036 「キング・コング」 ”King Kong” (1933年 米) メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック 「キング・コング」“King Kong”(1933年 米)は、メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シュードサック監督、ウィリス・H・オブライエンのストップモーション・アニメによる、まず知らぬひとのないトーキー初期の映画です。レイ・ハリーハウゼンや円谷英二が特撮監督の道を志すきっかけとなった作品としても知られていますね。観ていないひとでもエンパイア・ステートビルを登るその映像はご存知なんじゃないでしょうか。あらためて観て、結論から言うとこれは古今の怪獣映画の「元型」とも言うべき大傑作です。 当時経営不振だったRKOが、本作の世界的大ヒットによって一気に持ち直したという作品。RKOの不振というのは、世界大恐慌の残禍によって、当時はアメリカ全体が未だ不景気であったため。この映画が大ヒットした背景として、「当時のアメリカの膨大な失業者と経済的世情不安」、「黒人や新移民に対する旧移民側の恐怖」などを挙げる声もありますが、この時期、ターザン映画を始めとする「ジャングルを舞台とした秘境冒険映画」や「実写の猛獣映画」が盛んに作られていたことも指摘しておく必要があるでしょう。 冒頭、「古代アラビアの諺」として次の一文が引かれます。「そして預言者は言った―“見よ! 野獣は美女の顔を見て殺そうとして伸ばした腕を止めた。その日以来野獣は死んだも同然になった”」 ジャングル映画制作者カール・デナムは、スタッフ一同にロケ地もロケ期間も撮影内容も知らせず出航の準備中でしたが、ヒロイン役の女優が見つからない。街へ出たデナムはリンゴを盗もうとした娘―駆け出しの女優アン・ダーロウを抜擢することにします。 アン・ダーロウ役はフェイ・レイ。 このジョン・ドリスコル君、唯一女性の乗組員であるアン・ダーロウ嬢に対して、はじめはなんともそっけない態度。やがてこれが愛に・・・というより、はじめから照れ隠しだったんでしょうな。いやはや、オトコというものはややこしい生き物ですなあ。すっかりOGちゃんの私なんぞも、若き日を思い起こせば胸におぼえがあるというか、身につまされます(笑) 一行は数週間の航海の後、スマトラ島の西南遥かに、海図には記載されていない孤島を発見します。この島には髑髏の形をした山と大きな城壁があって、コングという巨大なゴリラが棲んでおり、原住民たちは毎年ひとりの処女を生け贄として捧げる・・・一行が上陸したのは、なんとも都合のいいことに(笑)この祭典の真っ最中―。 「なにかの儀式だ、隠し撮りしよう」って、ぜんぜん隠れていません(笑)すぐに見つかってしまいます。ここでの原住民の音楽は、なかなか秀逸なものです。 その場はどうにか平穏のうちに遁れたものの、金髪の美女を生贄に捧げようという原住民は、深夜、船までやってきてアンを攫っていきます。 二本の柱に縛り付けられてコングの花嫁とされるアン。まもなくコングがその姿を現します。 このようにロングで捉えてからズンズンと眼前に迫ってくる演出はほかの箇所にもあり。見せ方はさすがというべきでしょう。余談ながらこのような「映画的手法」、手塚治虫が初期の作品(漫画)でたびたび取り入れています。例をあげると「メトロポリス」など。 アンを手にジャングル奥地へ―興味深そうに衣類を一枚、二枚とはぎ取るコングの仕草は、あたかも着せ替え人形を与えられた幼児のようです。一方のアンはといえば、とにかくギャーギャーと悲鳴をあげてばかりいるのはトーキー初期ならでは? このひと、ちょっと伏し目がちの方がかわいいのですが、この映画では(当然)上目遣いばかりです。 アンを救出するべく命がけの追跡に向かった一同は、ドリスコル君を除いて全滅。それでもドリスコル君はアンを船まで連れ帰ることに成功します。このジャングルでの追跡劇が長いんですが、中生代の恐竜も登場して、飽きさせず、手に汗握らせる演出はなかなか見事なもの。恐竜の造形も、見せ方もさすがです。 追いかけてきたコングは、巨大な門を突破。このシーンもロングショットではじめて、どんどん眼前に迫ってくるところですね。手前の人間の影(前ボケ?)で距離感を演出しています。 逃げまどう原住民たち―こんなシーンもあって、なかなか芸が細かい。 浜辺まで迫ってきたコングですが、ここでデナム一行の爆弾(ガス弾?)で気絶。船に乗せてニューヨークへと連れ帰ります。 ブロードウェイで見世物にされるコング。しかし報道陣のカメラのフラッシュに興奮して、鋼鉄製の鎖を引きちぎり逃走、街を大混乱に陥れます。これはカメラがアンを撮影しようとして、フラッシュがアンを殺そうとする武器だと誤解した、ということ(設定)なんですよ。 ビルの窓からアンを捕え― エンパイア・ステートビルに登ります。 エンパイア・ステート・ビルディング Empire State Building は、いうまでもなくニューヨーク市マンハッタン区にある超高層ビルです。竣工は1931年ですから、映画制作当時はまさしく最新の超高層ビル。もっとも、世界恐慌の影響でオフィス部分は1940年代まで多くが空室のままだったそうです。だからこそ、アメリカの未来への希望を象徴するものでもあったわけですね。エンパイア・ステート・ビルにコングが登るのは、故郷の断崖を見たためということになっているのですが、文明の象徴である高層ビルの頂上で野生を叫び、しかしここにおいて森の王者の命運は尽きるという展開に、文明の勝利の意味を持たせているわけです。 ちなみにキングコングがこのビルに登るのは、この1933年製作のオリジナル版と、2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版の2回。1976年製作のリメイク版では、ワールドトレードセンタービルに登っています。その1976年版が公開されたときには、エンパイア・ステート・ビルの関係者から「なぜうちに来ないのか」との抗議の声があがったんだとか。ま、ワールドトレードセンターのノースタワー竣工は1972年なので、あちらはあちらで、コングを登らせるのにタイムリーだったんでしょう。 複葉機から機関銃で銃撃されるコング・・・もともと愛嬌のある表情に哀感が漂います。 飛行機は第一次世界大戦ではじめて投入され、機関銃とともに当時としては新兵器です。やはり文明が勝利することを強調しようという展開ですね。 もうひとたび、アンを手に慈しむような動作をしたところに、さらなる銃撃を受けて、ついに落下―。 警官「飛行機が撃ち落としたんだ」、デナム氏「いや、美女が野獣を仕留めたのだ」 冒頭の「古代アラビアの諺」と呼応するラストの台詞のほかにも、劇中、デナム氏は複数回「美女と野獣」という発言をしています。「美女と野獣」といえばルプランス・ド・ボーモン夫人のそれを思い出しますね。ジャン・コクトーが映画化している物語です。あと、ゴリラと女性ならばポオの「モルグ街の殺人」。さらに言えば「ガリヴァー旅行記」の巨人国における、ガリヴァーが猿に攫われるエピソード。そうした各エピソードをもとにしたシーンがそこかしこに観られます。 女性(美女)と獣という組み合わせは、旧約聖書の蛇とエヴァの昔からめずらしくもない、これすなわちフロイトが指摘するところの「男根の有力な象徴」にほかなりません。古代ギリシアはオリンポスの神々ならば、人と獣の交婚(つまり獣姦)の例は枚挙にいとまないところですが、だからこそキリスト教世界ではこれが宗教的異端として断罪されたわけです。しかし禁制は障碍と誘惑という両義性を持っているもの。ここでは恐怖の対象として頑丈な扉の向こう側に追いやられていたキング・コングが、同時に原住民たちから崇拝の対象とされていたことをお見逃しなきよう。「禁制は容易に近づけぬものを崇高化する」とはジョルジュ・バタイユの言。 さきほどの「旧約聖書のエヴァ」とは、じつを言えばネタばらしでして、この映画で最初に登場したアンがリンゴを盗もうとしていたことにご注目ください。一方、禁制侵犯、すなわち扉を突破してこちら側の世界へとやってくるコングは、文明社会を犯す反文明の夢想、無意識下の獣性、性への渇望の浸食にほかならないのです。エンパイア・ステートビルディングが屹立する男根であることは申すまでもなく、ことここに至って興奮の絶頂、銃撃を受けて、その先端から滴り落ちるが如く落下するコングの姿について、いまさらなにをかいわんや・・・。 いや、ちょっと待てよ、「モルグ街の殺人」ならオランウータンによる女性屠殺だが、コングはアンに殺意など抱いているようには見受けられぬが? たしかに。これはむしろ美女略奪の物語でした・・・っけ? 上っ面のstoryに騙されてはいけません。彼の島におけるコングの無敵とも言うべき強大な力が、ニューヨークに連行されるやかくも惨めな落魄ぶりを示すのはなぜか・・・。彼の地、南海の島では獣性故に信仰され、神であったが故に抑えるべき性的衝動など微塵も意識することなく、ただ野性すなわち幼児性に従いアンを女王の如くやさしくていねいに扱い、そこでは性の官能も全霊的に自然そのもの。ところを変えてトコロテン、もとい摩天楼、鋼鉄の鎖に自由を奪われたコングはといえば抑圧されたリビドーそのもの。 ニューヨークにおけるコングの行動を新婚初夜の花嫁略奪などと観るのは、はなはだしき見当違いではありますまいか。神獣コングはここに至って、ドリスコルと並んで媚態を見せる(カメラに? コングに?)アンに誘惑され、叫び、わめくしかない哀れな存在と堕しているのです。すなわちアンこそエヴァにして(19)世紀末芸術が好んでテーマとした「宿命の女」(ファムファタル)なのです。魅惑されたものの末路はこれご覧のとおり―むなしく追い求め、振り回され、己がとどまるべき地を踏み越えて破滅してゆく男性性としての存在。傷つき、虫の息となってもなお、我が身を魅了したアンに慈愛とも憐憫ともつかぬまなざしを注ぎ、甘美な陶酔のうちに絶命するコング・・・。 ・・・とまあ、こんな見方もできるあたり、大傑作だと思うんですよ。蛇足ながら付け加えると、はじめに「原型」と言わず「元型」と言ったのは、怪獣映画のプロトタイプという意味もなくはないものの、フロイトやユングを想定してのことだったんですよ。 以前に観たDVDは残念ながら全体に褪色気味で画面上端にノイズが走っており、画質に難がありましたが、その後入手して今回観た米盤はかなり改善されていました。”The King Kong Collection (With Tin)”という表題で、Warnerから出た4枚組DVD。日本語字幕はありませんが、Region AllのNTSC盤。「キング・コング」のほかに、「コングの復讐」”The Son of Kong”(1933)、「猿人ジョー・ヤング」”Mighty Joe Young”(1949)も収録されています・・・が既に廃盤のようです。あるいは、さらに画質の改善されたものが出ているかもしれません。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 Diskussion Hoffmann:いろいろ意見がありそうだけど(笑)気の利いた台詞を口にしているので、見過ごされがちなカール・デナムの一面について指摘しておきたい。とにかく、この男は自分の欲求のままに突っ走るところがあって、他人のことなんか一切視野になく、欲しいものを手に入れるのに手段を選ばない。アン・ダロウをスカウトするのも、万引きするほど生活に困っていた女性の弱みにつけ込んだとも言えるわけだ。 スカル島で、原住民が若い女性をコングの生贄にする儀式を遂行しているのを見ても、これを撮影するだけで、人身御供の儀式そのものを止めさせようとするわけではない。原住民に攫われたアンを救出しようとするのは当然とは言え、その結果コングが村を襲うかもしれないなんて心配はしていない。ブロードウェイでのコング公開も、自身の承認欲求を満たすためのものと見える。もちろん、コングが逃げ出したら周囲が危険に曝されるなんてこれっぽっちも考えていない。 あたかも当時から現代に至る、ハリウッドの商業主義をよくあらわしているように思えるね。 Parsifal:「キング・コング」に代表される「美女と野獣」物語―美女と野獣なんぞといえば聞こえはいいんだけれど、その意味するところは獣姦にほかならないよね。人獣交歓はHoffmann君も指摘するとおり、オリンポスの昔から、神々すなわち禁制の彼方にある聖なる存在にとっては、いかなる意味においても異常に非ざるものだった。獣姦を禁じたのはキリスト教であって、とくに中世においては異端審問により火刑とされた例も数知れずあったわけだ。しかしそのタブーは道徳的な問題からではなくて、宗教的異端であったからだよね。 Hoffmann:歴史的に見れば、オリンポスの方がはるかに先輩なのにね(笑) Kundry:人獣交歓はポオの「モルグ街の殺人」を経て、19世紀末芸術に花開き、20世紀に至って「キング・コング」という不朽の名作映画に実を結んだというわけですね。 Parsifal:ここで、以前取り上げた古典SF映画「禁断の惑星」”Forbidden Planet”(1956年 米)のDVDを思い出して欲しいんだ。いや、そのstoryではなくて、DVDケースのデザインを。これは当時のポスターとほぼ同じものなので、そのoriginalのポスター画像とともに並べてみると― Parsifal:映画の中にこんな場面はないんだけどね、いかにもアメリカン・コミックに見られそうな、ロボットが失神した美女を抱えて立ちすくむシーンだ。これが先に述べた「美女と野獣」テーマのSF版にして、その流れ着いた先なんだよ。人類滅亡後の如き荒涼たる景色は、あたかも密室のように息苦しいばかりで、ここには健康的に性を謳歌する開放感などさらになく、ただここに感じとれるのは、性の不在というよりも、不妊なんだな。 Klingsol:なるほどね、フェミニズム方面の研究家に言わせれば、怪奇映画・恐怖映画において女性の眼差しは抑圧されている、ということになっている。もともとハリウッドの映画は、男性が美女を目当てに観賞することに関しては、なにも問題とされないのに、女性が男性に対して同様の目的で観賞することに関しては、これは認められておらず、懲罰の対象として扱われているんだよ。つまり女性の性欲はつねに抑圧される。だから怪奇映画のヒロインはドラキュラを見つめているのではなくて、あれは見つめられることで魅入られてしまっているにもかかわらず、その眼差しの結果、懲罰として拉致され、危難に陥ることとなる・・・。 Hoffmann:女性が眼差しを向けることの禁忌と懲罰は、たとえば「青髭公」の物語でわかりやすく説明されているよね。 Parsifal:ところが! あるフェミニズム系映画研究家によれば、女性がモンスターを見ることの禁忌には、女性とモンスターが同一化を求め合っているからだということなんだよ。つまり女性は自らのうちに怪物性を抱え込んでおり、男性中心主義の社会において、女性とモンスターは相互補完的な存在である、女性はそこにいわば鏡に映った自らの姿を認めると。たしかに、男性は恐怖映画を観ても平然としていて、女性は恐れ、嫌悪感すら催す・・・これはまさしくフロイト的な、己のシャドウに対する否認というわけだ。 Kundry:女性の眼差しが抑圧されているというのはわかるんですが、モンスターとの同一化を求め合っているのが己のシャドウの否認というのは、飛躍が過ぎませんか? それなら男性でも同じことでは? Parsifal:たとえばキング・コングといったほとんど天真爛漫とも言うべき獣性は、これは男性性・その欲望の象徴だよね。いや、なんなら「モルグ街の殺人」のオランウータンだって、ドラキュラや狼男だって含めてもいい。しかし真に脅威的なのは、そうした獣性ではなくて、その獣性をもつものに欲望を喚起させる美女のsexualityである、モンスターに対する誘惑的な女性性こそが怪物的なのであり、それにくらべれば、男性性はじつに単純無邪気健康的である、というのがそのフェミニズム研究家のご意見なんだな。もちろん、このひとは、そのように女性が受難の対象として描かれてきたことに、恐怖映画の女性蔑視・女性嫌悪があらわれている、と主張しているんだけどね。 Kundry:そうだとすると、「キング・コング」のラストでデナム氏が「美女が野獣を死なせたんだ」と言う、その台詞もなかなか一筋縄ではいかないことになりますね。 Hoffmann:それでは参考までにピーター・ジャクソン監督の「キング・コング」”King Kong”(2005年 新・米)を観てみようか(「新」はニュージーランドだよ)。 ************************* もうひとつ映画を観る 01 「キング・コング」 ”King Kong” (2005年 新・米) ピーター・ジャクソン もちろんこの作品は「キング・コング」”King Kong”(1933年 米)のリメイクです。ピーター・ジャクソンといえば、「ロード・オブ・ザ・リング」”The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring”でブレイクした監督ですが、私は観ていません。「ブレインデッド」”Braindead”(1992年 新)の監督として思い起こすひとも少なくないかもしれませんね。 3時間を超える長尺は、この監督らしく、ひとつひとつのシーンが長い、というよりクドいため。それでもその1933年版を観て映画監督を志したというだけあって、さすがにオリジナルへの愛着を感じさせるリメイクとなっており、好感が持てるものです。 B級映画出演が長かったナオミ・ワッツ、下積み生活の女優役にぴったり。このとき37歳・・・女性の魅力は30代からです!(ホントは40代から、と言いたいんですが・笑)ちなみに、ナオミ・ワッツはこの映画撮影に際して、役作りのためフェイ・レイにも会いに行ったそうです。 storyは概ね1933年版をなぞってはいるものの、かなりわかりやすくなっています。つまり、ナオミ・ワッツ演じるアンとコングの交流が前面に押し出されている。じつは、これは最初Blu-ray盤をレンタルで観ましてね、レビューを検索したら「ラブストーリー」なんて言ってるひとがいたから、どーせ度し難い甘々のsentimentalismに堕しているんだろうと思っていたんですよ。でも、その一歩手前で踏みとどまっているあたりの匙加減は見事なものでした。 上の画像と並べると、コングがエンパイア・ステート・ビルに故郷の断崖を見たこと、お気付きいただけるでしょう。 ところが、こんなにわかりやすく手を加えているのに、ラストの「美女が野獣を死なせたんだ」というデナム氏の台詞が「意味わからん」というひとが多いらしいことは、ちょっと驚きです。これは、私は1933年版を先に観ていたのでなんでもないけれど、「キング・コング」という映画をはじめて観るひとには不可解だということなのでしょうか。つまりこのリメイク映画、観るひとに対して、あらかじめ予備知識というか、共通の了解事項を求めてしまっており、それに依存しているところがあるのかもしれません。そう考えると、アンがリンゴを盗もうとしてからこのラストに至るまでのstory展開は、自然にこの台詞を導いてはおらず、いかにもこの台詞は取って付けたように聞こえるのかも・・・? やっぱりラブストーリーの側面をわかりやすくしすぎるなど、いろいろエピソードが付け加えられたりしたことに加えて、アクションシーンなどが長すぎるあまりに、このキング・コング・レジェンド(いま思いついたことばだ)の大枠・本質に対するピントがボケちゃったのかもしれません。終盤はアンが危険な目に遭いながらキング・コングを追いかけてるし、そんなシーンをさんざん観せられて「美女が野獣を死なせた」なんて言われても、「?」となるのは仕方がないのかもしれません。 幼児性を抑圧されて、思春期を卒業してしまった(させられてしまった)コング。この画像は、その男根の突端で行われている場面であることをお忘れなく―。 しかし! 真に怪物的なものとは、獣性をもつものに欲望を喚起させる美女のsexualityである、モンスターに対する誘惑的な女性性こそが怪物的なのである・・・と考えると、すべてがすんなりと納得できますね。フェミニズム研究家のご託宣を受け入れるとすれば、このように女性が受難の対象として描かれてきたことに、恐怖映画の女性蔑視・女性嫌悪があらわれているということになります。すると、この映画は怪物的な女性性によって破滅させられるコングの悲劇を描いたもの、ということになるわけで、最後のデナム氏の台詞もたいへんわかりやすいものとなるのです。 「オマエが死なせたんだろ」・・・と思う人がいるのも無理はないかも・・・。 (Hoffmann) |