086 「キートンの大列車追跡」 "The General" (1926年 米) クライド・ブルックマン、バスター・キートン




 「キートンの大列車追跡」"The General"(1926年 米)です。邦題は「キートン将軍」、あるいは「キートンの大列車強盗」とされていることもあります。



 南北戦争中に起こった事件を元にした小説を映画化したもので、クライド・ブルックマンとバスター・キートンの共同監督作品。公開当初はあまり高い評価を得られず、興行的にもほとんど失敗作とされたのですが、次第に評価が上がってきて、オーソン・ウェルズは「史上最高のコメディ、史上最高の南北戦争映画、そしておそらく史上最高の映画」と讃え、1960年代には世界40か国の批評家のアンケートで「映画史上のコメディ・ベスト10」の第2位に選出されています。

 あらすじは―

 時は1861年。ウェスタン&アトランティック鉄道に勤務する機関士、ジョニー・グレイが愛するものは自分が運転する蒸気機関車「将軍号」と、彼のガールフレンドであるアナベル・リー。彼がアナベルの家に行くと、南北戦争開戦のニュースが。アナベルの兄と父が直ちに軍への入隊を志願したため、ジョニーもアナベルの手前志願するのですが、受付は機関士として貢献してもらった方が良いとの判断でジョニーの入隊を拒否。ジョニーは理由を告げられなかったため、事情を知らないアナベルの兄と父から呆れられ、アナベルからも交際を拒絶されてしまいます。



 1年後、チャタヌーガのすぐ北に陣を張っていた北軍のサッチャー将軍とアンダーソン大尉が南部に潜入して、ビッグシャンティで列車を奪い北進、途中で橋を破壊して南軍の補給を経ちながら帰還する計画を立てます。作戦実行の日、ジョニーはアナベルの乗った「将軍号」を運転してビッグシャンティで停車していたところ、「将軍号」が北軍兵たちに奪われ、乗り合わせていたアナベルも拉致されてしまいます。ジョニーは、アナベルが拉致されたとは知らないまま「将軍号」を追跡。ビッグシャンティからの緊急連絡の電信は北軍兵に断線されて通信不能になるも、途中のキングストンでジョニーは駐屯中の南軍に通報。南軍の兵たちを乗せた列車を運転して追跡を続けようとするのですが、機関車が兵たちを載せた車両と連結されておらず、兵たちは置き去りに。それと気付かぬジョニーは一路「将軍号」を追い、「将軍号」に乗る北軍兵たちとの攻防となります・・・。



 いやあ、これも大スペクタクルなんですよね。オレゴン州の州兵と地元住民がエキストラとして動員されているんですが、一体何人くらいでしょうか。南軍と北軍の戦闘シーンに参加したオレゴン州の州兵は500人ほどだそうなんですが・・・。



 この原作となった小説がモデルとした事件は、南北戦争当時にじっさいに起きた北軍列車強奪事件です。小説は北軍視点で書かれているのですが、キートンと脚本家たちはあえて機関車を奪われた南軍の機関士の視点で描き、その史実に脚色を施しています。



 あらすじから、蒸気機関車2台の追いつ追われつのチェイスを想像するかもしれませんが、キートンにしては派手なスタントアクションは抑制気味。観ていると、なんだかひとりで舞台の中心となるよりも、機関車とエキストラたちにも見せ場を譲っているかのようです。ヒロインが単なる囚われのか弱き乙女ではなくて、キートンの相棒として奮闘するところがおもしろい。



 バスター・キートンBuster Keatonは1895年生まれ。両親とも舞台芸人で、キートンも1899年に、4歳にして親子による「キートン3人組」"The Three Keatons"の一員として初舞台に立ちました。なんでも「人間モップ」といって、父が彼の身体を逆さに持ち上げて振り回したり、彼をボールに見立てて夫婦で投げ合ったりする芸が受けたらしいのですが、泣くでもなく、すまして演じていたというのは有名な話。いまなら幼児虐待? いやいや、当時でも、幼児虐待の通報があって、役所が調査に来たこともありました。しかしこの子供は心身ともに健やかに育っていきます。この3人組はキートンが映画界に進出することになって解散しているのですが、キートンが父親の酒癖の悪さに嫌気がさして単独芸人を目指してニューヨークへ出て行ったとも言われています。


“キートン3人組”の寸劇。左の子供がキートン、中央が父ジョー、右が母マイラ(1901年)

 1917年にニューヨークへ渡り、映画初出演を果たします。作品は「ファッティとキートンのおかしな肉屋」"The Butcher Boy"。キートンは新人にして1度も撮り直し必要とせずに演じきったそうです。しばらくは端役出演が続きましたが、第一次世界大戦による徴兵から帰還して、以後いよいよキートンの時代になります。つまり、「笑わない」無表情をトレードマークにしての、身体を張ったアクション。その無表情ぶりは「偉大なる無表情」"The Great Stone Face"と呼ばれました。

 初単独監督作品は1920年。1923年までに18本の短編を撮影しています。その後1923年から1928年までは自らの撮影所で長編作品10本を制作。



 撮影時に汽車の上からレールに転落して首の骨を折ったにもかかわらず、気がつかずに撮影続行していたなどという驚くべきエピソードも。なんでも一年半後、偶然に骨折の痕が見つかった時にはもう完治していたとか。本人は「頭痛が続くなあ」としか思っていなかったんですと。

 1928年には大手映画製作会社MGMと契約。しかしこれはキートンにとっては失敗だったようで、移籍後は主演作品でも脚本を書くことも監督を務めることも激減したため、その主演映画は単なる間抜けな主人公によるコメディ作品になってしまった・・・。しかもMGMの分業方式、スター・プレイヤー中心主義で、これまで共にやって来たメンバーたちとも疎遠になってしまいました。これはそのメンバーたちが腕を買われて方々で引っ張りだこになっていたため。

 おまけにトーキー映画の台頭。キートンのハスキーボイスは不利と見なされていたようです・・・が、初トーキー作品「キートンのエキストラ」(1930)は、興行的に大成功しているんですよね。ここでは幼い頃からヴォードヴィルで鍛え上げられた、ダンスと歌声を披露しており、たしかに美声ではないかもしれませんが、悪くないどころかなかなか上手いんですよ。下手な俳優よりも、いい。

 このころからキートンは酒に溺れるようになってしまい、離婚、そして破産。既にハリウッドの一線から退いたと見なされるように。しまいには新聞に「キートン氏発狂」などと書かれる始末。じつはこれ、当時我が国でも報道されているんですよね。当時の映画評論にはこの記事を鵜呑みにして書かれたものがあります。

 その後、1950年代に入ると、TVショーの出演やヨーロッパでの舞台に出演。映画ではなんといっても1952年の「ライムライト」におけるチャップリンと初共演が有名ですね。この頃から、あらためて過去の黄金時代のキートンへの再評価がはじまっています。しかし、離婚の際に映画の所有権を奪われてしまい、再上映されても彼の収入にはならず、それどころかリバイバル上映の計画を阻止されてしまうことも。


「ライムライト」 "Limelight" (1952年 米)

 その後ヴェネツィア映画祭でキートンの特集上映が組まれたときのこと、会場に姿を現したキートンは並み居る批評家やジャーナリスト、映画人たちからスタンディング・オベーションで迎えられ、以後は続々と仕事が舞い込んできました。世界中の新聞・雑誌が彼の業績を讃え・・・しかしキートンは「そりゃ光栄だがね」「何もかも三十年遅すぎた」と語っています。

 やはりその芸風は「笑わない」「偉大なる無表情」を一切崩さずに行う、体を張ったアクションとギャグが最大の特徴です。それは悲喜劇ではなくて、あくまで喜劇。ハロルド・ロイドのような一途で純情な努力とか、チャップリンのようなほろ苦い悲しさ・寂しさといった要素はありません。あくまでスラップスティック・コメディ。多少のロマンス要素が加味されていても、それは脇の話。強いて言えば、その間の抜けた主人公が、無垢な善人であること。結末はたいていハッピーエンドですから、なんとも後味がいいんですね。観ている観客に余計な考察をさせることをあえて拒否しているかのような、あくまでも気持ちのいい喜劇です。

 個人的には、チャップリンやハロルド・ロイドの映画はたまに観たくなるものなんですが、キートンの映画なら日常的に見続けていてもいいかな、と思えます。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会