023 「燃えつきた地図」 (1968年) 勅使河原宏 勅使河原宏が勝プロダクションと組んで制作した「燃えつきた地図」(1968年)です。配給は東宝。もちろん安部公房の原作で音楽は武満徹。「砂の女」(1964年)、「他人の顔」(1966年)と同様に、原作・映画についてまとめてお話しします。 探偵のもとに、失踪者を捜して欲しいと依頼がある。依頼人は失踪者の妻。しかし、なぜか依頼人は捜査に非協力的、失踪者の元部下に至っては虚言癖の持ち主で、さんざん探偵を引きずり回したあげく自殺してしまう。殺人事件に巻き込まれて興信所を辞めた後も捜査を続ける探偵。やがて探偵は自分自身をも見失い、最後は記憶喪失になって、自らが失踪者となる・・・。 テーマは外界喪失でしょう。これは作者の安部公房自身が語っていることなんですが、失踪とは共同体意識の否定なんですね。「砂の女」では失踪する側の人間を中心に描き、「燃えつきた地図」ではその失踪者を追う探偵を主人公に据えたわけです。少し不思議に思えるのが、主人公が探偵であるということ。これが警察官なら警察とか国家という共同体への強い帰属が前提になるわけですが、探偵というのは、一応興信所に所属はしているものの、共同体との結びつきが緩い。悪く言えば、もともと「根無し草」的な職業です。舞台は都市ですから、「砂の女」のような愛郷精神らしきものもない。「他人の顔」の主人公が企業に勤務しているのとくらべても、共同体意識が圧倒的に薄いのですね。つまり、そこから逃れるという、肝心の「共同体」が明確に描かれていないのです。そのこと自体は別に驚くようなことではなくて、満州で育ち終戦を迎えた作者自身が、もともと郷愁などという感情や共同体意識に、肯定的にも否定的にも、思い入れがあるとも考えられない。 では、探偵が喪失した外界とは、なんなのでしょうか―。この問いは、燃えつきたという、その「地図」とはなにか、と言い換えてもいいでしょう。 これ、団地だとか家庭だとか、所属する興信所だとかいったような擬似的な共同体のことではないですよね。安部公房がその程度の批判とか抑圧を描こうとしたなどとは、とても思えない。もっと、故郷とか民族といった属性のことでしょう。それは生まれながらにして持っていて、持たされているもの、自分で選び取ることができない、受け身で付与されているものです。家庭とか興信所というのは、その暗喩に過ぎないのです。 ひょっとして、なんらかの犯罪の片棒を担がされているのではないか、などといった「常識的な」推測や疑いも、まったく捜索を伸展させることがなく、ついに探偵は、探偵という追う者の視点から、失踪者の視点に立って捜索の手がかりを得ようとします。具体的には、失踪者が最後に目撃された場所に立って、彼なら「捨て去ったわが家の窓を見上げて、なにを思うだろう」と、その心理を探ろうとします。このあたりから、いずれ探偵が記憶喪失になって、自ら失踪者となるまでの道筋が作られていくのです。しかも、この探偵は別居中の妻から「あなたは家出をしたのよ」と言われている。探偵もまた、すでに失踪者だったのです。記憶が曖昧になるにつれて、identityが失われるのではなくて、自分のidentityと他人のidentityの混合が発生しています。 結局探偵は、最後まで失踪者の居場所はもちろん、失踪の動機さえもつかめませんでした。彼にとっての「地図」の外にあることだからです。人間の主体性というものは、「地図」の範囲内に収まるものではない、突き止めがたいものなのです。だから、探偵もまた、たとえ興信所を辞めても捜索を続けようとして、「地図」からの逸脱を試みる。ところが依頼人や失踪者の元部下たちは捜索に非協力的で、探偵を迷宮に追いやろうとさえしているかのようです。つまり、「地図」の境界が曖昧なので、いま自分がいる場所がわからなくなるのも当然のことなんです。そして救助に来た女、つまり失った記憶を補填してくれるはずの使いである女を拒否して、物陰に隠れる・・・こうしてもう一人の失踪者ができあがるのです。 勝新太郎の独立プロダクションは1967年に第一作「座頭市 牢破り」でヒットを納め、次は芸術的な映画をと考えていたところ、持ち込まれた企画が、この勅使河原宏監督による「燃えつきた地図」でした。勝新太郎にとっては大衆路線に前衛的な芸術路線の作品を添えることとなり、勅使河原宏にとっては勝新太郎の人気と資金を頼りにすることができるという、双方にとって有益な提携であったようです。じっさい、その後TVMの「座頭市」シリーズでは勅使河原宏の演出が要請されており、良好な関係は長く続いたようです。 その一方で、安部公房と勅使河原宏との協働作品は、一般映画館で上映されたものとしてはこれが最後。安部公房が演劇に力を入れるようになったのも、その要因のひとつでしょう。 失踪した男を捜す探偵役に勝新太郎、依頼人である失踪者の妻に市原悦子。 虚言癖の持ち主で、さんざん探偵を引きずり回したあげく自殺してしまう失踪者の元部下役に渥美清。右のように、ガラスや鏡などに反射する映像がさかんに取り入れられています。とくに鏡を上手く使うと、現実感を不安定にさせますね。 探偵の別居中の妻が中村玉緒。中村玉緒が右側の鏡に映っていることにも要注目。また、映像造りの特徴をもうひとつ、やたらと電話をしているシーンが映し出され、これも非現実的な不安定さを演出しています。ケーブル一本でのつながりですからね、無意識的にも宙ぶらりん、suspensiveの感覚を生みますよね。さらに、遮蔽物を使って額縁を作り、枠の中に入れてしまう映像。探偵の視点でとらえられた光景を追う主観と、「観察者」に徹した客観描写が、鏡などの反射像を映し出す映像と相俟って、視点を攪乱させる効果を担っています。 じつは、安部公房も原作の段階で「映画的手法を取り入れた」と言っているんですが、それがどこまでこの作品に反映されているのかは、判断の難しいところです。安部公房はわりあい散文的な、なんの変哲もない風景を意味深く描写するようなところがあります。それが物語として登場人物の生活空間と結びつかない無機的な風景として、ポンと置かれている。そう考えると、ドキュメンタリー的な映像造りが似合いそうで、それは成功しているんじゃないでしょうか。 武満徹の音楽は、いまとなってはちょっと古い感覚かもしれませんが、ミュージック・コンクレート的な音響に現実音やプレスリーの音楽が変形されて重ねられ、そのなかからヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲が古典派ふうに編曲されて浮かびあがってくるというもの。喫茶店のシーンでは同じヴィヴァルディがロック調に編曲されており、なかなか効果的です。 (おまけ) これはヌードスタジオのモデル。若き日の長山藍子です。 (Parsifal) 参考文献 とくにありません。 |