158 「渚にて ―人類最後の日―」ネビル・シュート 井上勇訳 創元推理文庫




 ためしにここでちょっとした賭をしてみよう。この一行を書きおえるまでのあいだに地震がくれば、一万円支払います。
 無事に地震をやりすごせた。ぼくは賭に勝った。あいにく賭の相手を特定しなかったので、儲けはしなかったが、損もしなかった。ぼくだけでなく、実際に地震がくるその直前まで、誰もがこんなふうに楽観的見通しのほうに賭けつづけるに決まっている。


 ―上記は安部公房の「死に急ぐ鯨たち」(新潮社)から引用。

 地震に関して言えば、プレートの圧力で限界まで蓄積されたエネルギーが解放を待つ物理的な時間があり、一方で、昨日のように今日があったのだから、今日のように明日があるはずだという日常的な経験則の時間がある。安部公房は、物理的な時間が避けがたいことを知りながら、なぜか経験則を優先させてしまっているのだと指摘しています。つまり、想像力の不足からくる楽観主義。

 さて、今回取り上げるのは、「渚にて ―人類最後の日―」。イギリスの作家、ネビル・シュートが1957年に発表した、近未来SF小説とされています。スタンリー・クレイマー監督、グレゴリー・ペック主演で映画化されたのは1959年ですから、ほとんど「間髪入れず」のタイミングですね。

 じつは今回、原作小説と映画と、両方取り上げるまでもないかと、最初は映画について語り、ついでに小説にも触れようかと考えていたんですが、映画のDVDを観てから小説を読んだところ、これは小説こそ取り上げたいなと考え直しました。

 あらすじは―

 時は1964年。第三次世界大戦が勃発し、核爆弾の一種であるコバルト爆弾の高放射線曝露で北半球の人々の大半は死滅した。深海で潜行中だったために生き残ったアメリカ海軍の原潜スコーピオン号は、放射線汚染が比較的軽微で南半球に位置するオーストラリアのメルボルンへ逃げ込む。そこでは戦争の被害を受けず多くの市民が日常を送っていたが、放射線による汚染は徐々に南下しつつあり、最後のときは近い―。

 そんなある日、アメリカのシアトル付近から、まったく意味をなさないモールス信号が発信されているのを受信した。生存者がいるのではないかと、スコーピオン号艦長でアメリカ海軍中佐ドワイト・ライオネル・タワーズ、オーストラリア科学工業研究所研究員ジョン・S・オスボーン、オーストラリア海軍少佐ピーター・ホームズらはスコーピオン号に乗り込み、その発信源と推定されるワシントン州ピュージェット・サウンドサンタ・マリア島のアメリカ海軍通信学校へ向かう。サンダーストローム中尉が防護服を着用して調査するが生存者はおらず、ロールカーテンに吊るされたコカ・コーラの瓶が、風の力で発信用のキーを打鍵していたのだった。これが、はるばる1万マイルの航海をして見に来た謎の解明。スコーピオン号は空しくメルボルンへ帰還する。

 汚染の南下により、南半球の人類の滅亡も避けられない状況で、多くの市民は南へ逃げることによる延命を選択せず、配布される薬剤を用いて自宅での安楽死を望み、覚悟して残りの人生を楽しむ。まもなく大気中の放射線量が上昇し、被曝した急性放射線症患者らが服薬しはじめる。ブリスベンのアメリカ海軍から前任者退任と兼任指令電報を受けてアメリカ海軍艦隊司令長官に昇進したタワーズは、賛同する乗組員とともに自艦をオーストラリア領海外に出して自沈させ、アメリカ海軍軍人として死ぬことを選択する―。

 
※ 訳文では、たとえば「シアトル」は「シャートル」、「コカ・コーラ」は「コカコラ」となっていますが、適宜修正しました。


Nevil Shute Norway 自身、1950年にオーストリアに移住して、1960年にメルボルンで没するまでここで生活しています。

 映画では言及されていませんが、この原作小説では、アルバニアによるナポリ爆撃をきっかけとするエジプト軍のソヴィエト連邦製長距離爆撃機によるワシントンとロンドンへの爆撃が戦争の発端とされています。また、原子力潜水艦スコーピオン号は、1957年1月31日に建造計画が発表され、1960年7月に就役した当時の最新鋭。なお、1968年5月22日の事故で失われています。

 ネビル・シュートはイングランドの作家ですが、このあたりには、やはり東西冷戦下の不安と疑心暗鬼が表象化しているのでしょうか、一方で、核の脅威を描きながら、アメリカ最新鋭の原子力潜水艦が登場するというのも、核利用を否定しきれない思いがあったものか・・・。

 核兵器がもたらした放射性物質で被曝する人々の病態については、当時放射線障害に関して詳細が不明であったためでしょう、いま読めば認識誤りと言わざるを得ないもの。どうも、コレラの病態を参考にしたものかもしれません。

 登場人物たちが、静かに最後の時を迎えるのがたいへん印象的です。見苦しい醜態をさらす人はいない。パニック状態にもならず、その運命を受け入れるかのようです。いや、現実逃避傾向の人はいるんですが、それでも醜態というほどのものではない。だいいち、現実逃避と言ったら、最初のうちは、やがて訪れる最後の時をあまり意識せず、ひょっとするとこのまま生き延びられるんじゃないかと、漠然とした希望にすがっていたような節もあり、その意味ではだれも彼もが現実逃避気味でした。

 しかし、そうした態度や姿勢が持続する「いま」に居座りつづけようとする現実逃避だとして、これを愚鈍で片付けてしまっていいものなのか。ここで冒頭に引用した安部公房を思い出して下さい。そもそも「日常」とはなにか。経験の反復を定着させたものですよね。その日常を信じるのもまた、生きてゆくための、あるいは生き延びるための、知恵なのではないでしょうか。

 想像力の欠如? いや、過剰な想像力は取り越し苦労の種になることもあります。この物語で南下してくる放射性物質というのは、決して取り越し苦労ではないんですが、しかしひとりが怯えてあさっての方向に駆け出せば、たちまち全員がパニック状態に陥ってしまったことでしょう。そんなことになれば、下手に寿命を縮めるだけのこと。現実から目を背けるというのは、来るべき未来に対する態度としては、徹頭徹尾厳密に適切な態度であるとは言えないのですが、知らん顔しているのが、謂わば歯車の遊びなんです。これが行動原理の実用性に貢献するんですよ。

 東西冷戦は第二次世界大戦後の危機でした。これは時期的にそこで顕在化したというだけではない。「正義」の側に立ったという建前に酔っていた戦勝国ばかりでなく、植民地支配から脱した国々においても、平和な日常という幻想のなかで、その日常の安定と補償を国家に求めてしまった。正確に言うと、国家に委任してしまったんですよ。だからその信任状を得た国家は、武装化を正当化することができた。それが東西冷戦のもたらしたものだったんです。第二次世界大戦後だから、その武装化というのは、具体的には核兵器です。それぞれの国がそうやっていれば、平和というものは力の均衡でしか得られないことになる。この力の均衡という状況がどこかのレベルで安定するわけがなくて、常に競争は激しさを増して、天秤の両側にかかる荷重は大きくなってゆくばかり。そうなると、あとは先手必勝。「平和のために」「犠牲を最小限にとどめるために」、相手に先手のチャンスを奪われないための先陣争いをつづけるしかなくなるわけです。すでに世界には、地球を何回も破壊できるだけの核戦力が保有されていると言われるようになって、もう久しいですよね。でも、一向に歯止めはかからない。

 ロバート・ワイズの「地球の静止する日」"The Day the Earth Stood Still"(1951年 米)なんかご覧なさい。登場する宇宙人の思考が人間とまったく同じ価値観である陳腐さ加減には目をつぶるとしても、そこで人類に要求していることは、全世界の「指導者」を自認するアメリカによる恫喝です。力で抑えつける、つまり、自国が核兵器を持つことで他国の核抑止力とするという発想でしかありません。頭を捻って考えてもこの程度? そうではなくて、これが1950年代のアメリカ映画のプロパガンダ的側面なんです。

 なお、この小説は現在同じ創元推理文庫から新訳が出ていますが、なんとも不名誉なことに誤訳・悪訳で有名になってしまいました。誤訳のおかげで意味が通らなくなったばかりか、前後で矛盾が生じている箇所もあり、さらには原文にない文章までが挿入されている始末。翻訳者もさることながら、東京創元社の編集者はなにもチェックしなかったのでしょうか。これで「渚にて」を読んだつもりになって欲しくありません。これから読もうという方には、訳文は少々古いながらも、今回取り上げた井上勇訳を推奨しておきます。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「渚にて ―人類最後の日―」 ネビル・シュート 井上勇訳 創元推理文庫




Diskussion

Kundry:思いっきり「変化球」で攻めてきましたね(笑)

Hoffmann:書評だと思って読んだ人は当惑しそうだ(笑)


Klignsol:テーマがテーマだけに、抹香臭いお説教や教訓の押しつけかと思うと、そんな小説ではない。SF小説かどうかというよりも、なかなかにすぐれた文学作品だと言っていいんじゃないか?


Parsifal:参考までに、"on the beach"ということばは、イギリス海軍で退役を意味するんだよね。また、T・S・エリオットの詩からとられた語句でもある。たしか1957年の初版では、表紙にT・S・エリオットの詩の抜粋が印刷されていたはずだ。

Hoffmann:あとは、このイギリス人の作家による原作小説を映画化したスタンリー・クレイマーの「渚にて」"On the Beach"(1959年 米)について、引き続きParsifal君に語ってもらいたいな。

Kundry:Parsifalさんはアメリカ映画には厳しいですからね(笑)でも、これは原作がいいので、大幅な改変がなければ・・・。


(追記) 「渚にて」"On the Beach"(1959年 米)スタンリー・クレイマー upしました。(こちら