141 「陰謀論の正体!」 田中聡 幻冬舎新書




 陰謀論です(笑)フリーメイソンだかイルミナティだかユダヤ資本だかが世界を支配しているとか、アポロは月に行っていないとか、9・11のテロはアメリカの自作自演だとか、地球温暖化説はでっち上げだとか、阪神・淡路大震災や東日本大震災は地震兵器によって引き起こされたとか・・・そういった妄想というか、説。それぞれに附随する話もあって、たとえばアポロが月へ行っていないという説には、月の石がじつは地球の石で、月面の映像はスタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」"2001 : A Space Odyssey"(1968年 英・米)のセットで撮影されたものだなんて言っている人もいます。少しスケールは小さくなりますが、競馬の着順はすべて日本競馬中央会JRAによって操作されている、というのもありましたね。もっとも、このくらいになると陰謀論というより都市伝説と呼ぶべきでしょうか。

 いちいち反駁するのもばかばかしいんですが、ひとつ、エイズやインフルエンザ、さらに大震災は地球人口半減計画の一環であるという主張を取り上げてみましょうか。人口が半減して誰が得するのか分かりませんが、現在の地球人口約80億人の半減なら、40億人始末しなければならない計算ですから、ずいぶん効率が悪いじゃないですか。現に、いまも地球人口は毎年約8,000万人のペースで増加しているので、大震災なら年に300回くらい発生しないと追いつきませんよね。

 陰謀論を説く人は、その陰謀の「情報」を真実であるとしています。一方で、その陰謀論を否定する人のことを情報弱者呼ばわりして、まさしくその陰謀に加担しているとしている。

 この本は単純に陰謀論を否定するのではなくて、「そのように思われていることが重要」なのであって、陰謀論を排除するよりも、陰謀論という間違えることしかできないものの内部に、質への意識を育てるべきであるとしています。

 なんだか日和見主義だなあ、というのが正直な第一印象です。

 陰謀論こそが陰謀なのだから、質的向上など見込めるわけがありません。これは宗教と同じなんですよ。「信じて」いる人の、謂わば「信仰」というものが、大きくも小さくも、修正を図れるわけがない。

 この本のなかにも書かれているんですが、菅直人が2013年に自らのオフィシャルブログに、みのもんたが息子が起こした窃盗事件でTVから姿を消したのは、原発問題で安部内閣を批判していたために、原子力ムラの「陰謀」によるものだと書いた例。これは著者も指摘しているとおり、自分が原子力ムラに追い込まれたという被害者意識で書かれており、言っていることは、ごく普通の民間人が知りうることや考えることだけ。震災と原発事故の時に首相という立場であった人間の考えることこの程度か・・・という内容なんですよ。そこらへんの陰謀論者のほうが、まだしも権力の奥行きに関しては、想像力が豊かであろうと思われるものです。

 つまりUFOカルトと同じ、だれにでも「わかりやすい」ものでないと、陰謀論にならないのです。むしろ逆に、人間の想像力の限界レベルでしか、陰謀論は作り出せないのです。

 さらに、反証できないようなものであれば、「言った者勝ち」。たとえば阪神淡路大震災にしても、東日本大震災にしても、地震兵器による人工地震であるという主張のように、「そうではない」という反証が不可能なもの。そんな事実はないというのは、悪魔の証明ですからね、陰謀論者はそこを狙っているわけです。

 この本でも、陰謀論は他人を莫迦にするための選民思想だとか、差別思想だとか、物事の単純化だとか、思考停止を招くものだとかいった陰謀論批判が検証されていますが、すべての陰謀論をひとくくりにして説明できる批判があるかどうかなんて、検討しても意味がありません。時に差別思想であり、時に単純化でしょう。すべてにあてはまる批判でないからそうではない、なんて言えるわけがない。宗教だって、一面、選民思想だし、反ユダヤ主義やレイシズムはヨーロッパやアメリカの精神風土の底流に、古くから脈々と息づいているものなんですからね。

 陰謀論というのは、解決不可能なものを解決可能にする方法なんですよ。納得できないものに当惑して、これを無理矢理に納得するために、無理矢理に付けた理屈なんです。世のなか、それだけ解明不可能なものが増えてきているということなんです。例えば殺人事件でも、金銭が絡んでいれば人は納得しやすい。ところが、コリン・ウィルソンが20世紀の殺人に特徴的であると指摘している「快楽殺人」は理解できない人が多い。だから、裁判にあたって、「全容の解明を」なんて言っているんです。或る事件を例に挙げると、犯人が誰でもいいから殺して死刑になりたかったと言っているのに、やっぱり「全容の解明を」・・・となる。それは、そんな理由では納得できないから、とくに被害者の遺族にしてみたら、死んだ人間が浮かばれないと感じるから。でもね、人間の行動って、いちいちそんなに首尾一貫した理由があるわけではないでしょう。いじめだってそうです。それを何か理由があるはずだと言って、ときには被害者にも原因があるんじゃないかなんて言い出す人がいる。

 このような思考回路が陰謀論の温床なんです。その意味では単純なんですよ。だって、「黒幕」を想定するなんていうのは、いちばん手っ取り早い短絡思考です。その黒幕というのは国(政府)であったり、フリーメーソンであったり、イギリス王室であったりする。それなりの権力者。

 ひとつには、1980年代からの東欧の民主化と1991年のソヴィエト連邦の崩壊があるんじゃないか。つまり、社会主義は行き詰ってしまった。やっぱり民主主義、資本主義が正解だったんだ・・・とみんな感じたんですよ。冷戦に勝利したんですから。ところが対立勢力がなくなると、こんどは民主主義、というより資本主義に疑いの目が向けられるようになったんです。じっさいに「格差」なんてことばが使われるようになったのはその頃からです。タイミングの悪いことに、狂ったようなバブル経済とその崩壊がこの「格差」を助長した。資本主義の悪の面がことさらにクローズアップされて、悪の資本主義が跳梁跋扈しているという「常識」が刷り込まれたわけです。グローバリゼーションとかEUの行き詰まりもこの流れの先にある。だから民族主義とか、なんだか「近代」に先祖返りしているような風潮が目立ちはじめたんです。

 グローバル化というのは国家の解体なんですよ。近代なら領土の範囲内で権力と政治が一体化していたのに、これが分裂してしまった。だからいまは与党と野党の間で政策が議論されることはない。やっていることは、ただただ政局を争う、その場限りのことばの応酬があるだけ。なので、政治家が当選後に公約と正反対のことをやっているのもめずらしくない。政策を決定するのはもう政治家じゃなくて、世界市場の原理なんです。経産省が補助金を出している企業の生産拠点は日本とは限らないんですよ。それどころか、その資本は外国にあったりもする。おもしろいことに、陰謀論者はこのような現状も理解できなくて(というより認めたくなくて)、政策決定をしている政治組織が見えないところにあると主張しているんです。野党にそうした陰謀論を唱える人が多いのは当然でしょう。

 それはともかく、グローバル化の原理によって、2024年1月1日の大地震でも、岸田総理は国会で、保険なり借金なりで自分でなんとかしろというような「自己責任論」で、被災者への補助・援助なんてまるで考えていないことを示しました。国家はもはや国民の生存を保証する能力も意志も、持ち合わせてはいないのです。

 そうすると、国民は不安になる。なんでもかんでも自己責任と言われるのでは、一向にその不安は解消されない。それがまた、不幸の原因を転嫁する対象を求める陰謀論の温床になるわけです。言い換えれば解決不可能なものを解決可能にする理論であり、それは殴り返してこない相手を選んでの八つ当たり的復讐心でもある。だからクレーマーなんてのも増えたし、インターネットでもなにかというと「不謹慎」だとか言って他人を攻撃する人がいるんです。そもそもヨーロッパなんて何百年も前から反ユダヤ主義で不満のガス抜きをしていたんですから、いまにはじまったことじゃないんですけどね。

 さて、世の中、さまざまな情報が飛び交っています。どれが本当でどれがでっち上げなのか、あるいは主張している人間の思い込みなのか、なかなか見分けがつきにくいこともあるでしょう。

 以前私が読んだ原発関係の本での例を挙げると―

「AだからBになったのかもしれない」
「AならBになると考えることも可能であろう」

 ・・・と繰り返した少し先で―

「Bであった。これはAという原因があったためだと見て間違いない」

 ・・・と、仮定が断定にすり替えられていました。

 これくらいなら注意深い人は気がつきそうなものですが、そもそもこのような本を読む人は、「AならBになる」という結論を期待しているわけですよ。つまり認知バイアスが働いている。人は見たいものしか見ませんから、これを鵜呑みにしてしまう人は少なくないのでしょう。私が若かった頃の職場の上司にも、週刊誌の記事を鵜呑みにして得意になって吹聴している人はめずらしくありませんでした。インターネット以前の時代は、活字になっているというだけで、自分ではなにも考えないで信じ込んでしまうというのが、昭和のオジサンに多かった。知のエリートぶりたい人には、ちょっと斜に構えた「週刊○潮」が人気でしたね。昭和のオバサンに多いのは、近所の○○さんがそう言っていたと、誤った情報を信じ込んでしまう例です。

 ここで、陰謀論を見分けるためのヒントを示しておきましょう。次の項目に当てはまるものは一度疑ってみた方がいいですよ、という特徴です。

1 二次資料が多用されている。インターネットの情報にばかり頼っている。そりゃあ、陰謀論者なんてPCの前に座しているだけですからね(笑)

2 論者が批判されると怒り出す。常に戦闘モード。批判と検証をひどく恐れている様子がうかがわれる。

3 持論の欠点を指摘されても持論を繰り返すばかり。

4 一般に使われている用語を用いず、自分で用語を作って、これを多用する。所謂「脳科学」でこういう人、いますね。

5 ことさらに大手メディアを批判して、だれもこれまでに取り上げていないことを主張して、「タブーに挑む」などと気勢を上げている。反権力、反権威が大好き。正義感ぶっている。被害者ぶる。政治的に偏向した人が多い。

6 自分の説を否定するような証拠が少ないと「証拠が少なすぎる」と言い、多いと「多すぎて不自然」と言う(笑)ほかに、自説を裏付ける「証拠が隠されているのだ」と言って、それが自説が正しいことの証拠だと言い張ることもある、つまり「証拠がないことが証拠だ」というわけです。それで「論破した」と得意になっている。ついでに言っておくと、「論破」ということばを使う人の言うことは信用しない方が賢明です。マウントをとるための単なる「流行語」ですから。データの捏造やでっち上げ(偽造)に走る人もいるので注意。

7 読者を煽る。つまり、陰謀論ファンとの共犯関係を結ぶ。そもそも食いつきのよさそうなテーマを選んでいる。他人に通じやすくて、同時に「自分だけが知っている」という優越感を抱かせるテーマ。

8 論者がその論以外では実績がない。その論でブレイクした人。

9 一般メディアや研究者からは無視されているだけなのに、「相手は沈黙した」と勝利宣言をする。

10 いよいよ追いつめられると「だから再調査が必要なのだ」と逃げる。

 陰謀論というのは、自説に都合の良いケースだけを選別して事実を再構築しますから、できあがった「物語」は案外と首尾一貫しているように見えることもあります。でもね、現実はそんなにつじつまが合っているものばかりじゃない。むしろ矛盾した真実なんて、山ほどあるんです。

 たとえば、事象が複雑怪奇なものでなくても、目撃談に矛盾が生じるなんて、別段、めずらしいことじゃないでんすよ。推理小説なら、目撃証言が食い違えば、誰かが嘘をついているということになります。ところがじっさいの事件ではどうかというと・・・以前仕事で、ある殺傷事件の「供述調書」を法務局で閲覧したことがあるんですが、ある男がもうひとりの男をスナックで刺したとき、その直前に口にしたことばというのが、当の加害者、言われた被害者、3人の目撃者、それぞれの証言で、すべて、ぜんぜん違うんですよ。加害者と被害者はそれぞれ自分に都合良く脚色しているのかも知れない、しかし、その場に居合わせたなにも利害関係のない3人が聞いたということばが、それぞれまったく違う。ひとりは激しい口調の罵倒だったと言い、別なひとりは泣き言のような謝罪だったと言っている。こんなこと、めずらしいことではないんです。

 そして、いちばん大事なこと―それは、時には自分をも疑ってみる姿勢と精神を失わないことです。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「陰謀論の正体!」 田中聡 幻冬舎新書


「検証 陰謀論はどこまで真実か」 ASIOS 文芸社
 ※ 上記「陰謀論を見分けるためのヒント」は、この本の「あとがきに代えて」に挙げられている奥菜秀次氏による「陰謀論の構図」を参考にしています。



Diskussion

Hoffmann:陰謀論のまとめだね。

Kundry:UFOカルトについては以前、少しお話しいただいていましたからね。

Klingsol:今回取り上げた本は、単純に陰謀論を批判しているだけではないね。でも、一般に耳にする陰謀論に有益な機能があるとも思えないな。

Hoffmann:だから、「どっちつかず」の印象もある。

Kundry:グローバル化が国家の解体、というのは・・・。

Klingsol:Parsifal君が言う「近代への先祖返り」はそうかもしれないな。もちろん、結果として、だけど。

Kundry:Parsifalさんのお話しでは、陰謀論でも差別感情(たとえばこことかここ)などを克服するためには、自己観察も重要とされているのが見逃せませんね。

Parsifal:ことばを換えれば、自我の限りない肥大化を抑制するということなんだ。