140 「シューマンとロマン主義の時代」 マルセル・ブリオン 喜多尾道冬・須磨一彦訳 国際文化出版社




 「存在の大いなる連鎖」(内藤健二訳 晶文社)で知られるアーサー・O・ラヴジョイArthur Oncken Lovejoyは「ロマンティック」ということばは時代の流れ中であまりにも多くの意味を与えられ、あまりにも多くのニュアンスで用いられてきたため、結局のところ、なにも意味しないと同じことになった、言語的な記号としての機能を喪失した、と言っています。じっさいにこのことばが用いられた例を検討すると、そこではどうやらそこでは書く人の気分や立場に応じて、「魅力的」の意味であったり、「装飾的」であったり、「神秘的」であったり、「非現実的」かと思いきや「現実的」、「革命的」を意味する一方で「保守的」の意味で使われていたりする・・・。

 これ、じつはボードレールも同じようなことを言っていて、ロマン主義ということばに現実的な、実際的な意味を与えようという人は今日ではほとんどいない、としている。ポール・ヴァレリーなんか、ロマン主義を正確に定義しようと試みることなど愚かしいとしているんですよ。

 なんでも語源をたどると、これが結構面白いものでしてね。英語ならromantic、フランス語ならromantique、ドイツ語ならromantisch。「ロマンティック」とはもともと「ロマン」、すなわち「長篇小説」を意味することばでした。もちろん、近代の長篇小説のことではありません。ラテン系、ロマン系の国々で、ラテン語によらず、その国のことばで書かれた騎士物語を中心とする一群の作品のことです。フランス語で「ロマネスク」romanesqueと言えば「小説的」「物語的」という意味でしょ。これに近い。さらに、ただ長篇というだけでなく、波瀾万丈、荒唐無稽な筋立てやエピソードを含んでいるのがお約束。だから「空想的」「伝奇的」というニュアンスも帯びている。

 それがジャン・ジャック・ルソーあたりになるとスイスの小さな湖の眺めをロマンティックだと評していて、どうやら「絵画的」といった意味合いの、口語的、日常用語的な使われ方をしている。それを精神的な立場、芸術的な理念にまで格上げさせたのは、シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、ブレンターノといったドイツロマン主義の面々だったわけです。おかげでエッカーマンの「ゲーテとの対話」には、文学における古典主義とロマン主義の概念は世界中でさまざまな論争を生んで、いまや誰もがこの問題には一家言持つようになった、とあります。

 ゴシックとかバロック、ロココ、あるいはロマン主義を飛び越えて写実主義、印象主義だったら、まだしもその様式がある程度は説明できそうなんですが、ことロマン主義となると様式概念としても時代概念としても誰もが納得できるような定義をすることが難しい・・・あ、振り出しに戻っちゃいましたね(笑)

 人さまの鼻面を引き回すのもたいがいにして、つまりロマン主義を語るのに様式から入ろうとしない方がいいんじゃないかということです。ロマン主義っていうのはね、ある種の精神運動であり、心的傾向なんです。突飛なことを言うなあと思っちゃいけません。これ、しばしば言われることなんですよ。「主義」と名がついているけれど、"-ism"に貫かれた運動ではないんです。その点、20世紀のダダ運動に似ています。「何者であってもいい」「なにをしてもいい」芸術だと思えば、いくつかのグループもその内部は人それぞれ、ロマン主義は流派ではないのです。だから、時空を超えて存在する。ゴシックとかバロックとかロココみたいに、歴史上のある期間の時代精神ではないのです。だってそうでしょう、中国の古詩だって、生のはかなさを歌っていますよ。古代のラテン文学だって、情熱的な恋を歌い、自然崇拝を称揚している。

 それでも、いわゆるロマン主義の時代に特徴的なのは、先に述べた「何者であってもいい」「なにをしてもいい」という「許可」です。これはやはり、人間個人の権利意識の高まりが大きく作用していると思われます。つまり人々のなかに自由平等の精神が芽生えてきた・・・人権思想ですよ。世俗的な現実社会でも宗教の自由と法の前の平等が求められるようになって、その背景ではヨーロッパでの国家統一・独立の流れもあった。

 ルネサンスからバロックあたりまでの時代に活躍した芸術家について調べてごらんなさい。必ずメディチ家がどうとか、ルイ14世だとか、○○市がどうしたとか、その芸術家の創作を助けたり、制約したりしている存在がある。べつにその芸術家の友人とか理解者じゃないんですよ。当時の公的機関なんです。

 ところが18世紀も終わりから19世紀になると、たとえば音楽家だって教会や王侯貴族のお抱え楽士ではなくなって、市民社会において「作曲家」とか「演奏家」といった地位を築く。パトロンの介入なしに創作活動できるようになれば、自然と目覚めてしまうのは「自由主義」です。さらに、旧体制としてのアカデミズム(この時代だと新古典主義)に対する反動もそのひとつのあらわれです。

 シューマンとブラームス、それにアルベルト・ディートリヒの合作で、「F.A.E.ソナタ」"Sonate F.A.E."ってあるじゃないですか。これは半分冗談で半分本気なんですけど、"F.A.E."というのは"Frei aber einsam"「自由だが孤独に」の頭文字ですよね。これは作品を献呈されたヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムのモットーなんですが、これこそがロマン主義をひと言であらわしている象徴的なことばのように思えるんですよ。

 つまり、自由であるということは、それと引き替えに個人の内面に、ひとりで、沈んでいかなければならないということです。幻想文学の話の時にも言ったことですが、自分にとっての真実とはなんなのか、と考えるということは、自分という「個」を追究することであって、それはどうしたって孤独な作業なんですよ。おまけに自由になるということは、パトロンを失って、翼を休める場所も失ってしまうということなんです。それはベルリオーズもボードレールもシューマンも同じ。



Marcel Brion

 さて、マルセル・ブリオン(ブリヨン)の「シューマンとロマン主義の時代」は、シューマンをロマン派の魂がもっとも壮大かつ特徴的にあらわれた作曲家として、その伝記的事実を追いながら、その時代と相互に影響しあってゆく過程をたどってみようとする試みです。基本的にはシューマンの伝記として読んでも差し支えありません。

 ここで目次を記載しておきます―

 序文
1 ドイツ・ロマン派の森
2 黄金時代
3 ぼくは愛することを愛した 
シューマン
4 どんなものにも歌がまどろんでいるもの 
アイヒェンドルフ
5 未来はすばらしいことばである 
シューマン
6 金色に輝いて楽の音が風のごとく吹き下る・・・ 
ブレンターノ
7 光のために創造せよ! 
シューマン
8 クラーラの目と彼女の愛 
シューマン
9 作曲すること、それは夢の王国を騎行することだ 
E・T・A・ホフマン『幸運の騎士』
10 愛はやさしいハーモニーで想う 
アイヒェンドルフ
11 夜の闇から曙は生ず 
カール・フィーリップ・モーリッツ
12 自然のオルガン 
ティーク『フランツ・シュテルンバルト』
13 ドイツ・オペラ
14 神秘の径は内面に通ず 
ノヴァーリス
15 神々よ、私の歌の成熟のために今ひとたびの夏と秋とを恵みたまえ 
ヘルダーリーン
16 さあ訪れるのだ、ああ、影の国の静けさよ 
ヘルダーリーン

 この本の目次ページには、いくつかの章で副題的に添えられたシューマンやアイヒェンドルフといった名前や作品名が記載されていないため、ここに示しておきました。このなかで、比較的知られていないのはカール・フィリップ・モーリッツKarl Philipp Moritzでしょうか。このひとは18世紀後半、シュトゥルム・ウント・ドラングから初期ロマン主義にかけて活躍したドイツの作家、美学者です。とくにゲーテの芸術論に影響を与えたと言われますが、現在日本語で読める著書は見当たらないようです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「シューマンとロマン主義の時代」 マルセル・ブリオン 喜多尾道冬・須磨一彦訳 国際文化出版社



Diskussion

Parsifal:F.A.E.かあ、たしかに、立場的にも、内面に沈潜するという姿勢からしても、ロマン主義のモットーと言って差し支えなさそうだ。

Klingsol:時代精神と言ってもいいんだけど、ロマン主義というのは流派ではないから、現代にまで受け継がれているように思えるね。

Kundry:生き方と言ってもよさそうですね。


Hoffmann:以前、ちょっと話したけれど、少なくとも音楽分野ではニーチェの「神は死んだ」をロマン主義はロマン主義なりに乗り越えてしまったんだよ。さらに、20世紀になるといかなる分野でも、学説とか思潮というものが長続きしなくなったから。

Parsifal:やっぱり個人の人権が重視されるようになったのが大きいんだろうな。Hoffmann君が(個)人というものをもっとも重視するのだって、ロマン主義的だよ(笑)

Kundry:その意味ではロマン主義は長い歴史の中でもっとも長きにわたって息づいている思想なのかも知れませんね。

Parsifal:はじめの方でボードレール、ヴァレリーの名前が出てきたけど、フランスのロマン主義に関しては文献が少ないよね。

Hoffmann:ドイツ・ロマン主義はいろいろ研究書も参考書も出ているんだけどね。でもフランスのロマン主義というとやっぱりドイツからの影響から語られることになってしまう。たとえばボードレールだったら作曲家のワーグナーだよね。

Klingsol:シャルル・ノディエにしてもE・T・A・ホフマンか・・・。

Kundry:いきなり象徴派に至ったわけではありませんからね。でもヴィクトル・ユゴーも政治に関心を持ちすぎていて(笑)言われるほどロマン主義とは思えないんですよ。