164 「真景累ヶ淵」 三遊亭円朝 岩波文庫 「真景累ヶ淵」は、明治期の落語家、初代三遊亭圓朝によって創作された落語、一般的には「怪談噺」と呼ばれるもンでございます。 「真景」というのはなんぞや・・・これは、近頃では幽霊が見えるのも「神経」の作用によるものとされている、という意味を掛けたもの。これは圓朝も冒頭で説明しております。もっとも、圓朝がこの「開化論」をそのまま肯定しているのかどうかについては、これは疑問とされています。ただし、私は「怪談」ということばを「真景」としたところが、単純に時の流れに従ったというばかりではない、案外と重要な意味があったんじゃないかと思っております。ですから、この噺をまんま「怪談噺」として受け取ることにも、チト疑問を挟みたい。これにつきましては、今回の私の話を聞いていただいたうえで、みなさまにご一考願いたいと思っているところでございます。 もうひとつ、表題の「累ヶ淵」については、作中に羽生村の累ヶ淵の説明があり、この作が累の伝説に基づいたものであることを、それとなく、明らかにしていることを指摘しておきましょう。 さて、あらすじ・・・と言いたいところはやまやまなんですが、登場人物、storyはかなり込み入っておりまして、簡単に説明申し上げるのはなかなか難儀でございます。なんとかかんとか整理してみると、まずは新五郎によるお園殺害。そして7人までの妻を呪い殺すと新吉を恨んで死んだ豊志賀の物語。さらに惣右衛門の息子の惣次郎、そのまた息子の惣吉の仇討ち・・・果てしのない血族同士の殺し合いはめぐる因果のなせる業なのか、はたまた呪いの鎌の故なのか・・・。 ―というわけで、詳細は検索してお調べ願うことと致します。なお、芝居や映画になっているのは、概ね豊志賀の死と新吉のお久殺害あたり。逆に言うと、「累ヶ淵? それくらい、知ってらい」とおっしゃる方も、この部分しか知らなかったりするんですな。お隅を巡っての惣次郎と安田一角、山倉富五郎のコトの成り行き・・・これを説明できる方はいらっしゃいますか? 三遊亭圓朝 さて・・・二度目の「さて」ですナ、歌舞伎の所謂怪談狂言の名作、現代でも曲がりなりにも通して見ることのできるものはといえば、南北の「四谷怪談」くらいのものでしょうか。岡本綺堂の「番町皿屋敷」は新歌舞伎、怪談というより心理劇。圓朝原作の「真景累ヶ淵」や「怪談乳房榎」はごく稀・・・じゃありませんかネ。 その三遊亭圓朝原作の「真景累ヶ淵」が怪談狂言になっているというのがおもしろい。三遊亭圓朝原作というのは、つまり寄席の「怪談噺」ということですよね。しかし、「累」というのは江戸時代から流布していた説話で、圓朝よりもずっと以前から芝居にもなっていたし、怪談狂言にもなっていた。それを圓朝が「怪談噺」にして、それがまた怪談狂言になったということは、謂わば逆輸入・先祖返りでもあるわけで。チトややこしいですが、おわかりいただけましたでしょうか? 怪談狂言てぇもンがはじまったのは、文化初年、19世紀の初頭あたりから。怨霊や幽霊が出るということなら、歌舞伎以前にも、たとえば能などではめずらしくもないこと。芸能の期限をたどってみれば神事に行き着くのは万国共通。ましてや我が国の芸能は、死者の鎮魂の意味が強かった。それが同時に庶民の慰みにもなったのが、「芸能」なんでございますよ。「芸能」ってえのは、現代の芸能人に見られるような、あんな浅ましいものではなかったんですからね。 歌舞伎に登場する幽霊といえば、平将門、惟喬親王、崇徳院、大塔宮、楠木正成・・・このあたりのお歴々が怨霊として、あるいは天下を狙う極悪人としてお出ましになる場合もございます。百姓一揆で名高い佐倉宗五郎に至ってはヒーロー格でござんしょう。そしてもっと庶民的な幽霊が、累とか皿屋敷。このあたりはかなり早くから歌舞伎や浄瑠璃になっておりました。ところが、それは怪談狂言ではない、長い芝居の中の「趣向」として採用されていたんですよ。この場合の「趣向」というのは、歌舞伎・浄瑠璃などで、戯曲に新しい変化を与えるための工夫のこと。思い出して下さいよ、「東海道四谷怪談」だって、「忠臣蔵」の「趣向」であったことを。累も皿屋敷も、これ、どちらも17世紀あたりにじっさいに起きた事件だということとなっており、いまでは諸説紛々としておりますが、当時の人たちには馴染み深い話だったんでしょう。だから取り入れられた。 累に関していえば、これは浄土宗の高僧、祐天上人の霊験譚として流布していた話。下総国羽生村の農家で起きた陰惨な事件です。これが芝居になって、またさまざまなstoryの「趣向」として採用されて、伊達騒動を絡めた形で落ち着いたもののようですな。実説の累は生まれついての醜貌で不具だったと言われておりますが、それでは芝居にならないからでございましょう、歌舞伎では美女となり、夫も美男ということに。しかも伊達騒動の累だと、徳川時代の事件なので劇化できないことになっておりましたから、そこで東山時代の足利頼兼という架空の殿様が通う島原の遊女高尾の妹という設定にされています。姉を殺した男と夫婦になろうとするので、姉の死霊に取り憑かれて顔が醜くなり、怨霊となる・・・という話。これが、長い芝居の一部分で演じられたということですよ。 引き続きまして、先ほどから申し上げております「怪談噺」でございますが、そも「怪談話」というのは妙なことばでして、「怪談」と言っただけでもう「怖い話」なのに、そこにまた「話」と付け加えて「怪談話」とするのは、たとえば「おなかが腹痛」「馬から落馬」と言うが如き重言でございます。ところが、「怪談噺」と言うと、寄席で噺家に語られる怪談という限定的な意味合いになるようで。じっさいに寄席で「怪談噺」という場合には、幽霊や化け物が登場する怪奇味のある噺を指しております。なかには、滑稽味のあるオチで終わる落語もございますが、怨念まつわる因縁や妖怪変化の物語は、むしろ世態・人情の表現に重きを置いた「人情噺」。そして、古くからある「小幡小平次」とか、三遊亭圓朝の創作である「怪談牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」などはまさしくその代表。 その怪談がクライマックスに至るてぇと、場内を暗くして、扮装した幽霊がソロリソロリ・・・照明や鳴物といった仕掛けの助けを借りてお客さんたちを怖がらせる演出もあり、またそうした演出に頼らず、扇一本、舌先三寸で語り込むだけの「素噺」こそ名人芸なりという矜恃を持った噺家もおります。とはいえ、暗くしてお化けを出すのが、「怪談噺」の最大の特徴。そして、暗くしたままでは始末がつかないので、噺のおしまいは必ず「ハテ恐ろしき因縁じゃなァ」とやって場内を明るくして、「真景累ヶ淵、まァず今日はこれぎり」と言って終わりにする・・・。 「怪談噺」の隆盛は幕末明治の頃にあったそうで。その時分にゃあ、正月から暮れまで一年中怪談噺ばかりを専門にしていた噺家もいたとか。その「怪談噺」の祖と言われるのが初代林屋正蔵。これ、「林家」の誤変換じゃありませんよ、亭号が「林家」と表記されるようになったのは五代目あたりから。その初代林屋正蔵は仕掛けの工夫に長じていたと言われており、「東海道四谷怪談」の中村座初演(文政8年、1825年)の仕掛けを手伝ったという説もあるお方。 その門弟の人情亭錦紅(きんこう)という人は、もと神田の大工で、その技術を活かして道具を自作、噺をしながら早替わりで幽霊も演じ、鳴物まで自分でやったらしい。さらに演出を洗練させたのが初代柳亭左龍(りゅうていさりゅう)という、これまた前職が大工だった人。人情亭錦紅の手伝いをしているうちに、手法を学んでしまって、当時のニュースなんぞを取り入れた新作怪談噺でも人気を博しました。ところが明治も末期になると怪談噺の人気にも陰りが見えはじめ、この左龍が大正3年に没したときには、江戸の名残の怪談噺は滅びたと言われたそうでございます。 三遊亭の祖である三遊亭圓生は「鳴物入り芝居がかり」の元祖とも言われておりますが、怪談噺を演じたかどうかははっきりしない。しかしその門下に出た初代三遊亭圓朝は紛れもなく、三遊派の人情噺・怪談噺を確立させた重要人物です。「真景累ヶ淵」「怪談牡丹灯籠」「江島屋騒動(鏡ヶ池操松影)」などの代表作が今日に残っているのは、もちろん人情噺としてよくできているから。また、その門に数多くの名手が出て、それぞれにすぐれた演出を後世に伝えたからでもあります。 三遊亭圓朝は天保10年(1839年)、江戸湯島生まれ。本名は出淵次郎吉。父は音曲師、橘屋円太郎。次郎吉は橘家小円太を名乗って6歳で初舞台を踏み、1847年に父の師である二代目三遊亭圓生に弟子入り。為替・両替商に奉公したり、歌川国芳のもとで絵の修行をしたり、座禅の修行に励んだりしながらも、1855年に圓朝と改名して真打となりました。ここでちょいと解説しておくと、「トリ」というのは最後の出番。この「トリ」を捕れるだけの実力のある芸人が「真打」です。「トリ」というのは多彩な登場人物と起伏のあるstoryで聴客を引きつけて、「さて、この先いかが相成りましょうか、おあとは明晩のお楽しみ」と気を持たせておいて、「続きが聴きたいなあ」と翌晩も足を運ばせるだけの力量が要求されるわけでございます。ところが三代目圓生からトリの演題を先に話されてしまうという妨害にあった。そこで困り果てた末に創作に走り、ものしたのが「累ヶ淵後日怪談」。これが後の「真景累ヶ淵」の原型でございます。 先ほど、初代三遊亭圓生を「鳴物入り芝居がかり」の元祖と申しましたが、これは「芝居噺」、つまり、人情噺の途中で鳴物や声色を入れて、衣装は引き抜き、背景を飾って、ときには小道具などを使用する、演出が歌舞伎調になる噺のこと。 ところが1872年、三代目圓生になると、芝居噺から素噺に転向。これは寄席取締りの布告の影響もあったのですが、これを機に演芸の改良運動が進むことになりました。折から速記術が隆盛を極め、我が国にはじめて速記術を導入した若林カン蔵(カンは王ヘンに甘)と酒井昇造が最初に実地で試したのが圓朝の「怪談牡丹灯籠」の口演筆記。さらにかねてから圓朝と交流のあった戯作者の山々亭有人(さんさんていありんど)が新聞記者となって「やまと新聞」を立ち上げ、圓朝の噺を速記して連載。いまに伝わる圓朝作の速記本のなかには、山々亭有人によるものもあると言われております。 この速記本が明治の言文一致運動に与えた影響は大きく、文体を模索していた二葉亭四迷が坪内逍遙に相談したところ、「圓朝の落語(はなし)通りに書いてみたら何うか」とアドバイスされたというのは有名な噺・・・じゃなくて話。ちなみにこのとき逍遙が示したのは「怪談牡丹灯籠」の速記本。じつは明治17年、この本に序文を寄せていた「春のやおぼろ(春の屋朧)」というのは坪内逍遙の号。 「やまと新聞」は立て続けに圓朝の速記録を連載して、圓朝はもはや芸人から作家に近づき、自ら筆を執って連載を開始するまでに。海外の作品の翻案も含むミステリ小説は、現在「三遊亭円朝探偵小説選」(論創社)にまとめられておりますので、ご参考までに。とりわけ、言文一致運動に影響を与えたものとして読みますと、なかなか興味深いものがございます。 いんや、ミステリと言えば、圓朝の怪談噺、たとえば「怪談牡丹灯籠」について、「幽霊の殺人ではなく、幽霊を利用した殺人、という現代ふうな話」(都筑道夫)とか、「完全犯罪を〈怪談噺〉の形式にかくれることによって、円朝は多くの聴衆をも巧みにあざむき通すことができた」(永井啓夫)という指摘があるんでございましてね。たしかに、怪談噺の形式を隠れ蓑にしたミステリ、すなわち非・怪談噺としても読める。藤浦富太郎に至っては、「怪談仕立ての推理小説と解釈するのが正しいようである」とまで言い切っております。あたかも幽霊が実在して「そこにいる」ように語られているんですが、そこはかとない「曖昧さ」がある。言文一致に影響を及ぼすような、語り手のことばでございましょう? そもそもが独り芝居なんですよ。なので、うがった見方になりますが、その語り手が「信頼のおける語り手」なのかと疑ってみると、「怪談噺」とは異なった様相が浮かび上がってくるわけで・・・。私がはじめに「この噺をまんま『怪談噺』として受け取ることにも疑問を挟みたい」と申し上げましたのは、これが理由。 はい、これでまずおめでたく、私からの「真景累ヶ淵」、並びに「大圓朝」こと三遊亭圓朝のお話は終わりました。 (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「真景累ヶ淵」 三遊亭円朝 岩波文庫 「三遊亭円朝探偵小説選」 三遊亭円朝 論創社 Diskussion Parsifal:「累ヶ淵」といえば、豊志賀と新吉の話しか知らなかった。 Kundry:私は、映画を見たことがある程度でした。 Klingsol:人間関係というか、相関図というか、かなり入り組んでいるよね。当時、この話を聞いていて、聴客はすべて把握できていたのか・・・。やっぱり、時間がゆっくり流れていた時代で、いまとちがって現実の縁戚関係も濃厚だっただろうから、少々複雑でも頭に入ったんだろうなあ。 Parsifal:現代の我々には、三代前までの家系図を覚えておく必要など、もはやないからね。必要のないことは、覚えられない(笑) Hoffmann:岩波文庫版についてだけど、1956年初版で出ていたものは旧仮名遣い、旧字。2007年に改版されて現在出ているものは、新仮名遣いに新字になっていることに加えて、会話などが改行されているほか、わずかに活字も大きくなっているようだ。このため、本文だけで300ページだったところ、464ページになっている。旧仮名遣いや旧字に愛着のあるひともいるかも知れないけれど、なにより会話の改行でかなり読みやすくなっているので、無理に古い版を探す必要はないと思うよ。 (追記) 「怪談かさねが渕」(1957年)中川信夫 その他の「累ヶ渕」ものいくつか upしました。(こちら) |