171 「ファッションの文化社会学」 ジョアン フィンケルシュタイン 成実弘至訳 せりか書房




 ファッションに関する本といえば、たいがいの人が読むのは情報誌でしょう。ビジネスファッションの基本だとかいったことを教えてくれるHow to本を読む人もいるかもしれません。しかし、この本はヴェブレンやジンメル、バルト、ボードリヤールなどの社会学から展開されたファッション論です。

人間はみずからが購入し、所有し、身につけ、欲望するものそのもので、精神の輪郭は言葉やマナーや性行動と同じく、衣服のスタイルを借りて肉体の表面に描かれる、と心理学者たちはいう。心理学の見地からすると、ファッションとは一種の露出症だ。からだを隠しつつ他人との違いを強調することから、自分を見せびらかしたいがまた慎み深さも示したいという相反する欲求が、絶えざる葛藤を生み出しているのである。

 ヴェブレンは「ファッションは社会の中でのその人の地位を明らかにするシステム」であるため、上流階級はそのファッションを模倣しようとする下層階級と自らを区別するためにたえず新しいファッション、流行をつくりだしてゆかなければならないとしています。


この当時おしゃれがその人の財産をはかる便利な目安と考えられたのは、そのファッションを身につけるまでにある程度の時間を要したからである。・・・たとえば帽子が財産や自由時間があることを示す尺度になるのは、その使いにくさによるのだという。

 一方ジンメルは、流行とは他人と異なる個性を見せたい願望と、ほかの人と同じ格好をして所属欲求を満足させる画一化の流れの緊張のなかで生まれるとしています。人と違うものでありたいという欲求と、人と同じでありたい(あまり違いすぎないでいたい)という、相反する欲求がともにある。

 大都市においては、人々は自己喪失や匿名性、画一性のなかに埋没してしまうので、(手っ取り早く)自分ならではという個性をファッションに託す。その自己表現は自己満足でもあり、他人にそうと認めさせたいという承認欲求の現れでもあるのでしょう。いずれにせよ、この自己表現というのは優越感に満たされたいという欲望です。


 「個性」なるものが出現したのは近代になってからのことである。・・・西欧思想においては、主体性の概念が確立されることで、個人と歴史を結びつける言説が誕生した。近代という名目のもとで個人主義を標榜することによって、あらゆる社会的な実戦が可能になったわけだ。ファッションもこの社会的実践の一つに数えられる。というのも、人々は流行をとおしていまを生きているという手応えを感じるのだから。こうして流行は人々に考え方を教えるような社会的倫理となった。しばしば表層的と見られているが、ファッションは近代の自己意識の形成に重要な役割をはたしてきたのである。

 だからこの社会で、ファッションというのは「社会的貨幣」であり、「言語」、「記号」である。そのファッションが社会での価値を示すということは、自らが価値ある貨幣となりたい(貨幣でありたい)ということ。

 ところがそのファッションというものは、だれにでも理解できるとは限らない。いかなる記号体系にも、厳密なルールがあって、それを知っている人だけが差異を誇示することができる・・・ということは、「それを知る者」は他人を排除することもできるということ。

 しかし、「言語」だ、「記号」だと言って、その定義や概念は多義的で移ろいやすいもの。だから、上流階級の流行を中流階級が憧れをもって模倣することもあれば、揶揄の対称とすることもある。いずれの場合も、絶対多数である中流階級や大量生産の流行の中に取り込まれていく運命にあるんですよ。ということは、ファッションの言語や記号は「そのときだけ」通用するものであり、時間とともに、人とともにその意味も価値も変化してしまうものだということになります。

 それを左右するのが文化資本というものなんですが、これがまた情報によって左右されてしまう・・・にもかかわらず、指標にされている。それでその人自身が、社会の中で商品や貨幣の価値として値踏みされている状態にあるわけです。それだけならまだしも、その人の幸福度や安心感までもが、その指標によって左右されているとなると・・・。


 現代の都市社会は記号としての商品が流通する経済システムであり、自己は商品によって確立される、という考え方が流行している。ファッションは人々に、価値のあるものを定義し、それを獲得する機会を提供する点において、このシステムの一部である。このシステムを維持しているのは、ブルデューいうところの嗜好決定者(テイストメーカー)あるいは文化媒介者たちだ。

目利き客とはどれを買うべきか、なにが欲しいのか、どれが流行の最先端かを、すぐに見わけられるという。見てすぐに流行商品と見わけられる資質は、その人の文化資本の程度、すなわちファッションセンスのあるなしによって決まるのだ。
 しかし難儀なことに、ファッションによる文化資本の形成はそれほど容易ではない。新しい流行の奥義を知るためには、ある程度の努力と時間を要するが、それがわかることにはその最盛期はすでに終わっていることが多い。・・・さらに、消費者にとってもう一つの問題は、ほしいもの、とりわけ流行しているもののマーケティングと商品化がなによりも利潤を目的としていることだ。


 社会が豊かになっていく過程、すなわち西欧では1950年代、1960年代には、あらゆる社会階層が潜在的な消費者市場と見なされて、とりわけ女性がターゲットとされました。それは、社会的に成功した男性の妻はその経済的成功を示す代理表象たれ、ということ。しかし現代では、階級的なマーケティングは主流の座を失って久しいのではないでしょうか。階級格差の維持は、とくに大都市圏においてはほとんど無効化しています。むしろファッション雑誌や百貨店バイヤーなどの業界関係者による「誘導」で、特定の人々の趣味嗜好を操作して、消費行動につなげてゆこうとしているように思えます。かつての階級差よりも、より複雑で多様な差異が生じている・・・「生じている」というのをより正確に表現すれば、生産者、小売業者、メディアの「戦略」によって、生み出されている、ということです。ひょっとするとそうしたときの「流行」なんて「捏造」かもしれない。それでも、愚かにも誘導されて同調する集団が一定数あれば、それが正真正銘の「流行」になってしまう。「嘘から出た真」、「嘘も100回言えば真実になる」ようなもので、結果の後に「流行」がついてくるような現象、あるとは思いませんか?


(Kundry)



引用文献・参考文献

「ファッションの文化社会学」 ジョアン フィンケルシュタイン 成実弘至訳 せりか書房




Diskussion

Kundry:みなさんは、「流行」についてはいかがお考えですか?

Hoffmann:よりによって我々に訊くまでもないだろう(笑)ファッションに関しては、一応ビジネススーツなどはそれなりに季節やその場にふさわしいものを選んでいたけど。よく、政治家の謝罪会見なんか見ていると、わざわざ謝罪の場にふさわしくないスーツやネクタイを着けてきている人がいるよね。ああいうのはダメな例だと思う。いずれにせよ、「流行」とは無縁だな。

Kundry:Hoffmannさんは勤め人時代、社内のロッカーに謝罪時に着て行く用のスーツを常に用意していましたからね(笑)

Parsifal:たとえば、靴とベルトの色を合わせるとかはするけど、わざとセオリーから外すこともあるよね。

Hoffmann:Parsifal君は時代に同調するよりは「反抗」するタイプだね。でもそれもまた「おしゃれ」の一種だよ。

Klingsol:個人的には靴からはじまると思っているけど・・・それといちばん大事な基本はジャストサイズの服を着るということに尽きると思うな。よく、スーツが堅苦しいとか窮屈だとか、動きにくいと言う人がいるけど、ジャストサイズならそんなことはない。ただし、ジャストサイズの靴を見極めるのは難しい。

Kundry:それはそのとおりですね。Klingsolさんはスーツなどはオーダーものですか?

Klingsol:いや、既製服だよ。あるとき某百貨店で片っ端から試着して、一切の直しを入れなくても自分の体型にぴったり合うブランドを見つけた。以来、そのブランドのスーツだけを買って着ている。そんなに高いものではないよ。

Kundry:体型も維持しなければなりませんね(笑)

Hoffmann:今年はとくに、10月、11月になっても暑い日があったよね。外に出ると、コートを着ている人と、半袖のTシャツ1枚の人といるんだ。でも、10月を過ぎると女性で薄着の人はいない。女性は季節感というものに敏感だよね。いや、もちろん、称賛の意味だよ。

Kundry:女性の場合は、私などでも(笑)どうしても人目を気にしてしまうことは否定できません。

Parsifal:「人目を気にする」ということを、negativeにとらえる必要ない。男性は男性で、そのような女性の隣を歩くことになっても、相手に違和感を抱かせない程度の服装は心がけたいね。女性と歩くときと、仕事の時は、「オレ流」を通すよりも優先すべきことがある。

Kundry:「流行もの」である必要はないんですよ。でも、ひと頃、「人は見た目が×割」なんていう本が読まれていましたよね・・・であれば、他人から信用されるような見た目であった方が戦略的には有効だと思います。もちろん、「見た目」というのは服装のことだけではなくて、仕草とか表情とかも含めてのことですが。

Parsifal:でも、なんとなーく、セオリーから外したい誘惑にかられるんだよね。「お約束」とか「お作法」というものに対しては、ちょっと反感を持っている(笑)

Kundry:Parsifalさんの場合は大丈夫ですよ、基本を抑えたうえでの「外し」ですから。

Klingsol:それにしても、ファッション雑誌とかバイヤーの書いた本なんて、これからも読まれて、影響を及ぼしていくのかな? いまや情報操作によって世論を操作していたマスコミ(新聞社、TV局)が、その威光を失いつつあるからね。アメリカでも、日本でも、もはや多くの人々がマスコミによる偏向報道の実態に気がついていて、選挙結果がマスコミの報道に左右されなくなってきている。「売りたい」側の誘導に左右される時代ではなくなっていくんじゃないかな。

Hoffmann:そうなったときに、人はなにを指標にするのかな。あるいはもう、指標なんてなくなってしまったのかも知れない・・・。以前言ったんだけど、「一億総中流化」なんて言われた時代、つまり戦後、中流意識が明確な姿をとって、職人や商人ですらネクタイ姿を良しとして、各々がもっていた顔を失い、誰もが同じひとつの顔となった時には、乱歩の怪人二十面相ですら本来の姿を見失ってしまった・・・つまり、服装で階級や職業が判別できなくなって、もう久しいんだよ。

Parsifal:それもまた、「流行」の一変種なんじゃないかな。澁澤龍彦のエッセイで、ある女性が、1967年にショートスカート(ミニスカート)が大流行したときに、以後ロングスカートは絶対に着用しないという証文を書いた話あった。なんでもファッション界では知られた女性だそうで、ミニは「女性解放の思想と結びついている」から「いっぺんミニをはいた女性は、もう二度とロングには戻れない」と主張したという、いまなら笑い話のようなエピソードなんだけどね。ところがやっぱり、一過性の「流行」だったわけだよ。いまどきは高級ブランド服をひけらかすことが滑稽とさえ思えるけれど、それだってまた変わっていくのかも。

Hoffmann:たしかその澁澤龍彦のエッセイに、ジャン・コクトーの警句が引いてあったはずだ。

「流行は夭折する。さればこそ、流行にはあんなに重い軽さがあるのだ」