173 「東方旅行記」 ジョン・マンデヴィル 大場正史訳 東洋文庫




 中世イングランドの騎士、サー・ジョン・マンデヴィルSir John Mandevilleが著したとされる、中東、インド、中国、ジャワ島、スマトラ島の見聞録です。マンデヴィルは1332年のミカエル祭当日に海を渡ったと語り、末尾の納め口上では、この書物はイングランドを出発してから34年後の1366年に完結したとしています。書かれたのは、これは確定的ではないんですが、おそらく1360年よりも少し後であろうとされています。なので、14世紀の旅行記ということになります。はじめはロマンス語(フランス語)で書かれ、のちにラテン語に、さらにフランス語から英語に翻訳されたと考えられています。


 
※ 出発はテキストにより、1332年、1322年、帰還は1366年、1357年、1356年、1357年と異なっています。

 マンデイヴィルが没したのは1372年、ベルギーのリエージュに近いギレルマン教会に埋葬され、この教会はフランス革命の時に破壊されてしまったのですが、15世紀から18世紀までの間に旅行家たちがその墓地を見ており、その墓碑銘も記録されています。


 ここに、貴族サー・ジョン・マンデヴィル・ナイト、またの名ひげ男が永眠す。彼はキャプレディの貴族にて、イングランドの生まれ。また開業医にして、信仰きわめて厚く、惜しみなく貧者に財を施したり。ほとんど全世界を遍歴したのち、西暦紀元1372年11月17日リエージュにて逝去

 
いや、じつはサー・ジョン・マンデヴィルという人物については、2、3の事実が知られているほかは、ほとんど推測ばかりなんですよ。ある年代記作者はマンデヴィルが著名な医者であり、ギレルマン教会に埋葬されたこと、旅行記を3か国語で書いたことなどを記録しているんですが、一方で、リエージュの公証人は、ジャン・ド・ブルゴーニュという一老人が臨終の際、自分はイングランドで身分の高い男を殺して逃亡してきたものであると語り、本名をジョン・ド・マンデヴィルと名乗ったと記録しているんですね。なので、この「東方旅行記」の作者がマンデヴィルなのか、ド・ブルゴーニュなのか、これは議論のあるところ。その著作にあまりイギリス的な地方色がないこと、フランス語で書かれたらしいことから、作者がイギリス人でないと論証しようとした人もいるんですが、テキストによってはエドワード三世への献辞があったり、本文中にも「イングランドのわれわれの言葉」という文句がある。そもそも、イギリス人がフランス語で著述することも、14世紀なら別段不思議はありません。


Sir John Mandeville

 さて、この「東方旅行記」は14世紀の有名な東洋周遊旅行案内記であるわけですが、実用性は皆無に近い。地理的記述は曖昧だし、乗り物にはまったくふれられていない。著者の意図は、東洋の未知の国々の奇々怪々なる珍習異聞を「まことしやかに」語ること。つまり、架空の旅行記なんですよ。ただし、当時からシェイクスピア以上の名文だと讃えられた、一流の文学作品です。2箇所ほど引用してみましょう―

エジプトにはまた、ヘリオポリスと呼ぶ都がある。これは太陽の都というほどの意味である。そして、この都に、エルサレムの寺院に似せた、円形の寺院がひとつ設けられている。同寺の僧はある書物に、フェニクスと呼ばれる鳥の生涯を書きしるしている。これは世界に一羽しかいないが、五百年の寿命をもっている。

 さらにまた、インドでは水晶の岩に良質のダイヤを見るといったが、それと同様、海や山でも、堅硬物の岩の上に、はしばみの実のように乳色をした、良質の、固いダイヤが発見される。それらはみな、生来四すみをもち、四角形である。また、雌雄とも、群生して、天国の露をのんで成長する。さらに、いわば彼らなりに、受胎して、小さな子を生み、そんなぐあいにして、たえず繁殖し、成長しつづける。


 考えてもみて下さい。架空の旅行記・法螺話なんて、めずらしくもありません。「ガリヴァー旅行記」だってそうでしょ。旅行記というものの範囲を少し広げてみれば、古くは古代ギリシアのルキイアノスの「本当の話」、回教圏の「千夜一夜物語」、フランスの「ガルガンチュア物語」にスペインの「ドン・キホーテ」、ドイツの、我が国では「ほら男爵の冒険」と呼ばれる「ミュンヒハウゼン物語」・・・。

 ではここに描かれた・報告された《東洋幻想曲》は、まったくの想像の産物なのか? それはたとえばプリニウスと同じこと。つまり、先人たちが著した種々雑多な資料を縦横に駆使して、方々から引いてきた記述を巧みに集大成したものなんですよ。つまり編纂もの。ただし! マンデヴィルは決して出典を明らかにせず、まるで自分が見てきたように書いている(笑)「種本」とされているものをいくつか挙げると―

 ボヴェのヴァンサンによる百科事典である「世界の鏡」。これはフランチェスコ会修道士ジョン・デ・ピアノ・カルピーニの文章が引用されており、そのほか、プリニウスやアレキサンドロスの伝説や初期の動物物語集などを、マンデヴィルもふんだんに孫引きしています。ちなみにカルピーニは1245年に教皇イノケンチウス四世の命令で大汗(蒙古朝)への使節団長となって、マルコ・ポーロ以前の陸路による極東旅行の記録を残した人。

 ポルデノネの修道士オドリコの「東洋紀行」。オドリコは1316年から1318年にかけて海路で東洋に向かい、北京に3年滞在、その後チベットのラサを訪れたと言われている人。これはマンデヴィルもそっくりそのまま借用しており、ある時期には、オドリコとマンデヴィルが一緒に旅行したと信じられていたほど。

 ヘイトンの「東洋歴史の精華」。ヘイトンは小アルメニア王家の傍系縁者と言われており、その著作はアジアの地誌と韃靼族の歴史を扱ったもの。

 伝道士リュブリュキのウィリアムの旅行記。これを典拠とした記述は、アララト山に登ってノアの方舟の板を一枚持ち帰ってきた修道僧の話(笑)

 ・・・そのほかにもいくつかあるんですが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」についてふれておきましょう。かつては「東方見聞録」を出典とする話は一節だけとされていたらしいのですが、この「東方旅行記」の訳者によれば、じっさいには、オドリコにもマルコ・ポーロにも共通する話があって、当時広く流布していた(もちろん写本で)であろうマルコ・ポーロの「東方見聞録」が手許になかったとは考えられない、としています。


 
・・・以上は概ね本書の訳者解説による情報です。また、二部構成の第一部は聖地エルサレムへ至る巡礼の旅、そのコンスタンティノープルからビザンツ帝国の首都、そこから南下して、キプロス、シリア、エルサレム、シナイ砂漠の修道院を訪れる聖地案内の件は三分の一ほど削られて、後半の東方の非キリスト教世界の奇異驚嘆の数々―首から上が犬になった女、双頭の雁、巨大なかたつむり、体全体を覆う程の巨大な一本足の人間などが登場する後半は完訳であるとのこと。

 
当時はかなり広く読まれたもので、オランダ語、ゲール語、チェコ語、カタルーニャ語、ワロン語などのヨーロッパのさまざまな言語に翻訳された写本は、ヨーロッパの主要図書館保存されたものが300冊を超えており、これはマルコ・ポーロの「東方見聞録」を大きく超える4倍の数とも言われています。

 
この本が与えた影響のひとつが、カルロ・ギンズブルグの「チーズとうじ虫 16世紀の一粉挽屋の世界像」(杉山光信訳、みすず書房)でテーマとされているメノッキオの世界観であったわけです。じっさい、マンデヴィルはこの旅行記によって、一方向に航海することで世界を一周することができること、地球の反対側から故国に戻ってこられることを史上初めて証明したと主張しているのですから、これは当時の人々には、未知の土地に対する神学的、現実的根拠を与えたんですよ。

 また2箇所ほど引用―

 修道士の話によると、きれいで、おとなしい獣どもは貴人や紳士の霊魂で、そうでないものはほかの人間の霊魂であるという。また、彼らの意見によると、人間の霊魂は、肉体を離れるとき、これらの獣の体内へはいってしまうのだと。

 また、国内には、ほかのどこの国にも見られないほど、たくさんのグリフィンがいて、ある人々の話では、前がライオンの形で、後が鷲のそれだというが、まさしくその通りである。けれども、グリフィンはそれらの国の八頭のライオンよりも強力で、百羽の鷲よりもさらに獰猛である。なぜなら、グリフィンは大きな馬を一頭と、人間をひとり乗せて、さもなければ、くびきで鋤につないだ二頭の牛を乗せて、自分の巣まで飛びかえるからである。というのも、グリフィンの足には、牛の角ほどもある、大きな、長い爪がはえていて、驚くばかりに尖っているためで、人々はその爪で水飲み用のコップをこしらえるが、それはちょうど、われわれが水牛の角でコップを作るのと同じである。また、羽毛の骨では、矢を射るための弓をこしらえる。


 
なんとも読者の想像力をかき立てる、魅惑たっぷりの記述です。マンデヴィルが嬉々として書いているような気さえします。それが先に述べた各種「出典」からの引用・剽窃なんですから、これを並べるというのは、ある種の「編集」と呼んでもいいかもしれません。

 
ただし、16世紀に至ると探検家たちが各地に散らばっていって、マンデヴィルの評価は下がり、19世紀のヴィクトリア朝においてはマンデヴィルの文学者としての評価も大きく下落。旅行記の内容は過去の文献の引用と著者の空想によるものであることが常識となりました。もっとも、イギリスの軍人、探検家であるウォルター・ローリーのように、この旅行記の内容がすべて真実であると考えていた人もいたものの、わりあい早い時期からマルコ・ポーロの「東方見聞録」は本物の旅行記であるのに対して、マンデヴィルの「東方旅行記」は概ねフィクション、文学的想像力による著作であると受け止められていた模様なんですよ。

 
なので、文学面で与えた影響も大きく、マンデヴィルは14世紀の大作家のひとりとみなされ、シェイクスピアの戯曲、「リア王」における親を食らうスキタイ人、「テンペスト」の怪物などはマンデヴィルの旅行記の影響をうかがわせ、エドマンド・スペンサーの「妖精の女王」に登場する腰まで届く長い耳の男はマンデヴィルの旅行記から引用されたもの、ジョン・ミルトンの1634年の仮面劇「コーマス」にもマンデヴィルの描いた怪物の一群が登場しています。

 
読者は中世ヨーロッパ人が、中近東あたりから極東にかけてどのようなimageを持っていたのかを確かめるのもいいでしょう。じっさい、そこに垣間見えるオリエンタリズム(東方趣味)ははるか19世紀に至るまで綿々と続いてゆくものですからね。あるいは、「ガリヴァー旅行記」のような寓意を読み取ろうと試みるのもよし、もっと文学的・芸術的な作品として寄り添って、その奇々怪々、種々雑多な奇想を愉しむのもまた結構。16世紀の粉挽屋メノッキオなんて、これを読んで自分が住んでいる世界を相対化しちゃったんですから、読者としては見上げたものですよ。

 
旅行記という体裁では、ジェラール・ド・ネルヴァルやテオフィル・ゴーチエ、果てはジュール・ヴェルヌの大先輩なんですから。月にまで行ってしまったヴェルヌはともかくとして、ゴーチエなんて、その紀行文について「行ったことはないが、この目で見た」なんて開き直っていますからね(笑)


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「東方旅行記」 ジョン・マンデヴィル 大場正史訳 東洋文庫




Diskussion

Hoffmann:剽窃と言えば剽窃なんだけど、たいへんおもしろい読みものなんだよね。なんだか、真似してみたくなる(笑)

Klingsol:「誰々によれば・・・」と書いていないのが問題だね。もっとも、問題はそれだけ、と言っても差し支えなく思われる(笑)Parsifal君がさりげなく「編集」と言ったのは卓見だね。


Kundry:数ある旅行記の中でもそのおもしろさは上位にあるものですね。古今東西の旅行記作品集を編むのであれば、ぜひ入れておきたい逸品です(笑)


Parsifal:当時の東洋観を知ることもできる。すると、それが古代ギリシアあたりからマンデヴィルを経て、19世紀あたりまで綿々と受け継がれていることが分かるんだよ。