165 「落語『死神』の世界」 西本晃二 青蛙房




 この本は、落語の「死神」の元ネタ、その成立の経緯を推論して、さらに世界の死神譚と、落語「死神」が我が国の「民話」なり仰せているのか否かという考察に至るものです。

 落語の「死神」といえばこんな話―

 能のない男が死神と知り合い、病人の生死を見分ける力を授かって医者として大儲け。だが調子に乗って死神を欺したために、突如死に直面させられる。人間の寿命は目の前の蝋燭の炎が尽きるまで。さあ、男は自分の蝋燭の生命の火をもう1本の蝋燭に継ぐことができるのか。男は怖くって手が震えてなかなか蝋燭が継げない・・・。

「早くしろよ。消えるよ」
「待ってくださいよ、いま継ぎますよ」
「ほら、消えるよ」
「アア・・・」


 これは六代目三遊亭圓生が得意にしていた噺なんですが、これがじつは初代三遊亭圓朝の作・・・と、ただしこれは100%確実というわけではないようで、この本ではその点も検証を試みています。少しだけふれておくと、推測の域を出ないのですが、一応圓朝だとすると、明治20年代の成立だということになり、それでは圓朝にこのネタを提供したのは誰か? この本によると、圓朝に教えたのはどうやら條野採菊らしいのですが、アイデアそのものは福地桜痴ではないかとされています。

 また、その元ネタも、イタリアのオペラで「ピアアヴェ作」の、「靴屋と妖精」または「靴直しのクリスピノ」の翻案と言われており、著者が調べてみると、ナポリ生まれの兄弟作曲家ルイージ・リッチとフェデリーコ・リッチの「クリスピーノと代母(コマーレ)」というのがそれらしい・・・「ピアアヴェ」というのはヴェルディの歌劇「トラヴィアータ」や「リゴレット」の台本を書いたフランチェスコ・マリア・ピアーヴェFraccesco Maria Piaveのこと。もうひとつ、原話があって、それはグリム童話の「死神の名付け親」。

 私は以前からこの落語「死神」が大好きだったんですが、以上のようなことは、この本ではじめて知りました。

 やっぱり落語というのは「生きて」いるんですね。この噺は人気があって、多くの噺家が演じてきたところですが、いろいろとvarietionがある。噺家が脚色したり手を加えたりして、最後の火を継ぐのだって、成功したり失敗したり。主人公をただの貧乏人としたもの、売れない幇間(たいこもち)としたものなどがあれば、元ネタに近くて、子供が生まれるので名付け親を頼むのに金がないという設定になっているものも。名付け親なんていまの人にはピンとこないというので、このモティーフは使わないという噺家もいる。

 死神の姿もさまざまで、三代目金馬は「六十以上にもなろうかという、頭がボサボサです。目がドターンと凹んでいる。頬骨が出ている、歯が二枚・・・アッこりゃ止しゃ好かった!」とやったのは、金馬が前歯が二本出ているので有名だったから。おもしろいのは、死神が複数いるという設定。三代目金馬の名前が出たので、今日これを演じる人がいないという金馬の噺を例に挙げると、「今度な、御茶の水ィ死神会社が出来たんだ」「人間の命早取り死神産業株式会社」なんて言いながら登場して、しかも死神の数ときたら「人口と同じ数だけ」いるというんですよ。

 死に神の姿が見えるようになった主人公が、「ハーッ、ずいぶんいるもんですねェ」と辺りを見回して「あのおでん屋台でもってアノ、二人立ち喰いしてますねェ。後ろに二人アノ、死神がついてんのは、何です」と問えば、「アア、ありゃ食中毒だ」「夏ンなると、うっかりしたものは喰えませんねェ」。角の店に若い達者な人が五、六人、そこに死神が五、六人いるのは、「ダンプカーが飛び込むんだよ」

 なるほど、古典落語とはチト異なりますが、これぞ「生きた」噺なんですね。

 主人公より先にこの患者は治らないと言った医者の名前が「青森終点先生」(東北線の終点だから「先がない」)だったり、昭和20年代には「板橋終点先生」(チンチン電車の)というのもあったそうで。そのほか、「甘井羊羹先生」(羊羹だから餡製=安静)とか。

 病人が治る、治らないを診たてる決め手は死神の位置なんですが、これは枕許だと助からない、寝床の裾なら助かる、というのが逆の場合もあり、病人が助かる位置に死神がいた場合の、これを追い払う呪文もいろいろ。「アジャラカモクレン、テケレッツのパア」が基本。間に「エヴェレスト」と入れて「アジャラカモクレン、エヴェレスト、テケレッツのパア」というのが六代目圓生。おなじ圓生でも昭和20年代は「エヴェレスト」が「調達庁」。調達庁というのは第二次世界大戦後、アメリカ占領軍の物資を調達するために設けられた官庁で、昭和20年代には新聞にその名前がよく出てきたもののようです。圓生の弟子の円楽になると「エヴェレスト」が「アルジェリア」になって、「アジャラカモクレン、アルジェリア、テケレッツのパア」。私はこれで暗記していました。どうやら、アルジェリアが話題になっていた時期で、時事的な話題を取り込んだのでしょう。

 主人公が医者として有名になって遊山するとか、枕元にいる死神を出し抜くために、病人の布団を180度回すなんていうのは、わりあい共通している。それでも三代目金馬は「寝床廻し」の前に、病人の前にやって来ると―

「見るってえと、三年越しの長患い。死神の方も枕許に座ってて看病疲れ」
「こりゃまずかったかな、看病疲れってのは」


 ・・・と笑わせています。ちなみに言うと、これが海外だと布団じゃないから「寝床廻し」ならぬ「病人廻し」になるんですが、なんとグリム兄弟の兄ヤーコブが採録して刊行時には入れなかった「遺稿」には、ベッド全体を廻してしまう話があります。

 で、死神を怒らせてしまって、主人公の寿命は残りわずか。うまく蝋燭の火を継ぐことができれば・・・となるわけですが、最後に主人公が命の蝋燭を継ぎ足すところは、ただ失敗して火が消えてしまうケースのほかに、火を継ぎ足すことには成功したけれど、鼻風邪のくしゃみで吹き消してしまうというのが十代目小三治。ちゃんと、前夜死神を出し抜くために徹夜して「鼻風邪引いちまった」なんて伏線を張っておくんですね。先に述べたとおり成功例もあって、まんまと現世に帰還してくるものもあります。

 この成功例がなかなか愉快で陽気なもの。三代目円遊では、蝋の流れているのは風邪を引いた人の蝋燭。まだ灯っていないのは生まれる前の赤ん坊。これを継ぎ足せば命が延びると知らされて、死神が場を外している隙に、自分のをはじめ手当たり次第に蝋燭を継ぎ足して蝋の流れも掃除して、世の中を明るくして現世にご帰還(笑)

 こうして、あたかも「元型」に、その地域ならでは風土や時代の空気に合わせた要素が付け加えられていって、新たな民話を生み出してゆくのだと思えば、落語の「死神」が我が国の民話であるとは言えないにしても、既にこの風土に馴染み、根付いているということは言えそうですね。ここで「元型」と言っているのは、人間の寿命には限りがあるという普遍的な真理、そして死神をすら出し抜こうとするトリックスター的性格の主人公の存在です。


(Klingsol)



 TVドラマも観る 「怪談 死神」 (1979年 TVM)

 1979年(昭和54年)に東京12チャンネルで放送された「日本名作怪談劇場」全13話のうちの第10話です。監督は西山正輝、脚本が宮川一郎で、主人公である大工の八五郎に森川正太、死神が中村鴈治郎。



 ほぼ一般的な原作どおりの進行ですが、そもそも死神が八五郎に死神を追い払う能力を授ける理由が説明されており、これによって死神は八五郎に恩義を感じていて、金回りのよくなった八五郎が懇意になった女と上方へ出奔して、危うくヤクザの親分に殺されそうになっところを死神が助けたりする・・・なかなか律儀な死神ですが、これは、このように演じた噺家がいたのか、それとも一貫したドラマとして成立させるために付け足したのか・・・ひととおりつじつまが合っていて、納得できるものです。



 呪文はごく一般的な「アジャラカモクレン、テケレッツのパア!」。最後に八五郎は蝋燭の火を継ぐことに成功しますが、鼻風邪によるくしゃみで火を消してしまい、そのままバッタリ・・・ナムアミダブツ。



 森川正太の演技は可も不可もなし。思えば、このドラマなら、死神の方が圧倒的に重要かつ「おいしい」役どころですよね。中村鴈治郎は抑制気味に淡々と演じており、ときに八五郎に「あの性悪女はやめとけ」とか「江戸へ帰えんな」なんてアドバイスするところなど、不自然さのない、好感の持てる(?)死神ぶり。おかげで、八五郎の愚かさが際立ってきます。また、千うららが八五郎のおかみさん役でいい味わいを出していることも特筆しておきたいですね。脇にこういう人がいると、ドラマが安定します。




(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「落語『死神』の世界」 西本晃二 青蛙房




Diskussion

Hoffmann:該当のルイージとフェデリーコのリッチ兄弟によるオペラは「オペラ名曲百科」上巻「イタリア・フランス・スペイン・ブラジル編」(永竹由幸 音楽之友社)に記載があるよ。「二流の作曲家の超ヒット作。見ていて本当に楽しいオペラ」と解説されていて、最後はハッピーエンドだ。ここでは「クリスピーノと死神」と訳されているけれど、原題は"Crispino e la Comare"、従ってそのまま訳せば「クリスピーノと代母」あるいは「クリスピーノと名付け親」ということになる。つまり、このオペラに登場する死神は女なんだよね。

Kundry:たしか、滝田ゆうがいくつかの落語を漫画にしていて、そのなかにこの「死神」も入っていましたね。

Parsifal:死神がひとりではなく、たくさんいて、案外と人間味がある・・・水木しげるの「河童の三平」に出てくる死神なんか、これとよく似たimageによるものだね。あれなんか、サラリーマンと変わらない(笑)

Klingsol:因縁話とか因果応報譚は、超自然を描くものではないんだよね。怨霊とか、いわゆる「魔」を現世的なものに引き寄せるんだ。

Hoffmann:何気に注目すべき発言だね。