132 「論語」 貝塚茂樹訳注 中公文庫




 「論語」は、紀元前552年に生まれて紀元前475年に死んだ孔子が、弟子たちとの間に交わした問答を記録した本。本といっても時は「春秋時代」、紙なんかありませんから、竹や木の、薄く細長い板の上に筆と墨で書いてつなぎ合わせたものです。もちろん、孔子自身がそんな記録をするわけもなく、孔子が亡くなってから、弟子たちが覚えていたことばを書き留めておいたわけです。だから体系的に書かれたものではありません。


孔子

 孔子の弟子は3千人と言われますが、これは誇張でしょう。それでも名の知れた弟子だけで70人ほどいます。そのそれぞれが学派を作って、別々に書き留めて伝承されていたものが、紀元前1世紀頃にはじめて編集されてまとめられたと言われています。なお、孔子の没後、その後を継いだ儒家のほかに道家、陰陽家、法家、名家、墨家、雑家、農家などおよそ九学派に分けられる諸先生が輩出して、各自独創的な思想を主張していたわけですが、それだけ多彩な思想家がいたということで、「諸子百家」というのはこの時代の思想家を指していうことばです。「子」というのは先生の意味なので、諸学者先生が大勢、ということ。ちなみに「先進国」「後進国」ということばがいまも使われていますが、その語源は孔子の発言にあって、弟子たちの入門の先後のこと。早く弟子入りした者が先進で後進は若い後輩たちです。

 「論語」が我が国に渡ってきたのは、応神天皇の時代に百済から来朝した王仁(わに)という者が献上したときとされていますが、これは伝説レベルの話。しかし6世紀の初め頃には百済を通じて大陸から儒教学者を招いているので、この頃には輸入されて読まれていたと見ていいでしょう。

 江戸時代には幕府が儒教を尊んだので、武士の必読の書とされ、「論語」は我が国独特の「武士道」を形成することになります。西洋の騎士道の成立においてキリスト教が果たした役割を、日本では「論語」が担ったというわけです。

 「論語」は、我が国においても、紛う事なき「古典」なのです。


孔子像(湯島聖堂)

 そもそも日本人・・・というのは、歴史的な意味で言っているのですが、日本人にとって「古典」とは、かつてこの「論語」に代表される、シナ人の書いたものでした。ここで「中国」と言わないのは、その「古典」、四書五経の時代はまだ中国なんていう国家は存在しませんでしたからね、正しく「シナ人」であるわけです。その「論語」をはじめとする「古典」が、長らく日本の知識人に倫理、人生観ばかりか世界観をも与えてきたのです。

 しかし、明治以降の日本の近代史はそのような「古典」ばかりか、精神的な大系、個人の行為と社会の秩序の背景にあった、ひとつの支えのようなものを、すっかり崩壊させてしまう過程の歴史でした。いま、誰が「論語」を読んでいますか? 学問・研究の対象として以外の目的で読んでいる人なんて、いるんでしょうか。

 それでは西欧の思想は? かつての「古典」の地位は望めそうにもありません。ニーチェやヘーゲルの思想に生活を支えられている人なんか、いそうにもありません。マルクス主義も、あらゆる分野の「批評家」「評論家」を自称する人たちが、その仕事の道具として、便利に振りかざしているばかり。ギリシア古典、フランス古典、キリスト教も、みんなそう。現代日本の社会集団を動かす原動力にはなりえない。いまや誰もが、各人各様の信条(らしきもの)を持ち、たいがいの場合は妥協しつつ、つじつまを合わせて生活している、というのが現状でしょう。

 ファシズムに関する本を読んでいて思ったんですが、もしも今後個人主義の時代が終わって、個人の人格形成中心の生き方ができなくなったら・・・って、考えて見るまでもなさそうですね。明治以降、少なくとも戦後は、個人主義はともかく、だれも人格形成なんか気にもとめずに、社会の趨勢に流されているだけの世の中になっている。

 各人各様の倫理や理想を抱いているとして、それならもう社会というものは存在しないのではないか。個人をつなぎ止めているのは、かなりいい加減な習慣であり、それに我が国特有の「村社会」の構造から渋々従っているだけではないのか。

 そんな時代に「古典」なんてものが存在しようもないわけです。いやあ、あるとき、音楽関係の本を読んでいたら、ある歌手の歌った流行歌が「自分の人生を決した」と言っている人がいました。各人が勝手に自分の「古典」を持っているだけ、というのはそういうこと。別に四書五経でなくても、ギリシア悲劇でなくても、芥川龍之介でも、それどころかスティーヴン・キングでも流行歌でもなんでも「古典」になれる、ということなんですよ。奇怪なる無秩序。

 なんでもかんでも「好みの問題」としてすませてしまう思考停止は嫌いなんですが、やはり自分の好みと判断を信じてやっていくしかないわけです。思考停止に陥らないためには、反省は必要です。つまり、時には自分の判断を疑ってみること。それにはやはり時間がかかるもので、時間が淘汰してくれた末に残ったもの、つまり長い時を経て親しんできたものには、あの本は自分にとって古典だな、と思えるわけです。じっさい、収納スペースの問題から、ときどき本とかレコード、CDを処分することもあるんですが、「不要」と判断されるものはたいていの場合、比較的近年に入手したものです。そうやって、心の底に自分なりの古典の系列ができあがって来る。

 キリスト教徒でも仏教徒でも、共産党員でも、それで安心立命していられる人というのは、現実社会の混沌のなかから、自分の思想信条に適合するものだけを引き抜いて、それを現実であると承認して、それで生活を成り立たせているに過ぎないわけです。自分の頭でものを考えようという人ならば、現実の混沌を、そのまま混沌として認識せざるを得ないはず。それを全部受容していたら身が持たないから、現実世界に対するスタンスの取り方を身につけることになる。それが本来思想信条と呼ばれるものなんですよ。

 人間は生きている間に無数の経験をして、その記憶が次々と無意識の底に沈んでいくわけです。沈んでいったものは厖大なもので、そこに蓄えられている、と言ってもいいでしょう。よく、「自分語り」をする人がいますよね。どちらかというと、女性に多いんですが、「私って○○だから」とか「私はじつは××なところがあって」といった按配です。しかし、他人との会話というものは、内容よりもその発言がもたらす反応を期待して交わされるものなので、そうして語られた自分が自分について作りあげた像などというものは、浅薄なものです。むしろ、無意識下から浮かび上がってくるものこそが、その人の本当の姿なんですよ。そこにはその人の経験ばかりでなく、その経験をしたときの認識の形までがあらわれているのですから。もしも無意識下に保存されていなければ、その経験はそのひとにとって存在しないもの。

 ちょっと待てよ、と言う人がいるかも知れません。無意識の底に眠っているのか、存在しないのか、どうして分かるのか、と。だから、無意識に照明を与えることができなければならないのです。それが自分でものを考えるということ。イコール世界を認識する能力です。

 現代では、芸術作品であろうと知的創造物であろうと、売り買いの対象という以上のものとは見なされず、たとえば本なら出版産業が安物を安売りするスーパーマーケットに作り替えられてしまっています。図書館はツ○ヤ図書館などといって、公務員に賄賂を渡して天下りを受け入れて、クズ同然というよりもクズそのもの廃棄本で公費(元は税金)を吸い上げている。美的、倫理的、道徳的価値観などといったすべては、商業的な価値観にすり替えられてしまっています。商業的な価値を追求するのに、人格形成も世界認識も必要ありませんからね。

 しかし、この世に生を受けた以上、地を這うナメクジよりは空を翔る鳥の視点を持ちたいもの。

 人格形成という点でも、世界認識という観点からも、「論語」が読まれていいのではないかと思います。逆説的に聞こえるかもしれませんが、私は孔子に向かって「何も詩経や書経のような古典を読むばかりが学問と決める必要はないのではございませんか」と言った先進派の子路が好きですね。それ以上に、そんな子路を認めていた孔子も懐の深い人物です。孔子の時代は、長く続いた周王朝の末期、全土を巻きこんだ血みどろの戦国時代であって、そうしたなかで孔子が瞑想していたことをお忘れなく。

 なお、私が「論語」や「論語」についての本を読みあさったのは16歳の頃で、現在の私自身にとっての「古典」としての比重は、その2、3年後に読んだギリシア悲劇の方に大きく傾いています。


(Hoffmann)




引用文献・参考文献

「論語」 貝塚茂樹訳注 中公文庫




Diskussion

Kundry:「論語」のお話しではありませんでしたね(笑)

Klingsol:我が国で古典と言えば古くから四書五経であったのはたしかだね。

Parsifal:Hoffmann君が言うとおり、研究の対象以外で読む人はあまりいないだろうね。中国人は読んでいるのかな?

Hoffmann:そういえば、開口一番「人は、パンのために生きるのではないと・・・」とやっていた「論語の先生」がいたっけね(ここ