062 「黒い蠍」 ”The Black Scorpion” (1957年 米) エドワード・ルドウィグ






 どかーんと火山の噴火の実写filmではじまるこの映画は「黒い蠍」“The Black Scorpion”(1957年 米)です。



 火山の噴火によって太古の巨大サソリがメキシコに出現。火山洞窟に潜入した一行は、そこに古代の昆虫がうごめく異界を発見します。昆虫が苦手の人には観るのが辛いかもしれませんね(笑)「キング・コング」で一世を風靡したウィリス・H・オブライエンのモデル・アニメーションが秀逸なSF怪獣映画・・・と、一般には言われていますが、じつはオブライエンが撮った特撮シーンはごく一部で、アニメートの多くはピート・ピーターセンが手がけています。



 サソリの造形―その顔面はなかなか愛嬌のある、というか、滑稽の一歩手前。やたらup映像が多く、いちいちねばつくよだれを垂らしているのがキモチ悪いと言えばキモチ悪い。鳴き声まで加えられています(笑)

 

 大都会襲撃。わらわら出てきたはずの巨大サソリは仲間同士殺し合って、残るは最強の一体・・・って都合がいいですな(笑)このへんの特撮は黒いシルエットをかぶせているだけですが、これはこれで充分。夜の闇に黒い影という、恐怖の存在感を際立たせており、ちょっと「ゴジラ」を思い起こさせますね。ただし「ゴジラ」のようなヌイグルミ怪獣と比較してしまうと、逃げまどう人々とは別空間とも見えるのは仕方がありません。ちなみに迎撃する軍隊も対サソリ作戦にのみ備えるばかりで、市民には一瞥もくれないのはどんなものでしょうか。このあたり、我が国の自衛隊の方が市民の避難にも配慮してくれそうですね。

 ちなみに右のシーンは戦車とサソリの、双方コマ撮りのバトル。いやあ、戦車なら離れたところから砲撃するのが筋では・・・(笑)それでも、ヘリコプターをがっしと掴んで地面にたたきつけるあたりはなかなかの見せ場ですね。

 最後は電気モリで退治します。特別な新兵器などではありません。日本の怪獣映画と異なるのがそのあたりで、敵は既存の武器で倒せる存在です。だから怪獣とのドンパチがstoryの中心ではなくて、それは最後の最後だけ。むしろそこまでのプロセスが重要なのであって、たとえば、はじめの方の洞窟における場面のように、怪獣の生態を描いたりする場面でドラマが作り込まれているわけです。

 「ゴジラ」のときにもお話ししたように、これが日本だと超兵器を持ち出しての戦いそれ自体を延々と描くから、やがて怪獣は人間とは関わらなくなってしまう。もちろん、1954年の「ゴジラ」ではさようなことはありませんが、少し時代を下ってしまうと、日本の怪獣映画が怪獣同士のプロレスごっこになってしまったのは、このプロセスを描くことをなおざりにしていたからなんですよ。はい、これは下手な駄洒落です。



 さて、このアメリカ映画、なぜメキシコを舞台としているのでしょうか。火山の噴火によって太古の巨大サソリが出現するのがメキシコだからなんですが、言うまでもなく、ここではメキシコが未開の地であって、混乱したメキシコを平穏な世界に導くのがアメリカ人であるという構図がとられているわけです。太古から生き延びてきたものは抹殺すべし。ほうら、メキシコ政府だって手を焼いているじゃないか、我々アメリカ人が手を貸してやらなければならないのさ・・・と。じっさいに、ここで巨大サソリにとどめを刺すのは、軍人ではありません。軍にあれこれ指図する、ベストを着てネクタイを緩めたアメリカ人(白人)です。ここで目覚めた巨大サソリがなにを表象しているのか、言うまでもないでしょう。ここで太古の巨大サソリが表象しているのは、かつてアメリカに侵略された古きメキシコ人と、いまに伝わっている嫌米感情なのです。だから、メキシコ人の純朴な子供を登場させるのも、子供に「未来に託す」というよりも、過去のアメリカの悪辣な侵略行為から目をそらさせるためのアリバイ造りだと見るべきでしょう。

 アメリカという国は過去の侵略を正当化しているわけです。先住民を壊滅させ、大義なき侵略戦争によって他国の領土を奪い、あろうことかそれを美談にしようとしている。先住民こそ「悪」であり「加害者」である、すくなくとも役立たずの未開人であるといったすり替え、アメリカ人こそが、世界を善導する指導者たる資格がある唯一の国家であるといった「洗脳」を施す―人々の記憶を書き替える―ための映画、これを量産しているのがハリウッドなのです。

 フロイトは覚えていると精神衛生上都合が悪いトラウマ的記憶を隠蔽するために、無意識的に別の記憶(物語)が作り出され、それが植え付けられることを「隠蔽記憶」(スクリーン・メモリー)と名付けました。ハリウッドでは、国家に都合の良い記憶を語り続けているのです。言わば「銀幕記憶」(スクリーン・メモリー)を騙り、国民に歴史的事実を歪めた記憶を植え付けてきたのです。

 もともと1950年代あたりには反共(反ソ連)映画が量産されていたのですが(ここのDiskussionで話に出ています)、レーガン政権時代になると、これに加えてベトナム戦争も含めた記憶改変映画が増えましたね。無益な戦闘は栄光ある未来のための犠牲という美談にすり替えられる。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年 米)などという、ハリウッド映画史上稀に観るほどとてつもない愚作もその流れにあるものです。一見、崩壊しつつある家庭の回復、そのための強い父親像の復活をテーマとしているように見えますが、その実、そこでは過去の侵略戦争のトラウマ治療と記憶改変が行われているのです。そうして家庭や国家を理想的な形態とするためには、劣等な種族を滅ぼさなければならない。それは映画のなかでは、1950年代には巨大アリや巨大サソリ、巨大カマキリであったりする。これが1970年代以降となるとエイリアンになったりする。「エイリアン」”Alien”(1979年 米)といえば、現在ではフェミニズム系の映画としての解釈ばかりが取り沙汰されているようですが、よく観るとフェミニズムは結構裏切られていて、むしろ植民地主義が前面に出てくることにもご注目いただきたいところです。

「イタリアでは30年間血みどろの戦争が続いたが、彼らはルネサンスを開花させた。一方温厚なスイス、500年平和を貫いた彼らの残したのは、鳩時計だけだ」

 これは以前、Hoffmann君がキャロル・リードの「第三の男」”The Third Man”(1949年 英)を取り上げたときに、引用されたハリー・ライムの台詞です。アメリカは先住民族を追い立て、他国に侵略して、さらには圧倒的な軍事力でもって第二次世界大戦の勝者となりました。その後に続くのは、ハリー・ライムの、勝者は弱者を殺してもいいという思想と重なる「強者の論理」です。映画によるプロバガンダや記憶の書き換えによって、正義の意思をもって、悪を憎む・断罪しているのだという主張は「偽善」にほかならない。そのことが、このハリーの台詞によくあらわれているのです。


(Parsifal)


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 それでは私、Klingsolが「米墨戦争」について、補足しておきましょう。

 アメリカ=メキシコ戦争について

 いわゆる「米墨戦争」、1846~48年、アメリカがメキシコを侵略して、カリフォルニア、ニューメキシコなど奪った戦争です。これによってアメリカ合衆国の領土は太平洋岸に達し、メキシコは領土の約半分を奪われました。

 19世紀前半にアメリカ合衆国は領土の拡大を続け、メキシコ領であったテキサスにはアメリカ人が入植して、1836年には一方的にテキサス共和国の独立を宣言、さらに1845年、アメリカはテキサス共和国を併合しました。これにメキシコが抗議すると、アメリカ合衆国はメキシコを挑発し、メキシコ側が先に領土を侵犯したと口実をもうけてメキシコ本土への侵攻を開始します。これが1846年5月にはじまったアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)です。

 アメリカでこの戦争を望んでいたのは西部・南部のプランター、大地主階級でしたが、道議無き侵略戦争に反対する国内世論もあり、若きリンカーンなどは議会で大反対。しかし民主党のポーク大統領は出兵に踏み切ります。メキシコ側は共和政に移行していたものの、保守派と改革派が対立、フランスの干渉、インディオの反乱、それに加えてユカタン半島のマヤ族の分離運動などがあって、メキシコは全面的な抵抗を組織できず、戦争に敗れます。

 アメリカの陸軍はニューメキシコとカリフォルニアを制圧し、海軍は海兵隊をベラクルスに上陸させ、首都メキシコ=シティまで攻め込みました。メキシコ=シティでは、有名な6人の少年兵の英雄的な戦いがありましたが、アメリカ軍の近代装備の前に敗北。1847年9月14日、アメリカ軍の星条旗が首都に掲げられます。メキシコの国土は建国時の約半分の約200万平方kmに減少しました。

 もちろん、メキシコ国民は、このアメリカ=メキシコ戦争でのアメリカの不当な侵略と、それによる国土の喪失を忘れていません。メキシコ=シティで侵略軍と戦った6人の「英雄少年兵」の記念碑はチャプルテペック公園に設置され、毎年記念日には大統領が献花しています。現在でも、メキシコ国民がアメリカ合衆国に対して、一種独特の嫌米感情を抱いているのは当然のことなのです。

 以後のことを補足しておくと、アメリカが獲得したカリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まり、アメリカ合衆国の西漸運動は頂点に達し、さらに太平洋方面へと進出を始めます。逆に、新しく国土に加えられた地に州が建設されたときには、それを自由州とすべきか奴隷州とすべきか、という建国以来の黒人奴隷制問題が浮上してくることとなり、これが大きな原因となって、米墨戦争終結後間もなく南北戦争が起こることとなりました。

 このアメリカ=メキシコ戦争で、海軍のベラクルス上陸作戦を指揮したのが、5年後に日本に派遣され日本に開国を強要したペリー提督。多くのアメリカ国民は勝利に喝采を送り、国中が勝利で沸き返った一方で、このようなやり方を「防衛と言いながらじつは侵略で、憲法違反だ」と議会で指摘した勇気ある下院議員が若き日のリンカーン。しかしこのため彼は「非国民」として人気が急落してしまいます。

 アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)の開戦に際して、民主党のポーク大統領は、「メキシコ自身が侵略者となり武装してわが国土に侵入し、わが市民の血を流すに至った」ことをその理由としていましたが、当時38歳のリンカーンはホイッグ党議員として大統領への質問に立ち、メキシコ軍の攻撃があった「地点(スポット)」がアメリカの国土であり、血を流したのがアメリカ国民であるという確証はあるか、と質問しています。戦闘があった地点は、アメリカとメキシコの係争中の土地であり、血を流したのは市民でなく軍人だったという疑惑があったのですね。つまり、「国策決定の根底に事実の歪曲、虚偽の介在は許してはならない」という良心からの質問でした。しかし、ポーク大統領はこの質問を無視、大衆というものはどこの国でも、いつの時代も愚かなものですから、逆にリンカーンは正当な戦争にケチを付ける非愛国者だと非難されることになります。

 現代の戦争においても、アメリカのベトナム戦争、イラク戦争など、いずれも事実が曖昧のまま、あるいは隠されたまま、戦争に突入しています。そして戦争に限らず、さまざまな政治の場面でも為政者が「事実」をごまかし、あるいはねじまげて「議論」し、「大義」や「正論」をかざして反対論をおさえ、多数で物事を決めている・・・だれも歴史に学ぼうとなしない、リンカーンの良心など、どこ吹く風と忘れられているのがアメリカの現実なのです。


(Klingsol)



参考文献

 とくにありません。