030 「禁断の惑星」 ”Forbidden Planet” (1956年 米) フレッド・マクラウド・ウィルコックス




 古典SF映画「禁断の惑星」(1956年 米)です。



宇宙船C-57-Dは円盤です。ちなみにケネス・アーノルドによる、「水面を切るように投げた皿(ソーサー)のように」飛んでいたという、ワシントン上空での円盤目撃報告は1947年でした。

 あらすじをたどっておくと―

 宇宙への移民がはじまった2200年代。アダムス機長率いる宇宙船C-57-Dは、20年前に移住して、その後連絡を絶った移民団の捜索のために、アルタイル第4惑星(アルテア4)に着陸する。移民団の生き残りは、モービアス博士とアルテア4で誕生した彼の娘であるアルタのわずか2名、それにモービアスが作り上げたロボット、ロビーだけだった。

 モービアスは、アルテア4にはかつて、極度に発達した科学力を持つ「クレル人」が存在していたが、突然滅亡してしまった、原因は不明だと語る。そして移民団は正体不明の怪物に襲われ、自分たち2名と彼の妻(後に別の理由で死亡)以外は死んでしまったという。残ったモービアスは、クレル人の遺跡に残っていた巨大なエネルギーを生成する設備を使用していた。また彼は、恐らくC-57-Dも怪物に襲われるだろうから、一刻も早くこの星を離れるようにと言う。そしてモービアスのことばどおりに再び現れた怪物はC-57-Dを襲撃、乗組員を殺害しはじめる。しかしアルタと恋仲になったアダムスは即時の離陸を拒否。モービアスとアルタを、せめてアルタだけでも地球に連れ帰ろうとする。

 いよいよ怪物が目前に迫ってきたとき、クレル人の遺跡のエネルギーが最大出力に達していることに気付いたアダムスは博士を問い詰め、怪物の正体が「イドの怪物」とでも呼ぶべき、モービアスの潜在意識、自我そのものであることに気付く。移民団やC-57-Dの乗組員を襲った怪物も、じつは遺跡の装置によって増幅され具現化したモービアスの潜在意識の実体化したものだった。クレル人も、自分たちの潜在意識を制御しきれず、巨大なエネルギーでお互いに殺し合い、自滅したのだった。博士はロビーに怪物を攻撃するよう命じるが、ロビーはその正体が主人である怪物を撃つことができない。自らの心の暗黒面を認めたモービアスは、怪物の前に立ちふさがる。

 怪物は消滅したが、モービアスは虫の息。彼は遺跡の自爆装置を作動させ、アルテア4もろとも滅びる道を選ぶ。アダムス機長は、アルタとロビーを伴ってC-57-Dに戻り、生き残ったクルーとともにアルテア4から離脱する。そしてアルテア4が爆発するのを確認すると、父の死を嘆くアルタを抱きしめ、彼こそ人間が神ではないことを教えてくれたのだと語る。


 
どことなく、緊迫感のない乗組員たち。撮影時には目の前になにもないので、無理もありません(笑)

 登場人物や孤立した舞台から、シェイクスピアの「テンペスト」の翻案とされていますが、それ以上にSF映画の古典として名高い作品です。人類が自ら作り上げた超光速宇宙船によって恒星間移動するのを描いたのははじめて、地球から遠く離れた別星系の惑星(だけ)を舞台としたのもはじめて、ロビーもまたロボットとして、人格らしきものを持つ脇役として役割を与えられている点で画期的な映画でした。


 
ミニスカートのお嬢さんがはしゃいでいますが、それだけの映画というわけではありません(笑)

 また、ロボットのロビーが「怪物を止めよ」というモービアス博士の命令を受けるも、機能停止するというのは、イドの怪物はモービアスの潜在意識を具現化したものであったためです。つまり、「怪物を止める」にはモービアス博士を殺すしか方法がなかったからで、1950年に発表されたアシモフの「われはロボット」に登場するロボット工学三原則の影響を受けていることが示されています。参考までに、ロボット三原則とは正確には「ロボット工学の三原則」といって、内容は以下のとおり―

第一法則:ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第ニ法則:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三法則:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。


手塚治虫の「火の鳥」に登場するロビタのモデルでは?

 イドの怪物について

 さて、それでは「井戸の怪物」・・・という誤変換はお約束(笑)「イドの怪物」について解説しておきましょう。

 フロイトの精神分析学では、もともと「意識・前意識・無意識」の三層で人格構造を説明していましたが、後期に至って「自我・超自我・エス(イド)」という三層が提唱されました。この、フロイトにおけるエス”Es”あるいはイド”id”と呼ばれる概念が登場したのは、1923年に出版された「自我とエス」”Das Ich und das Es”、という著作においてでした。

 ”es”という単語は、ドイツ語においては、三人称単数の人称代名詞の中性形の一格と四格、すなわち、主格と目的格の形にあたる単語です。英語なら”it”、日本語なら「それ」ですね。これが固有名詞化することで語が大文字となり、”Es”となるわけです。

 ”id”というのは、ラテン語において、三人称単数の人称代名詞の中性形の主格と対格、すなわち、主格と目的格の形にあたる単語です。もともと、フロイトの主著の一つである「自我とエス」”Das Ich und das Es”が英訳された際に、ドイツ語における”Ich”(自我)と”Es”(エス)という単語の部分が、ラテン語の”ego”(エゴ)と”id”(イド)という単語へと訳され、”The Ego and the Id”という書名で出版されたため、英語圏の心理学界においては、”Es”の概念が、ラテン語に訳された”id”(イド)ということばで広まっていったのです。だから、”Es”と”id”は同じもの(以下、「エス」「イド」と表記します)。

 中性名詞であることに注意して下さい。男性名詞や女性名詞のどちらにも分類されない中性名詞であるということは、エスやイドというものは、人間の心が、男性または女性の心へと分化が進んでいく前の幼児や赤ん坊、さらには、胎児の段階など、あらゆる精神活動の根本に存在する原始的な心のあり方を意味する概念であると理解できるわけです。


 じつは、このエスと呼ばれる概念をはじめて用いたのは、ドイツの医学者であるゲオルク・グロデックGeorg Groddeckで、フロイトはこれを借用したのですね。

 ゲオルク・グロデックは、治療対象となる患者の身体面だけではなく、心理面や社会面などにも目を向けることによって、総合的な観点から診断と治療を行うことを目指す心身医学psychosomatic medicineの祖ともされている人物。彼は、患者の治療を行う過程において、人間の心の奥底に存在する患者本人も気付いていない、なんらかの思念によって、そうした心身症の症状が引き起こされていると考えました。そうした、人間の心の無意識の領域に存在する心身症の原因となるような無自覚的な思念をエスと名付けたのです。

 グロデックは「自我と呼ぶものは、生においては基本的に受動的にふるまうものであり、未知の統御できない力によって生かされている」と考えて、知覚システムから発生し、当初は前意識的であるものを自我と名づけ、無意識的なものとしてふるまうものをエスと名づけることを提案しました。

 従って、もともとエスというのは、人間の心の無意識の領域に存在する心身症の原因となるような、無自覚的な思念全般のことを意味していたのです。ところが、フロイトはこれを借用して、エスを、人間の心の奥底の部分に存在する本能的な欲求や衝動(のみ)を司る心の部分として捉え直しました。

 フロイトにおける、人間の心の三階層構造「自我と超自我とエス(イド)」をまとめると、次のようになります―。

 エス(イド)は、「~が欲しい」「~したい」といった人間における原始的で本能的な欲求や衝動などを司る心の部分。

 そうした欲求や衝動を道徳的な規範に沿うような形に規制し、自らが理想とする倫理的な姿に反するような欲求や衝動に対しては、これを禁止する命令を与える心の部分が超自我。

 そして、そうしたエス(イド)から突き上げられてくるさまざまな欲求や衝動と、超自我から要請される規制と禁止との間の板ばさみになりながら、両者の間の適切なバランスをとることによって、じっさいの行動を選択する判断を下していく心の部分が自我ということになります。

 エスは未知で無意識的なものであり、自我はその表面に乗っかっている、その自我から知覚システムが形成される。エスは知覚―意識システムの媒介のもとに、外界の直接的な影響を受けて変化する。一方自我は、外界の影響をエスとその意図に反映させようと努力する。エスを無制限に支配している快感原則の代わりに、現実原則を適用させようと努める。自我はエスに対して、自分を上回る大きな力を持つ奔馬を御す騎手のようにふるまう・・・抑圧されたものがエスの一部を構成し、自我から明確に区別されることは、精神分析の際に、患者が抑圧されたものに対して抵抗を見せることからもわかるわけです。しかし、自我は騎手の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかありません。自我は、あたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかない場合が多いのです。

 さて、映画「禁断の惑星」では、惑星アルテアⅣへの移民団の最後の生き残りであったモービアス博士の「イドの怪物」”Monsters from the Id”に攻撃されるわけですが、これはかつてこの惑星を支配し、高度な科学文明を築き上げながら謎の滅亡をとげてたクレル人”Krell”たちが、自らの心が想像するものを具現化することができるという、心の力を無限に増幅することができる装置を創り上げていたこと、その装置が作動していたためであることが明らかになります。そうしてモービアス博士は、モンスターの正体が、自らの心の内に存在する潜在意識の暗黒面の力が増幅されることによって創り出された存在、すなわち「イドの怪物」であることに気づいて、自らを葬り去るという決断に至ります。

 ここで、先住民クレル人が、自分たちの潜在意識を制御しきれず、巨大なエネルギーでお互いに殺し合い、自滅した・・・というのは象徴的ですね。これはラヴクラフトにも似たような設定があったと記憶していますが、ここでは手っ取り早く、最近読み返したコリン・ウィルソンの「賢者の石」(創元推理文庫)から、主人公が「古きものども」を壊滅させたものが何であったのかわかった、という場面から引用しておきましょう―


・・・何かを創ろうとすれば、無意識の力を制し、矯めなくてはならない。たとえば、急いでいるときに針に糸を通そうとしてみたまえ。なかなかうまくできない。というのも、最高速度で車を運転するのにエネルギーを傾注しており、針の目に意識を集中させるには、そのエネルギーを抑圧しなければならないからだ。精巧な創造行為は、自己のエネルギーを抑圧することなしにはありえないのである。

こうして彼らは、十代の知的な若者なら誰でも経験する段階―新しく個の意識を伸ばして、本能のことは何もかも本能にまかせて顧みないというあの段階を―通ったのであるが、初めのうちはそれが首尾よくいっていたが、やがてある日、抑圧されていた本能が爆発し、彼らの創りあげた一切のものを、ムー文明や彼らの下僕であった人間もろとも、破壊してしまったのである。

 この映画に教訓があるとすれば、先住民の滅亡・自滅でしょう。モービアス博士の生み出した「イドの怪物」なんて、小さな物語の一エピソード、局地戦に過ぎないのです。いや、じつを言えば、この映画の中で、「イドの怪物」を生み出すのはモービアス博士だけなんですよね。これは一応脳の増大と説明されているんですが、想像してみて下さい、もしも登場人物全員の「イドの怪物」が生まれてしまえば、誰も助かりませんよ。じっさい、クレル人たちはそうして滅亡したんですから。

 戦争や紛争、その原因となっているnationalismや宗教問題、政治的な独裁など、これらのものがだれかさんの、あるいは民族や国家や宗教団体、政治政党といった集団の、実体化した「イドの怪物」でないと言い切れますか?


どこへ行っても飲兵衛は飲兵衛(笑) 画像は本文とは関係ありません。



(おまけ)


 
アダムス機長役のレスリー・ニールセンLeslie Nielsen(1926~2010)です。1950年代から二枚目俳優として活躍し、1980年代からコメディ俳優として新境地に至り、不動の人気を得た、息の長い役者さんでしたね。右は「レスリー・ニールセンのドラキュラ」”Dracuka Dead and Loving It”(1995年 米)から―。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「エスの本 ある女友達への精神分析の手紙」 ゲオルク・グロデック 岸田秀・山下公子 講談社学術文庫
「自我論集」 ジークムント・フロイト 中山元訳 ちくま学芸文庫