109 「デッドタウン・ゾンビ」 "Collapse" (2010年 米) ジェイソン・ボリンジャー、マイク・ソーンダーズ




 ゾンビ=生ける屍そのものについては、前回のHoffmann君のお話を参考にしていただくこととして、一流どころからB級、C級、Z級に至るまで、星の数ほどもゾンビ映画が制作されたのはなぜか。もちろん、それなりに集客が見込めるからなんですが、なぜ集客が見込めるのか。言い換えれば、人はゾンビ映画になにを見ているのか。ここでは、ゾンビの起源であるハイチのそれではなく、ロメロのゾンビ、そのアイデアとなった「地球最後の男」以降、現代にまで描き続けられている、現代風ゾンビに焦点を絞って考えてみたいと思います。

 いったい、ゾンビはなにを象徴しているのか、なんのメタファーであるのか、思いつくまま挙げてみると、まず人間の分身です。人間と区別がつかないほど人間的。当たり前ですね、もとはと言えば人間なんですから。見ようによっては抑圧された人間ともとれるし、いっさいの抑圧を振り払ってしまった存在ともとれます。生の衝動、あるいは欲動そのもの。本能だけがむき出しにされている。身体制御というものを持っていない、究極のタブーである死の形象化。生者を襲うのは、本来生者が抑圧しているものが形象化して回帰してきたということ。生者は否応なくこれに向き合わなければならなくなる。

 その目的もなくさまよう様子、心とか精神を持たない夢遊病者のような無気力状態。それでいて、生きた人間と対面するとその生者を貪り食おうとする。ゾンビが見せる意志はこれだけです。カニバリズム。古くはユダヤ教徒がキリスト教徒が人肉を食っていると中傷し、逆にキリスト教徒はユダヤ教徒が人肉を食っているとやり返した、この世でもっとも醜く、許されざる悪徳(タブー)というわけです。ゾンビはこれだけをあたかも宿命であるかのように、目的としている。つまり、人間が人間でなくなる一線を踏み越えた存在。

 付け加えておかなければならないことが2点あります。

 ひとつは、ゾンビは人間を捕食しますが、ゾンビ同士で捕食はしないこと。だからこれは種族間、異種間の闘い、紛争や戦争に発展しうるということです。「地球最後の男」なんて、早々とそうした展開を見せいている例です。

 もうひとつは伝染性。ゾンビに咬まれた人間もまたゾンビになるということ。だからロメロの映画だと、第一作の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では世界はまだ荒廃していないのですが、第二作「ゾンビ」、第三作「死霊のえじき」と、作を追うごとにゾンビという種が蔓延していって、地球全体を埋め尽くすまでになる。つまり、ゾンビには、世界を荒廃させる伝染病という性格が与えられているのです。

 そして指摘しなければならないことがもうひとつ、死後数秒から数時間のうちにその屍体は甦る・・・これはキリスト教の復活と共通する観念です。これはゾンビの復活が神の意志、つまり神罰であるという解釈も引き出してくることを可能にするものです。

 また、ハイチのゾンビと大きく異なるのは、主人=支配者を持たないということ。「地球最後の男」やロメロも四作目あたりになると、ゾンビも社会性を持ってしまってコミュニティなど作ってしまうんですが、それはまた別な話として、命令する者や導き手を持ってはいません。しかも動作は機敏とは言い難く、のろま(ゾンビ・ウォーク)で、生者が対抗しうる程度の強さ(弱さ)。攻撃も数が頼みの人海戦術。これはゾンビが特定の誰かではなくて、組織化されていない民衆のひとりひとり、西洋の個人主義という価値観に基づく存在であるということです。しかも、人間のあらゆる尊厳を失墜した存在。歴史や内的世界も持っていない。対話することは不可能。かつて生者であったはずの彼らは、身体のみならず、精神面でも腐食してしまっているのです。

 思考能力、情動能力を失った人間といえばドラッグや交通事故などによる外傷性の脳損傷を負った例が思いつくかもしれませんが、じつはこれこそがメタファーで、つまり心的外傷を負った人間とゾンビは等価なんです。たとえば戦場でトラウマを負った帰還兵。ひょっとしたら、ハードな仕事で疲労しきっているサラリーマンもこれに近いかも知れない・・・という意味を含んでいる。外的世界に対して無感覚になってしまうというのは、外的な刺激に反応しないということ、遮断。つまり自らを刺激から保護している状態です。擬似的な死。これは、ゾンビが擬人化された死であることを示しているわけです。

 さて、そのような象徴とかメタファーを別にして、商業映画としてのゾンビの利点・効果を考えてみると、なによりもまずゴア描写が思う存分できるということがあります。つまり、生ける屍、すなわち屍体なんですから、合法的に、遠慮なく損壊できる。カニバリズムだって、ゾンビは人間の姿をしているけれど、生きた人間ではない、屍体であって人間ではなくなったものだからあまり抵抗なく、制作側は見せることができるし、観る側も観ていられる。そこがきわどいところで、観る者の好奇心を満たしてくれる。ゾンビ退治のシーンなんて、もしかしたらストレス解消になるかも知れない。さらに世界の終末、廃墟趣味も満たすことができる。そして一番重要なのが、死の欲動のimageとともに死の否認のimageをもフィクションで味わうことができるということ。ここまで挙げたことを全部ひっくるめて言うと、良風美俗の社会生活を営んでいる我々も、ここではいっさいのタブーを排除することができるということです。

 この死の欲動と死の否認というのは、じつは吸血鬼ドラキュラものや、フランケンシュタインものにも、それは文学的暗喩として表現されていました。だから「地球最後の男」で、伝染病で死んだ人間が吸血鬼となっているのも筋が通っているのです。しかし、ロメロ以後のゾンビ映画はそれを文学的にではなく、映像で直截的に表現してしまったという点が新しい。もちろんスプラッター映画とかゴア描写には、グラン=ギニョルにその源流が認められるわけですが、それでいて、ちゃんと「感染」という、吸血鬼でいえば血の交換によって被害者も吸血鬼化する・不死性を獲得するという要素が受け継がれているのです。

 ロメロの第四作以降に限らず、いろいろなゾンビ映画を観ていると、ゾンビ的なモンスターが登場するだけのものは別として、比較的多いのは、ゾンビと人間の攻防のみならず、それ以上に極限状況における人間のエゴ、それによる人間同士の諍いを描いているもの。これは伝統的なゾンビ映画。加えて、比較的新しめのものでは、コメディタッチの変格ものやパロディがあります。こちらは作品によってはゾンビ映画の行き詰まりかと思うんですが、なかにはメタ視点で描くという、これまた近頃流行の手法をあてはめたものもあります。これはゾンビに再び人間のimageを重ねてしまっているところがあって、私もどう評価すべきなのか、迷うところです。もはや死と生が、現代人の、少なくとも意識の上では、はっきりと区別できるようなものではなくなってきた、ということなのかも知れません。



 長い前説になってしまいましたが、本日取り上げるのは「デッドタウン・ゾンビ」"Collapse"(2010年 米)です。あまり話題にもならなかった映画ですが、数多あるゾンビ映画の中で、ひとひねりしてあり、そのひねり具合がなかなかユニークな佳作です。原題の"Collapse"というのは、「崩壊する」という意味ですね。以下、いまさらですが、例によってネタバレ全開モードなので、未見の方はご注意願います。

 storyは―

 農夫ロバートの住む町に、突如ゾンビが現れる。息子がゾンビに噛まれてしまったロバートは治療薬を入手するため、妻子を残してゾンビが徘徊する町の中心部へと向かう・・・。

 じつはこのロバート・モーガン、半年前に娘を失くしたショックで精神的に不安定。妻のモリーも病院通院中。息子のウィルも辛い日々を過ごしていたのですね。

 ある日、農場の手伝いをしていたウィルがゾンビに襲われてしまう。ゾンビに噛まれた血まみれのウィルを連れて家に戻ったロバートは、妻と3人、家に立てこもることになります。ところがウィルの容態が悪化し、ロバートは治療薬を求めて町まで行くことに。

 町はゾンビであふれており、ロバートはゾンビをかわし、殺しながら、物資を集めます。ある店に入ったところ、生き残りの若い娘を見つけ、彼女を助けて逃げることにするのですが、彼女の腕にはゾンビに咬まれた傷があって、やむを得ずロバートはこの娘も殺してしまう。車の無線でモリーの主治医である町医者のマクファーランド医師に息子の状態を伝えて助けを求めます。通信が終わって、医師はふたりの会話を聞いていた保安官に、「彼は娘が死んでからずっと苦しんでいたんだ」・・・。



 ここでネタバレしてしまうと、すべては精神的に病んでいるロバートの幻覚。ゾンビなんかいやしない。ロバートは商店や銀行にやって来て、銃を乱射して居合わせた人たちを殺害していただけ。

 自宅に戻ると息子ウィルは亡くなっている。そこにロバートを追って警察がやってくるのですが、このパトカーや警官隊も、ロバートにはゾンビの大群と見える・・・。



 娘を亡くして精神的に不安定になっており、精神安定剤を処方されていた(が、服用していなかった?)、という設定でしょうか。派手なアクションがないのはわりあい真面目に、シリアスに作ったのかなと思います。終盤の、主人公ロバート視点と現実が交錯するネタバレ映像はいいですね。ただし、細部に関してはあまり綿密に練り込まれていない印象もあります。町の人たちの背景はまったく描かれていないし、なにより、storyに起伏が乏しく、あまり見せ場がないんですね。ラストの展開までに飽きてしまいそう。せっかくのどんでん返し的な展開を、もっと効果的に見せることもできたんじゃないかなと思います。




(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。