、「第9章 大衆と国家」が重要です。この本がいちばんいい、ということではないのですが、ナチズムともなるとやはり多面的に検討すべき問題でしょう。

 ドイツ国民のナチスへの支持と協力について、事実に即した跡付けを行っているのは、ロバート・ジェラトリーの「ヒトラーを支持したドイツ国民」(根岸隆夫訳 みすず書房 2008年)。原著が出たのは2001年と比較的新しい本。ナチ独裁制はドイツ国民の支持と合意のもとに成立して機能したという論述で、ドイツ国民はその強制収容所で行われていた残虐行為も知っていたし、それに積極的に協力もしていた・・・つまりこれまでの、ドイツ国民がゲシュタポに従わざるを得なかったという「ゲシュタポ神話」を覆すもの。一方、オーストリア、ウィーンの反ユダヤ主義に向けた視点で、ホロコーストの「傍観者」という保身の主張が国家の都合による過去の封印であることを暴いたのが、野村真理の「ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト」(岩波書店)。ちなみにクルト・ヴァルトハイムについては、Klingsol君がリリアーナ・カヴァーニの映画「愛の嵐」のお話しのときに語っておりますのでご参考にどうぞ。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「自由からの逃走」 エーリッヒ・フロム 日高六郎訳 東京創元社


「自由は進化する」 ダニエル・C・デネット 山形浩生 NTT出版


「誘惑される意志」 ジョージ・エインズリー 山形浩生 NTT出版 2006年


「ファシズムの大衆心理」(上・下) ヴィルヘルム・ライヒ 平田武靖訳 せりか書房


「ヒトラーを支持したドイツ国民」 ロバート・ジェラテリー 根岸隆夫訳 みすず書房


「ウィーン ユダヤ人が消えた街 オーストリアのホロコースト」 野村真理 岩波書店




Diskussion

Klingsol:今回も基礎編だね。

Kundry:エーリヒ・フロムは古典的名著ですね。Parsifalさんはあまり名著だとは思っておられないかもしれませんが(笑)

Parsifal:いやあ、いい本だとは思っているよ。ただ、これだけで説明できることではないんだよ。

Hoffmann:たしかに、マックス・ピカートなんかよりもよほどいい(笑)

Klingsol:ライヒはフロムとは、そのスタンスが方法論的にほとんど正反対だね。たしか「自由からの逃走」について「完全にけんとうはずれ」なんて言っている箇所がある(笑)

Hoffmann:マルクス主義臭いのが苦手だな。ただ、ナチズムにおける社会心理、大衆心理に関する研究書はなかなかいいものがないんだ。