077 「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」 永田諒一 講談社現代新書




 表題は「宗教改革の真実」と大きく構えているように見えますが、副題のとおり、16世紀の宗教改革を社会史の観点から読み解いていく本です。宗教改革におけるカトリックとプロテスタントの対立が民衆の生活に及ぼした影響はどのようなものだったのか。社会史とは、政治の優位と事件的な歴史叙述を中核とする伝統的な歴史学に対し、社会全体、とくに中下層に焦点を合わせた制度、習慣、ものの考え方に注目する歴史学。いわゆるアナール学派に代表される歴史研究です。

 従って、この本はルターの生涯やその思想を論じるものではありません。そうした研究書を既に読んだ人が、民衆レベルでの影響を確認するのに読むのもいいでしょう。あるいはこれから宗教改革について調べようという人が、あらかじめ目を通しておくと、歴史の全体像を掴みやすくなりそうな、コンパクトで便利な本です。


Martin Luther

 一般によく知られていることは、宗教改革はルターにより1517年にはじまったということでしょう。 16~17世紀前半は、中世と近代の境目にあたります。信仰のあり方、中世以来の古い制度、経済構造や生活習慣、政治倫理が行き詰まり、近代的なものが誕生しつつあった時代です。

 1517年10月31日、万聖節の前日、つまり現代なら渋谷が賑わうハロウィンの日、ヴィッテンベルグ城付属教会の扉に、一介の修道士だったルターが、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改修工事の資金集めにフッガー家が協力して発行した贖罪状(免罪符)の無効を指摘した「95ヶ条の論題」を「貼り出した」・・・というのは私も中学生の頃に習った「常識」です。しかし最近の研究に詳しい人ならば、じつは貼り出されたのではないという説が提唱されているのは御存知でしょう。どうも、10月31日前後にルターがマインツ主教に手紙で送ったらしいのですね。「貼り出された」という伝説は、ルターの右腕とされたメランヒトンの「ルター伝」が伝えるところで、これはどうも信憑性に乏しいようです。

 さて、この本がおもしろいのは第二章から。宗教改革派は印刷術を積極的に利用しました。活版印刷はグーテンベルクの発明とされていますが、あくまで産業として組織したのがグーテンベルクであっただけで、オランダでは活版印刷をハールレムのコステルの発明としており、コステルのもとにいた職人のひとりがグーテンベルクだったとのこと。この印刷術によって書物が増えて、ドイツでは、1515年には年間150種の印刷物しかなかったところ、1520年には500種を超え、23年には950種になったということです。

 宗教改革派はこの印刷術を利用してプロパガンダを行ったのですね。とは言っても民衆は字が読めないので、新教の聖職者や貧乏な学生が読み上げ役になる「集団読書」を前提として、パンフレットやポスターをつくり、積極的に民衆を味方に付けようとしました。ローマ法王を悪魔や動物の姿で描いたり、ルターの肖像に聖霊の象徴である鳩を描き入れたり、木版画や銅版画を多用したのも、字が読めない者でも興味を持って見てもらえるようにと考えたからですね。これは現代でもやっている、日本国憲法でも世界情勢でも、なんでもマンガにしてしまうのと同じ手法。

 対するカトリックは聖職者のみがエリートとしてラテン語を扱い、「信仰は耳で聞いて心で知る」という考えが強かったため、一般信徒には聖職者からの口述の教えで十分として、印刷物は利用していませんでした・・・どころか、聖職者であっても農村や都市の司祭はラテン語の能力があやしいものだったのです。村の司祭なんかは丸暗記のラテン語を、お経を唱えるように暗唱してミサを行うのがせいぜい、どうせ聞いている連中(民衆)には分かりゃしないからそれでいいや、と考えていたのです。また、印刷術による本は美しくないという抵抗もあったようで、カトリックでは手書きの祈祷書を好む傾向もあったようです。なんだか、ワープロは心がこもっていないからダメだとか、こんなものに頼っていたら字が書けなくなるぞ、なんて言っていた昭和のオジサンみたいですね(笑)おそらく、世代の違いもあったのでしょう。

 そうした無学な聖職者の現状を宗教改革派が公表すると、教会も独自調査を行った。すると、半数の司祭がキリスト教の基本教義を理解していない地域もあり、「十戒」も言えない司祭もいたんだとか。これまたどこかの会社の管理職が、仕事をまったく理解していないなんて話がありますから、笑っている場合じゃありませんよ(笑)神田財務副大臣に至っては、税金滞納して4回も差押えを食らい、「督促状は忙しくて見ていなかった」とか、寝言言っていますが、このひと、財務相の仕事がなんなのか理解していなかったんでしょう(笑)

 信仰に篤いのはむしろ民衆の側。だから免罪符なんてものが流行したんです。その免罪符の対抗馬は聖遺物。なにしろ、ヨーロッパじゅうの「キリストの骨」を集めると千人分くらいあると言われていますからね。もちろん、大部分(全部・笑)が偽物。それでも、どこかの国の観光客が毛○東の遺体を見に行くように、民衆はそれを見に遠くからやって来たわけです。ちなみにおもしろいことに、ヴィッテンベルグの君主が聖遺物マニアで免罪符を敵視していたのですが、この勢力がルターの近くにいたこと。

 ルターが指摘したということは、この時代には聖職者の腐敗は公然と知られていたということで、ことに民衆はこうしたことに敏感でした。それまで、信仰篤い民衆は教会に宗教画や彫刻などを寄贈していたんですが、宗教改革によってカトリック教会の華麗な装飾が批判されると、同じ民衆がキリスト像を引き倒して「聖像破壊」を行うようになります。つまり、改革派の神学的説明を単純化して、「教会から聖画像を撤去する」という行動により、宗教改革支持者の証としたわけです。

 それだけではありません、ルターが聖書を読解すれば、修道制は不自然であるとして修道制を否定。すると、修道士の還俗や修道女救出(カトリックでは修道女誘拐は死刑)などが起こりはじめ、新教寄りの聖職者が妻帯するようになります。こうした牧師の結婚式は改革派のデモンストレーションとなるため、民衆が盛大に祝い、そうして祝うことがこれまた宗教改革支持者の証となったのです。ルターもシトー会修道院から救出されたカタリーナ・フォン・ボーラと結婚したことは御存知ですよね。

 じつは、修道女のなかには口減らし的に修道院へ入れられた娘もいたし、カトリックの司祭だって、生涯独身を貫く(貞潔)なんて建前、ある教区では3分の1にあたる司祭が召使いの名目で「ファムーラ」と呼ばれる実質的な内縁の妻を抱えていたんですよ。そのくせして、トレント公会議(1545-63年)でカトリックの改革が検討されても、地域の司祭は妻帯が許されなかった。ま、妻帯することがいいことばかりではないかも知れませんが(笑)これではカトリックの聖職者が還俗したり、プロテスタントに鞍替えしたりするのも無理はありません。

 ドイツ農民戦争(1524-25年)が農民側の敗北で終わると、1555年の「アウクスブルグの宗教和議」で、神聖ローマ帝国の領邦ごとに信教が選択されることになります。ただし、これは個人の信教の自由が認められたのではなく、運命共同体である都市ごとに、君主がカトリックかプロテスタントかを選択するというもの。個人の権利意識なんかはまだまだ。フランス革命やナポレオンを待たないといけません。

 帝国自由都市は宗教改革派都市が30、カトリックが10ほど。アウクスブルク、ドナウヴェルトなど20都市は両宗派を公認しました。この宗派併存は当時の民衆にはかなりのストレスだったようで、アウクスブルクでは教会施設の共同利用で対立、宗派の異なる男女の結婚にも問題が生じて、偽装改宗が相次いだと言われています。偽装改宗ってことは、個人にとってはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、どうでもいいことだった・・・とは言わないまでも、生活のためには改宗してもいいや、という程度のことだったのかもしれません。

 アウクスブルクは神聖ローマ帝国の会議が開催される政治都市でもあり、現実的な判断で妥協や配慮などの宗教的寛容を発展させていきます。しかし、ドナウヴェルトではカトリック側が、プロテスタントは偽善行為と批判しながら旗を立てて行進して、これが原因となって衝突に発展。結果、宗教和議違反でドナウヴェルトは帝国都市から除名され、カトリックの君主に征服されてしまいます。つまり自治権を失ってしまった。江戸時代の大名が「お取り潰し」で幕府直轄領になるようなものでしょうか。

 科学史に関わる部分では、1582年のグレゴリオ暦への改暦が問題となりました。ユリウス暦は前46年制定で、一年は365.25日。しかし、この太陽年はわずかに長く、1600年の使用で10日あまり現実の季節とずれていたのです。そこで、グレゴリウス13世の布告により、カトリック諸国では1582年10月4日の翌日が10月15日となります。この改暦にプロテスタントが抵抗。ルターはコペルニクスを馬鹿者であると批判し、聖書に従うとしました。

 こうした論争の過程で暦の科学的正確性は検討されなかったことにご注意下さい。問題となったのは、復活祭(イースター)など、春分を基準に決められる移動祝祭日。これがカトリックとプロテスタントで異なることになり、両派併存の都市ではプロテスタントの多かった精肉業者がカトリックのカーニバルに営業せず、免許を停止されたりしています。

 1583年にはドイツ、オランダ、オーストリアのカトリック諸侯が改暦、1700年にはドイツとオランダのプロテスタント諸領邦、デンマーク、ノルウェーが改暦、1752年にイギリス、1753年にはスウェーデンが改暦しています。

 民衆からみれば、宗教改革によるプロテスタントというものは、「異端者」扱いをされながらも、ミサを自分たちにも理解できることばで行う宗派であり、儀式にはパンだけでなくワインも供して、聖職者が結婚するようになったという運動であったのです。その程度。しかし、カトリックからいえば、修道士が還俗し、元修道女が結婚し、民衆が法王を「涜神の徒」とするようになり、聖像を破壊したという激しい抗議でした。

 カトリック、プロテスタント双方が、民衆を巻き込みプロパガンダ戦を展開していたわけですが・・・なんだかね、浮世離れしているとは思いませんか。私は民衆おいてけぼりの権力闘争なんじゃないかという印象しか持てないのですよ。ただ、自由平等、個人の権利意識が確立されていない時代だったから、民衆はこれに振り回されてしまう。


 新教徒の信仰を認め、カトリックとプロテスタントの対立を終わらせたのは、1648年の三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約です。「神聖ローマ帝国の死亡証明書」とも言われるこの条約は、正確に言うと、新旧両教派の勢力均衡を図って、神聖ローマ帝国にはドイツ全土を支配する権力としての地位を失わせ、実質的に解体させたのでした。これをもって、中世封建国家に代わって主権国家がヨーロッパの国家形態となったのです。「西欧国際体制」の起源ですね。

 ルターについては、これまでの私の話の中でも折にふれて名前が出てきており、注意深く聴いて(読んで)下さった方は、私がカトリックに批判的でも、必ずしもルターに肩入れしてはいないことにお気づきでしょう。

 宗教改革勃興の理由が当時のカトリック教会の腐敗にあったことはもちろんですが、改革派の側には個人的な理由もあって、つまるところは「権威と権力」「経済」など宗教そのものとは異なった次元での対立であった・・・と考えますか? それとも、カトリックの腐敗が遠因となって、主権国家形態を呼び寄せることになったのだ、と考えますか?

 クトゥルー神話の古きものどもにしても、「禁断の惑星」のクレル人にしても(笑)、神聖ローマ帝国にしてもカトリックにしても・・・どうも自らの矛盾と愚行によって「自滅」していったように思えるのですが、いかがでしょうか。


(Parsifal)


引用文献・参考文献

「宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史」 永田諒一 講談社現代新書



「宗教改革三大文書 付き『九五箇条の提題』」 マルティン・ルター 深井智朗訳 講談社学術文庫


「宗教改革を生きた人々 神学者から芸術家まで」 マルティン・H・ユング 菱刈晃夫・木村あすか訳 知泉書館



Diskussion

Hoffmann:奢れるものは久しからず・・・権力も組織も、腐敗からは逃れられない。なんの儀式であれ、ワインはあった方がいいけど・・・できればビールも、ウイスキーも(笑)

Klingsol:ルターだって、大概なところがあるよ。ドイツ農民戦争のときには貴族・諸侯の側について農民の殺害を煽動するようなことまで言っている。志そのものは悪くはなかったんだけど、影響力を持ち始めてからは、手段を選ばなかったところがある・・・。

Hoffmann:「95ヶ条の論題」はいま読めばそんなに挑戦的ではないように見えるんだけどね。

Parsifal:時代が時代だからね。修道会内部でもかなりセンセーションを巻き起こしている。教会の立場を弁護する連中が、かえってルターの主張をいっそう険しいしいものへと誘導する結果になってしまったんだ。

Hoffmann:不祥事を起こした副大臣を弁護して(更迭するのが遅れて)、よけいに問題が大きくなって政権に痛手となるようなものだな(笑)

Parsifal:まあ、ルターも有力な領主に雇われていたから、結構好き放題言えたんだけど。

Kundry:メランヒトンのルター伝は信憑性に乏しいのですか?

Parsifal:「95ヶ条の論題」を貼り出したという件についてはね。宗教改革の功労者であることには変わりがない。ルターの聖書翻訳は、むしろメランヒトンの労の方が大きかったという人もいる。

Hoffmann:ナンバーツーはあまり目立たないのが気の毒だ。むしろ重要なことはメランヒトンの手を煩わせていたのにね(笑)最後の頃は疲れちゃって・・・ちょっと同情したくなる。