055 「インセプション」 ”Inception” (2010年 米・英) クリストファー・ノーラン




 「インセプション」”Inception”(2010年 米・英)です。監督はクリストファー・ノーラン、主演はレオナルド・ディカプリオ。




 あらすじを簡単に紹介すると―

 夢を共有する方法で他人の頭の中に潜り込み、潜在意識から情報を抜き出す産業スパイのコブの元に、実業家のサイトーから仕事の依頼が舞い込む。その内容は、ライバル企業を市場独占を阻むために、会長の息子ロバートの頭の中に侵入して、「会社を分割する」というアイデアを植えつけるというものだった。コブは選りすぐりのメンバーを集めて、この不可能と思われるミッションに挑戦する・・・。


 ―というもの。なんでも本作はホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集「伝奇集」にインスパイアされて、構想に20年を要したんだとか。

 
アリアドネ役の当時エレン・ペイジEllen Pageは、後にトランスジェンダーであることを公表して、エリオット・ペイジElliot Pageとなりました。従って、現在は新しい名前で「俳優」と表記することになります。

 なかなか仕掛けが入り組んでいて、舞台は誰かの夢の中ですから、夢の中での独特なルールがあります。かなりの時間がそのルール説明に費やされているのですが、それを煩わしく感じさせないところが上手くできています。

 少しだけ説明しておくと、夢の世界は多層構造になっており、第一階層の夢の世界で夢を見ると第二階層へ、第二階層の夢の世界で夢を見ると第三階層へ。深い階層になるほど時間の経過が遅くなります。夢から覚めさせるには、夢の中で死亡するか、「キック」と呼ばれる、一階層上での目覚めさせるためのアクション、具体的には三半規管の平衡感覚を崩す刺激が必要になります。

 ターゲットの夢の中に潜入することで、エクストラクション(情報を抜き取ること)、インセプション(情報を植えつけること)が可能になります。一方、ターゲット側も訓練を受けることで、潜在意識を武装化させて、侵入者たちを排除することができます。



夢の中ではパラドックスも可能。これはペンローズの階段Penrose stairs、永遠に上り続けても高いところに行けない階段で、本来なら二次元でのみ表現できるものです。

 複数人で共有する夢は誰かの夢。その夢を提供しているのが「ドリーマー」、その夢の世界を構築・設計するのが「設計士」。この世界は現実との境界線が曖昧にならないよう、完全な想像の産物でありながらも、ターゲットが夢を現実と思い込んでしまうような、リアリティーと細密さが要求されるもの。映画内ではアリアドネが担当しています。このほかに、「偽装師」と呼ばれる、他人になりすましてターゲットの思考を誘導する者がおり、映画内ではイームスが担当。さらに夢の世界を安定させるために鎮静剤を作る「調合師」が必要で、これはユスフが担当しています。

 小道具として重要なのが「トーテム」。侵入者が「夢の中にいるのか、現実世界にいるのか」を判断するために利用する道具です。コブは亡き妻の遺品であるコマを愛用しており、コマが回り続ければ夢の中、途中で止まれば現実という設定です。

 後はじっさいにご覧になっていただければいいのですが、いろいろ見せ場もあり、飽きさせない展開。第1階層でのドリーマーはユスフで、雨が降っているのは、ドリーマーであるユスフがシャンパンを飲みすぎて尿意を覚えているからというのは、細部まで仕掛けを怠らない面白さ。第2階層ではターゲットに、あえて「ここは夢の中である」と教えて、第3階層へと導く作戦が実行されます。第3階層ではアクションシーンで盛り上げようというのは、この映画の計算どおりでしょう。そして虚無の世界・・・ここに落ちてしまうと、現実に引き戻されても心だけは虚無の中に置き去りにされてしまう(植物人間状態に陥ってしまう)という、最後のクライマックスです。




 この映画を観た人の最大の関心は、ラスト、アメリカに帰り着いて子供たちに会うことができたコブの、コマは止まるのか、回り続けるのか・・・つまりこれは夢の中なのか、現実なのか、ということでしょう。映画では回り続けるとも止まるとも判断できない「寸止め」で終わってしまい、その判断は観ている人に委ねられているようです。

 これについては、マイルズ教授役で出演したマイケル・ケインが某ラジオのインタビューで、「コマは最後に倒れるよ。夢に一度も出ていない私が最後に登場しているということは、あれは現実だということだ」と語ったそうです。なんでも、彼は監督から「君が出ているシーンは現実だ」と説明されたんだとか。

 また、よく研究している人はいるもので、夢の中ではいつも指輪をしているコブがこのエンディングのシーンでは指輪をしていないとか、子供の服が夢の中で観る子供と似ているようで、ラストだけ微妙に違う服だとか、そもそも演じている子役が最後だけ変わっているよ、と指摘している人もいます。

 そうなると、やはりこのラストは現実で、ハッピー・エンドと見ていいのでしょうか。監督自身は、「最も重要なことは、あのシーンでコブがコマを見ていないということだ。あの時彼は、コマではなく子供たちを見つめていた。コブはコマを捨てた、ということなんだ」と語ったそうです。つまり、「自分の居場所」がすべてではなく、「自分がなにをしたいのか」という自己欲求こそが本質的な問題なのだ、ということでしょうか。たしかに、それはロバートに対して、相続する「会社」という場所に自分を位置づけるのではなく、まず自分が何をしたいのかを自己決定させるという、コブたちが仕掛ける「インセプション」にも通じるテーマですね。

 この映画もまた、「エンゼル・ハート」「シャッター アイランド」と同様に、「オイディプス王」の自分自身の正体を見極める物語の流れのなかにあるvariationだと思うのです。すると、ここで追究されるidentityは、「自分がどこにいるのか」ではなくて、「自分がなにをしたいのか」という自己欲求にこそ求められるということが、ひじょうに意味深いことになります。つまり最後の、コブが駒の動きを見届けないという行動は、運命と闘おうとするギリシア悲劇の英雄たちと同様の「挑戦」だと思えるのです。


 

 そのほか、私がたいへんユニークだと思ったのは、夢の世界での時間の流れが、現実世界のそれより遅いことです。現実の10時間が、1階層では1週間、2階層では6か月、3階層では約10年―。これ、現実は逆のはず。夢の中の5分は現実の1時間に相当することもあるくらいに、睡眠時の脳は極めて処理速度が低速です。ところがこの映画では、夢を下の階層に降りてゆくと時間が遅くなることになっている。まるで光速を超えるスピードの宇宙船に乗っているような効果がもたらされている・・・宇宙船? と、ここで気がついたのは、映画の中で「降りる」「落ちる」ということばで表されている、下の階層の夢への移動には、仮想的な重力が働いているということなのではないかということです。

 アインシュタインに言わせれば、重力とは「時空の歪み」そのものです。夢の中では時空は歪んでいるし、重力も街並みが折りたためるくらい自由です。重力の存在は時間を遅らせる効果がありますから、夢の中では仮想的なものとなりますが、その重力によって、時間のスピードを遅らせるというアイデアは満更無謀なものではありません。もちろん、現実世界に置き換えればおかしな話ですが、そこがこの夢の中の世界は、徹頭徹尾、脳内の仮想空間であることによって、理論的には(理論だけなら)可能であるということになります。夢の世界が虚構なら、仮想的な重力に影響された時間も(脳内で形成された)虚構的な時間なのです。現実の物理法則に縛られる必要のない世界なのです。

 つまり、理論的な世界と、現実の世界の境界線が消え去ってしまっているわけで、いまさらvirtual realityが善か悪かなどという議論に血道を上げている人たちが滑稽に見えてきますね。言い換えれば、いま人類が問題にすべきは数学と物理学の間に境界線は存在するのか、数学と物理学は両立するのか、ということなのです。


(Kundry)


参考文献

 とくにありません。