161 「纏足物語」 岡本隆三 福武文庫




 纏足とは女性の足の指を幼児期から足の裏に曲げて布で固く縛り、足が大きくならないように、人工的に成長を止める慣習のこと。

 中国で宋代から始まり、明清時代には女性の理想像とされ、20世紀初期には農村地域の庶民にまで広がったと言われています。中華人民共和国成立後、纏足は徐々に廃れていきましたが、雲南省通海県の村落社会では、取り締まりから逃れて纏足を行っていた家が多かったようです。

 具体的には幼少期から足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛って足の整形(変形)を行うことで、年齢を重ねても足が小さいままとなるもの。理想的な大きさは三寸(約9cm)でありこれを「三寸金蓮」と呼び、黒い髪、白い肌と共に美しい女性の代名詞とされていました。女児が4~5歳の頃からはじめるのですが、施術中の女児は高熱を発するため、纏足は主に秋に行われたそうです。女児は麻酔代わりに阿片を吸わされたうえで寝台に固定され、親指を除く8本の足指を内側に強く折り曲げられ、時には舟状骨や距骨など足の甲の骨を石で砕いたこともあったとか。

 親指以外の8本の足指を内側に曲げて全て足裏にくっつくようにする初期変形作業に約2年を費やし、その後、足の両サイドの中足骨を内側に折り曲げて足の幅を狭め、次に足全体を弓のように曲げ、土踏まずを窪ませ、甲を高く持ち上げるというのが纏足施術のセオリー。成人後も縛り続けて、生涯にわたって数日に1度の足洗いが必要となります。もちろん医者とか専門家が行うわけではなく、家庭で行われるもの。なかには失敗して命を落としたり、敗血症や壊疽で足を失ったり、麻痺や筋萎縮の障害を抱えることとなった女性も少なくなかったということです。



 小さく美しく装飾を施された靴を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだものとされており、この状態で立ったり歩いたりすると、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていたようですね。当然走ることは困難となり、あまり外に出なくなる。貴族の女性ならば侍女がつきっきりとなりますが、家事や農作業を自ら行う庶民はたいへんです。その一方で、農村部では娘に機織りや刺繍など長時間座ったままの仕事に従事させるという効用が重視された模様です。時代によっては見合いの席で足の大きさを尋ねることもあり、纏足を施していない女性は結婚が難しかったともされており、纏足していればいつも家にいて、貞節は維持されるという発想もあったようですね。

 纏足それ自体が男性の性欲を駆り立てるものともされていましたが、不健康かつ不衛生ということで、清の時代には皇帝がたびたび禁止令を発したものの、浸透した文化に効果はなく、その後義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になりました。それでも一部では隠れて行われており、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなります。最終的に絶えたのは、文化大革命で反革命的行為と見なされたため。

 なお、中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていましたが、日本統治時代初期に台湾総督府が、纏足は辮髪・阿片と並ぶ台湾の悪習であるとして、追放運動を行ったため、わりあい早い時期に廃れています。



 ああ、いまどきのフェミニズム系の論客ならもう怒髪天でしょう。女性の徹底的な物化だ、家畜化だ・・・と。社会の、親の価値観によって、「娘のために」足をつぶすし、変形させ、その当人もまともに歩けなくなった足を自慢に思う・・・。男を喜ばせるためだけに存在する人工的な障碍者が「美人」という、非人道的な価値観を当たり前のように存続させてしまう社会システム・・・。

 そうした側面を否定するつもりはありませんが、これを足(脚ではなく)fetishismと人体改造fetishismそのふたつの面から、あらためて考えてみます。

 足がフェティシストに支持されて、かなり長い間、髪の毛と競い合っていたことは間違いありません。足フェティシストといえば、錚々たる名前が並びますよ。ゲーテからレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ、テオフィル・ゴーティエ、ドストエフスキー、ルイス・ブニュエル・・・。イタリアの枢機卿、バロニウス卿が著した「教会年代記」(1656年)によれば、カトリックにおいて脚に宗教的な意味で接吻する行為が導入されたのは、ローマ教皇レオ三世によってであり、ある美しいローマ娘の思い出がきっかけだったのではないかとされています。

 フロイト派であれ、ユング派であれ、足には男根的な意味があるとされています。これはフェティシストにとっては、自分自身の生殖器を女性の足に投影しているということ。フロイトはさらに、母親に不在のペニスと去勢不安から、「最初に女性の足を毀損しておいて、後になってそれを崇めるという中国の纏足の習慣はフェティシズムがその民族に固有な形であらわれた心理的な等価物」「中国人は去勢に従ってくれた女性にお礼をしたいかのようである」としています。

 中国のポルノグラフィックな版画によく見られるのは、男性が女性の足を気持ちよさそうに愛撫している姿です。マティニョン博士による「中国の迷信、犯罪、不幸」(1902年)では、中国人のキリスト教徒のなかには、女性の足を見て劣情を抱いてしまったと、告解の際に赦しを求める者が少なくないと報告されています。

 よく言われるのが、纏足によって女性器の筋肉が発達すると信じられていた、という話。これは、おもしろいことに、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌの「小さな足は大きな性器のしるし」とする説と真っ向から対立するものであること。つまり、いずれにせよ迷信。迷信・俗説といえば、纏足のそもそもの起源にも諸説あって、中国のある皇后が生まれつき内反足であったので、女性はすべて自分と同じにせよと強制したとか、その夫であった皇帝が、妻に気詰まりを感じさせないために都の女性はすべて足を損なうようにと布告したとか、ある遊女が生まれつき湾曲した足であったところ、人気が出て、ほかの遊女が真似して人工的に同じような足になろうとしたとか・・・いや、どのような起源で生まれたにせよ、それは習俗なんですよ。ここのところ、誤解のないように。纏足を好むfetishismが、習俗に深く根を下ろしている、ということです。

 そう考えれば、現代のハイヒールの靴だとか、ピアス、(過度な)ダイエット、美容整形、美容歯科矯正とさしたる違いはない。いや、それはもはや男性のfetishismの対象であることをさほど重要視せず、女性自らの、その時代の「美」の追求の手段になってはいないでしょうか。つまり、「美を求める自由」から「やらないとみっともない」に変化しているのは、なにより当人の側なんですよ。

 「小さい足」に対するfetishismそれ自体は、わりあい古くからヨーロッパにもありました。大きな足は労働者階級のもの、貴族階級ならば小さい足であるべし、と。ただし、17世紀、ヨーロッパでバレエが流行・定着して以降、トウシューズによって小さくなった足が好まれた・・・とする記述を見かけることがありますが、女性バレリーナが主流となったのは19世紀以降のこと。私はむしろ、小さな足を好むfetishismこそが、女性のバレエ進出を後押ししたのではないかと思っています。

 ただし、靴fetishismについては、以前、Hoffmann君が語っているので省略します。

 人体改造、肉体改造と言った方がいいかな。これは先に述べたダイエット、美容整形、美容歯科矯正に限りません。比較的ソフトなところでは、矯正下着だってその一種ですよ。ひと頃、流行ったじゃないですか、脚が細くなるストッキングとか。

 モザンビークのシャンガアン族の女性は、性器の周囲に火傷による装飾を施すし、アマゾン川流域のある部族では、男性は幼いうちからペニスにおもり付けるので、途方もない長さに伸びしてしまう。だから大人になると、巻くようにして籠に入れて持ち運ぶんですよ。なんでもペニスは神が宿る場所なんだとか。もっともこれは、インドのサドゥ(ヒンドゥー教のヨーガの実践者や放浪の修行者)でも採用されています。

 ピアスとかタトゥーなんかもそうですね。とくに、タトゥーのエロティックな要素とフェティッシュな要素がもっとも高められているのは、ほかならぬ日本でしょう。これはそもそもが浮世絵から触発されてはじめられたから。もちろん、タトゥーをフェティッシュな対象とするのは男性のみではありません。もっともタトゥーの場合は身体装飾であって、かつてはイニシエーションの儀式と結びついて共同体的な生き方をあらわしていたところ、現代では個人主義の行き着く先で、自分の身体再び自分のものにする可能性を含んでいるようです。

 纏足にしても、ある男児が纏足に憧れて、女中に頼み込んで施術をしてもらい、しかし母親にばれて布をほどかされてしまう、といった話がこの本に紹介されています。どうも、こうした心理にマゾヒズムが潜んでいることに異論を唱えるのはなかなか難しいんですが、それでも「当人の」fetishismであることは間違いないでしょう。現代人の感覚で非人道的だとか人権蹂躙だとか言ってもはじまらない。

 しかし、美容整形となると、どうでしょうか。生まれつきの鼻の形を修正したいという願望は、これはtetishismの範疇に入ることなのか。医師の元に美容整形の相談に訪れる際、好きなスターや芸能人の写真を持ってきて、「こんな鼻にしてほしい」「こんな胸になりたい」と言う人がよくいるそうです。これはfetishismというよりは、同一化を臨む未熟な願望でしょう。なので、纏足を現代の美容整形などとと同一視するのは誤りだと思います。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「纏足物語」 岡本隆三 福武文庫




Diskussion

Klingsol:一応断っておくと、この本は学術書ではないけれど、面白い「読みもの」ではない。纏足及び女性の解放という観点でちょっと力を入れて主張しているところもありつつ、意外と無味乾燥としている。それだけに事実を知るには適切な本なんだけどね。

Kundry:現代の視点で纏足を断罪するようなものではありませんが、どうもハイヒールの習慣にまで男性支配が及んでいるというところでは、根拠が示されていませんね。

Hoffmann:「纏足は現代に生きている」なんて言っているけど、幼い頃からハイヒールを履いたり履かされたりする女性はいないんじゃないか(笑)

Parsifal:習俗と流行を混同しているような気がするな。とはいえ、文庫本で纏足についてひととおりのことを教えてくれるのはこの本しかないだろう。福武文庫って、もういまは出ていないんだよね?

Klingsol:文庫本はとっくに廃刊になっているね。

Hoffmann:とくに海外文学では、他社で出ていないような本が入っていたのに残念だったな。

Klingsol:福武書店はいまの(株)ベネッセコーポレーションだよ。


Parsifal:ああ、顧客情報漏洩事件で有名になっちゃった会社だな。流出した顧客名簿を名簿業者から購入してダイレクトメールを出したのがジャストシステムだ。

Kundry:たしか、流出させたのはシステムエンジニアの派遣社員だったということでしたね。

Klingsol:その派遣をしたのがベネッセのグループ会社だ。当の派遣社員はそのまた外部から来ていたらしいけど、それでも当然のことに、ベネッセ側の個人情報管理の問題にもなった。

Kundry:流出・持ち出しそれ自体はもちろん犯罪行為だとして、その名簿を名簿業者が購入するのは法的にはどうなんですか?


Klingsol:名簿業者というものが成立しているととおり、名簿というものは売るのも買うのも法的には問題ないんだよ。もちろん、道義的にはどうかということになる。だから、あのときはジャストシステムもかなり評判を落としたよね。「法に触れる形で流出したものとは認識していなかった」なんて言い訳していたけど、内容からしても件数からしても無理がある。おかげでベネッセの管理の問題のみならず、その情報を入手・利用する側に対しても、企業のコンプライアンス遵守が求められるきっかけにもなった。コンプライアンスというのは、法に触れなければそれでいい、ということではないからね。

Parsifal:議会全員一致で不信任決議されたどこかの知事が「道義的責任というのは理解できない」と言ってたけど、これだと「法に触れなければなにをしてもかまわない」ということになる。つまり、コンプライアンスを遵守するという発想を、そもそも持ち合わせていないわけだ。じっさい、方々で「おねだり」して、ということは賄賂を要求して、さらにパワハラもして、職員を自殺にまで追い込んでいる。

Hoffmann:コンプライアンスを理解できない人間がトップに立ってはいけないよね。ましてや、自治体のトップだ。

Kundry:東京都知事時代の桝添なんとかという人が、当時「ルールに従って処理しているから問題ない」と釈明・強弁していましたよね。あのときもたいへん違和感を感じました。だって、ルールを作ることも変えることもできる権限を持つ立場の人間が口にできる「言い訳」ではありませんよね。

Hoffmann:官僚、それに元官僚というのは、我が国でもっとも悪質な生き物なんだ。これはソイツラを相手にしてきた自分の職歴から、自信を持って断言できることだよ。

Parsifal:その話、詳しく聞きたいな(笑)

Klingsol:今回は話が福武文庫からはじまって、妙な方向に流れていったな(笑)