119 「ドイツ青年運動 ワンダーフォーゲルからナチズムへ」 ウォルター・ラカー 西村稔訳 人文書院




 今回はナチズムの前史として、ウォルター・ラカーの「ドイツ青年運動 ワンダーフォーゲルからナチズムへ」取り上げます。これは19世紀末から20世紀初頭にかけての青年運動の展開を跡づけたもので、もとは中産階級出身の青年たちによる、機械文明や資本主義社会、既存の権威に対する反逆であって、政治的なものではありませんでした。ところが、第一次大戦後には政治的色彩を帯びはじめ、やがてヒトラーの政権奪取によって押しつぶされ、あるいは「ヒトラー・ユーゲント」のもとに集結する(させられる)に至る・・・。

 なんとも暗示的なことに、初期のリーダーの立場は独裁的なもので、仲間たちからは"Fuhrer(総統)"と呼ばれてハイルの挨拶で迎えられていたんですよ。このことをもって、青年運動は最初からナチズムに道を開いたとする研究者もいるんですが、これは偶然か、外面だけのことかもしれません。運動の政治姿勢そのものは、右に左に中道にと、文字どおり右往左往していたので、第三帝国の興隆に関して責任を負わせるのも無理がありそうです。しかし、真実がこの両極端のちょうど中間にあるとも思えません。だから研究のテーマになるんですよ。



 ドイツ青年運動の出生は1901年11月4日、ベルリン郊外のシュテグリッツと言われています。5人の青年リーダーによる「ワンダーフォーゲル・生徒遠足委員会」という結社が結成されました。もとはベルリン大学の学生ヘルマン・ホフマンが速記術勉強会を創って、日曜とか休日に山野を練り歩いたのがはじまり。これをシュテグリッツの境界を超えた運動としたのが、ホフマンの後を継いだ19歳のカール・フィッシャー。

 初期のワンダーフォーゲルやボヘミアンが官製の組織と権力を拒否するものであったことは間違いないと思います。彼らは自分たちだけの挨拶の仕方(「ハイル」)や合図の口笛、特別の服装も考案して、中世の遍歴学生を理想としていました。

 その後10年間の地道な活動により、ドイツ中いたるところに新グループができてくると、独自のスタイル、文化も育ってくる。規律ある共同体。女子が初めて参加したのは1907年の春。すると、青年運動も社会順応型のお上品な態度をとるようになる。



 そして第一次世界大戦。この時期にユダヤ人問題が取りざたされるようになる。これはちょっとおかしなことで、反ユダヤ主義の大波が荒れ狂ったのは、1880~90年代のこと。青年運動が舞台に登場した時期には、ずっと目立たなくなっていたんですよ。それがなぜ? ワンダーフォーゲル運動は意識すると否とにかかわらず、右翼ナショナリズムの一般的潮流を担っているところがあったのです。

 ドイツのユダヤ人は新しくて進歩的なものに飛びつきやすい傾向があり、ワンダーフォーゲルにも共感をもっていた者が多く、1905年ごろからは運動に参加しはじめていたのですが、じつはユダヤ人であることを理由に入会を拒否された事例も多かった。そしてついに「ワンダーフォーゲル指導者新聞」の特別号で反ユダヤキャンペーンが行われ、組織全体が大混乱に。そこに書かれたテーゼは、「ユダヤ人はドイツ人(アーリア人)の血統を持たずその血ゆえに決して真のドイツ愛国者になることはできないから、一切のワンダーフォーゲルから締め出すべきだ」というもの。「指導者新聞」の1913年10月の「ユダヤ人特集号」は有名なもので、曰く、ユダヤ人はドイツ民族を搾取し、その文化を堕落させ、ドイツ人の処女をたらしこんで邪悪な白人奴隷売買網を組織した・・・といった調子。なんかもう、後のナチス政権はこれを参考にしたんじゃないかと思うくらいの激烈な悪罵。



 第一次次世界大戦。個人的に思うところなんですが、これで夢見心地の若者たちは死の問題に直面せざるを得なくなったんですよ。きっと、戦争なんて現実のこととは思えなかったんでしょう。のんきな渡り歩き、歌、キャンプファイヤー・・・およそ戦争なんてものとは無縁の、絶対的平和の世界。それが足元から崩れていった。一般的な青年よりも、積極的な理想に燃えていた連中です。多くのグループ指導者は開戦直後に召集を受け、あるいは志願兵となっています。女子は赤十字に志願。理想主義の目標が逸らされたわけです。そう、戦争が浄めの炎だという勘違い、青年らしいですね。ところが時がたつにつれて、戦争によって、道徳も、文化も、なにもかも破壊されてしまう破局にたどりつくしかないことが明らかになった時には、彼らの信念さえも破壊されてしまったのです。


 おもしろいことに、と言ってはいささか不謹慎なんですが、戦争によって(終戦後)、ワンダーフォーゲル運動それ自体が戦争ゲーム内での規則を求めるようになっているんですね。少女がリーダーになった地方支部では、「女は出ていけ」という声が上がりはじめる。どうも、反フェミニズムという意味では、ニーチェやオットー・ヴァイニンガーの「性と性格」の影響もあったようですね。

 このあたりから、運動が政治的になってくる。運動にはっきりした政治的姿勢をとれとか、既成の政党と協力せよといった右翼、左翼双方からの圧力もかかりはじめた。そうしないと、のろまで臆病で女々しい、なんて非難の声も聞こえてきて、主流は右翼グループ、あるいはそこまで徹底していなくても、政党政治を超越していると称していながら、祖国再建のための「民族主義的」陣営に傾いていった。

 その後のことを言えば、大人に指導され、軍隊まがいの教練に熱中していたボーイ・スカウトがドイツ青年運動に決定的な影響を及ぼすことになります。ワンダーフォーゲルの、その指導的立場のメンバーが出征している間、空虚な議論を繰り返している時期に、分裂して改革派による「新ボーイスカウト」が創設され、「部族教育」に力を入れはじめたんですね。ワンダーフォーゲルは社会に対して批判的ではあったのですが、自分たちが世界を変革する役目を負っているとまでは思っていなかった。ところが、かつてのボーイ・スカウトは個人よりも集団を重視して、厳格な規律を守り、共通の、ひとつの信条に仕えることを求めるものとなったのです。つまり、かつての理想は遍歴学生であったものが、軍人になっていた。

 あえて乱暴を承知で言ってしまえば、さあ、ナチズムの全体主義まであと一歩だ。具体的には、ヒトラー・ユーゲントまであと一歩と言ってもよさそうです。いや、ちょっと乱暴なんですけどね。しかし、ナチズムの根を掘り下げていけば、やっぱりワイマール時代をも超えて、世紀末に生きる、とくに若者たちの集合心性にまで行き当らざるを得ないんですよ。

 無定形で非政治的な、ゆるやかな若者たちの集団が、思想的には未熟であったのに・・・いや、未熟であったればこそ、ナチスの力学と無縁ではいられなかったのです。じつは「民族主義的」ということば、ヒトラーは好んでいなかったんですよ。ナチスのイデオロギーよりも拡大解釈されていると思っていたようです。つまりドイツの君主制を思い起こさせると。だからヒトラーの「わが闘争」のなかで、「仕事はゼロに等しいのに自負心だけは決して負けをとらぬドイツ民族主義遍歴学生に警戒せよ」と言っている。ヒトラーにとって、ワンダーフォーゲルは嘲笑の対象だったのです。

 だからワンダーフォーゲル運動がナチスとイコールで結ばれるものではない。しかし、右派と左派に分裂した一方は紛れもなくナチスと地続きであるし、もう一方にしても、その深層にはナチスの運動と触れるものを持っていたことは間違いないでしょう。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「ドイツ青年運動 ワンダーフォーゲルからナチズムへ」 ウォルター・ラカー 西村稔訳 人文書院


「世紀末ドイツの若者」 (「歴史のなかの若者たち」第4巻) 上山安敏 三省堂



Diskussion

Kundry:ワンダーフォーゲルが速記術の勉強会からはじまったというのは有名ですね。

Hoffmann:不幸にして時代の波にのみ込まれていったということなのか・・・。

Klingsol:初期の、ゆるやかな結びつきはよかったけど、組織的になって、しかも規模が大きくなると・・・。

Hoffmann:権力闘争がはじまる?

Klingsol:・・・権力闘争とまでは言わないけれど、どうしても声の大きな人間が目立ってくるということはあるよね。それが、オトナの真似をして、ユダヤ人や女性の参加にまで口を挟んでくるようになるわけだ。

Kundry:たしかに、ユダヤ人への悪罵はどこかで聞きかじってきたもののように思えますね。

Hoffmann:それに同調したり尻馬に乗ったりする連中は、初期の「ゆるやかな」志を捨ててしまったんだ。先日のエーリヒ・フロムの「自由からの逃走」の理論が適用できそうだな。

Kundry:それにしても、ナチスっていうのは、それまでにあったものを取り込んで利用することにかけては天才的ですね。ヒトラー・ユーゲントなんてまさにドイツ青年運動の「すり替え」じゃないですか。

Hoffmann:労働組合の辣腕の委員長を人事部長に取り立てて、体制側に取り込んでしまうようなもんだ(笑)

Parsifal:ひどいたとえだな(笑)