159 「今昔物語集」 第1-5巻+別巻 (新日本古典文学大系33-37+別) 今野逹 小峯和明 池上洵一 森正人 校注 岩波書店




 庶民の文学です。貴族の女性たちによる王朝文学とは異なる、庶民の側からの証言。歴史上は院政時代といわれる平安朝末期の頃に作られた書物です。我々がとらえるような近代的な意味での「作者」がいて、この厖大な短い話を「創作」したというわけでありません。平安朝時代における巷のさまざまな噂、ゴシップの類いから、外国の話や伝説、ちょっとした逸話のようなものまで次々と記録していったら、いつの間にかこれだけの数々の話が集まってしまった、それを「天竺」「震旦」「本朝」と大きく三つに分けて、そのそれぞれの話を題材や話の意味などによって適当に配列して、書物としての体裁を整えたもの。

 なので、この本を作った人の名前は知られておらず、しかもその作った人が「著者」であると言えるのかどうかも分からない。もしかしたら、ひとりで作ったのではなく、何人かの共同作業であったのかも知れない。

 現在では若干失われた部分もあるのですが、一応31巻で千以上の話が集められています。だから、たいへんな労作であるとともに、これだけの話をまとめた人の好奇心たるや並大抵のものではあるまいと想像できます。

 西洋でも中世の終わり頃から近代初頭のルネサンス時代にかけて、各国で説話集が作られていますよね。イタリアではら「デカメロン」、フランスなら「エプタメロン」、似たものでは、19世紀はじめ、ドイツにおけるグリム兄弟による「童話集」などもそのひとつ。

 ところが、「今昔物語集」は直接的な伝聞の形をとっており、話を面白くしようといった作為性が希薄で、古い時代の人々の精神に浸透していた、迷信とか俗信に支配されている傾向が強いんですね。グリムに似て民俗的なところがありながらも、話はもっぱら日常的。つまり、寓意とか象徴に至らず、それ以前の生の素材のまま報告されている。つまり、動物がことばを喋ったりはしないんですよ。グリムだったらそれで寓意の込められた民話になるんですが、「今昔物語集」で動物が人間と会話をしたら、それは不思議なこととなる。

 だからこそ、「今昔物語集」は当時の日本人の精神状況について、より正確に、ありのままを、我々に語ってくれるのです。

 その意味では、これは近代的な意味での「文学」ではないのです。「文学」なら、日常的経験とは別の純粋な観念的な世界を作りあげるはず。「今昔物語集」は、そのような別世界を構築することを目指してはいません。登場人物が経験するのは、不思議なことも含めて、あくまで日常的経験です。読者が読むのは、その日常的経験で、観念ではない。

 面白いのは、その舞台がほとんど日本全土に及んでいること。現代とは異なってそのほとんどの場所を訪れたことのある読者などいなかったはず、いや、この本を作製した人物だって、行ったこともない場所の話を編纂していたのでしょう。

 だから、当時の人々は、これを読んで日常的経験の拡大をその身に覚えたのではないか。書かれていることを信頼して、ということは、書かれているとおりに信じて、単なる好奇心の満足というより以上の、新鮮な心の躍動を感じていたはずです。

 だから、「今昔物語集」は作者の意図とも、その内容の記述方法とも無関係に、文学的な価値を得たのです。作者の意図と、できあがった作品の文学的価値というものは、まことに無関係なものなのですよ。

 「今昔物語集」の各挿話はすべて同一のスタイルで語られています。

 はじまりは必ず「今は昔」。終わりは「となん語り伝へたるとや」。その間にいかなる不思議な、あるいは驚異的な物語が展開されようとも、最後は「・・・という話である」と、ドライに切り上げてしまう。考えてみればなんとも巧妙な話術ではないでしょうか。「となん語り伝へたるとや」ですから、「語り伝へ」に収束する、すべての話が、です。「語り伝へ」とはなにか。この物語集を口から口へと語り継いできた民衆の「集合意識」です。口から口へと語り継がれてきたその過程で、話は多少変わっているかも知れない。グリムだって手を入れていますよね。でもそれは、グリムが近代的作者だったからこそ行ったことです。伝承的な説話を語り継ぐのはあくまで名もなき民衆です。そこに独創性を付け加えることなどしません。むしろ、だれが語っても、だれが聞いても、等しく納得できるような普遍的な物語を目指すのです。だから、独創性どころか、余分な要素は削り取られていく。従って、誰が語っても同じ話になるはず。そうした意味でも、「今昔物語集」には作者がいないのです。あえていえば、人々の集合意識が作者であるということになります。

 「今は昔」と「となん語り伝へたるとや」という、限りなく決まり切った紋切り型の枠のなかにはめ込まれている多彩な説話が、謂わば「元型」となって、歴史の資料や話の種本におさまらず、高い文学的価値を得たところに「今昔物語集」の偉大さがあるのです。

 時期的にはこの直前、爛熟した宮廷文化が生んだ「源氏物語」の文体は、社交界の女性の話しことばを文章語として洗練させたものでした。その語句は、現代の我々はもちろん、当時だって、一般的な民衆には理解しがたいものであったはず。それは喜びも悲しみも、その宮廷世界での体験により、独特の変化を生ずる感情であったから。

 なので、「今昔物語集」はそうした王朝文学が進化したものでも、退化したものでもない。まったく別な場所、別な社会に発生したものなんです。宮廷とか後宮がこれまでに蓄積してきた文化、といえば聞こえはいいものの、伝統やしきたりに縛られた感受性とは無縁。だからわかりやすい。

 それに、「源氏物語」は上流貴族しか登場しません。しかもそれを上流貴族の視線で見ている。しかし「今昔物語集」は、上流貴族社会も描かれていることがあるのですが、それは民衆の目から見た姿です。町に盗賊が出没したとか、死体が転がっていた、なんて話は「源氏物語」では一切書かれていません。しかし、「今昔物語集」では日常事。「源氏物語」では暗闇に怨霊が現れますが、「今昔物語集」なら、怨霊もあり得るながら、それより以前に追い剥ぎ・盗賊の心配をするのが先です。武士だってそうですよ、「源氏物語」では名前さえ与えられない卑屈な従者。しかし「今昔物語集」では、武士は名前ばかりか立派な心構えを持った、庶民を感服させる独立した人格の持ち主です。ついでに言っておくと、少なくとも文学的には、この時代、武士というのは一般庶民の側(おそらくその頂点)に立つものであったということになりますね。

 おまけにここに描かれた庶民には血が通っています。ひとりひとりが生きて、泣いて、笑っている。単純といえば単純なんですが、「源氏物語」に描かれているような心理の裏の裏なんかそもありえないかのような明快さが、これは貴族社会に失われてしまった人間性、心の美しさや優しさと感じられるのです。

 と同時に、「今昔物語集」の成立は、歴史的には古代末期の貴族文化に対する、武家率いる庶民の文化の台頭を示しているわけです。上級貴族の文化というものは、ほんのひと握りの貴族たちだけのもの。しかし、民衆文化は「今昔物語集」に見られるように、地理的にも広大なものです。

 こう言うと、なんだか次代を担う民衆文化が結構なものばかりと聞こえるかもしれませんが、これによって失われたものもあります。それは「美」です。王朝文学は、それがひと握りの貴族たちの間で通用するだけのものであったとしても、美を追求しました。しかし平安朝から次代の鎌倉時代になると、その生活原理に「美」の介入する余地はありません。すべての中心は「宗教」になります。既に、「今昔物語集」も宗教文学の抹香臭さを漂わせていることも見逃せません。もちろん、特定の宗教・教義の宣伝のために書かれているわけではなく、ぎりぎりのところで、古来の迷信や俗信にあらわれた原始信仰などは、これはまだ美しいと言えるものです。しかし、たしかに民衆の日常生活のなかには宗教感情が発生しつつある。つまり、貴族の宗教から平民の宗教へ転換しつつある仏教、その仏教説話。これは次の時代を明確に予感させるものです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「今昔物語集」 第1-5巻+別巻 (新日本古典文学大系33-37+別) 今野逹 小峯和明 池上洵一 森正人 校注 岩波書店




Diskussion

Parsifal:仏教説話のimageが強いなあ。

Klingsol:たとえば、「源氏物語」では浄土信仰と並んで真言密教系の修験者がたびたび登場して、光源氏の係累、すなわち平安朝の皇族貴族の物怪退散、疾病平癒の加持祈祷を行っているよね。ところが、「今昔物語集」は一般庶民を対象とする仏教説話集なので、同類の話は比較的少ない。名僧を呼ぶとなるとお布施も高額だっただろうからね。逆に、高名な修験者ではなく、無名の一介の僧の誠心が功を奏するなんていう話がある。注意すべきことに、「今昔物語集」では駆逐されるのが物怪ではなくて鬼になっているんだよ。

Kundry:なるほど、貴人レベルではなくて、民衆レベルのフォークロアの世界なんですね。

Klingsol:「今昔物語集」では空間的スケールは雄大だという指摘があったよね。たしかに、天竺、震旦はさておいても、本朝部は「度羅(とら)の嶋」(済州島)から「胡国(ごごく)」(陸奥から海を隔てた陸地、おそらく北海道)まで説話の範囲が及んでいる。ちなみに度羅の嶋の住民は食人種ということになっていて、盗賊や殺人の話ばかりが集められた巻二十九などを見ても、律令制が崩壊して将門の乱が象徴するような暗い世相を思わせるんだな。

Parsifal:一方で、役人の棲家に通っていた女があったが、ある日客人があって家がふさがっていた際、無人の堂で臥していると、幽霊のような女が現れて、ふたりを脅かすといった、「源氏物語」の「夕顔」の巻と似たような説話もあったね。

Hoffmann:そうかと思えばスウィフトの「ガリヴァー旅行記」と泉鏡花の「高野聖」をミックスしたような話もある。3人の仏道修行の僧が山奥で巡り会った一軒の棲家で、そこに住む僧によってふたりが馬に変えられてしまうという話。しかし原因と結果の因果関係は説明されないままなんだ。

Klingsol:仏教説話といえば、古いところで「日本霊異記」なんかもそうだよね。この中の話に現れる鬼は、賄賂を取って別の人間を捕らえて閻魔庁に連れて行き、閻魔大王に替え玉であることを見抜かれたりなどと、どこか間の抜けた滑稽なところがある。水木しげるの「河童の三平」に登場する死神なんかは、おそらくここから取り入れられたキャラクターなんじゃないかな(笑)

Kundry:ところで、「今昔物語集」を読むなら、やはり岩波の「新日本古典文学大系」でなければいけませんか?

Hoffmann:全部読まなきゃダメだなんて意地の悪いことはいわないよ(笑)無理に全部読まなくてもかまわない。岩波文庫には全4巻で400話ほど収録したものもあるし、なんなら福永武彦が155篇選んで現代語訳した「今昔物語」(ちくま文庫)でもかまわない。水木しげるの漫画版も、さすがにこれで「今昔物語集」を読んだつもりになられては困るけれど、面白いことは面白いので、脇に置いておきたい。