108 「地球最後の男」 "The Last Man on Earth" (1964年 伊・米) シドニー・サルコウ、ウバルド・ラゴーナ ゾンビ映画といえば、以前、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」"Night of the Living Dead"(1968年 米)を取り上げましたね。 ロメロが残したシリーズは次の6作― 「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」 "Night of the Living Dead" (1968年 米) 「ゾンビ」 "Dawn of the Dead" (1978年 米・伊) 「死霊のえじき」 "Day of the Dead" (1985年 米) 「ランド・オブ・ザ・デッド」 "Land of the Dead" (2005年 米) 「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」 "Diary of the Dead" (2007年 米) 「サバイバル・オブ・ザ・デッド」 "Survival of the Dead" (2009年 米) さらに、2017年に死去する前に残した原案に基づく、新たなゾンビ映画「死者の黄昏」"Twilight of the Dead" が、ロメロ未亡人であるスザンヌ・ロメロによって企画されていたところ、ようやく2023年末にプエルトリコで製作をスタートする予定だというニュースも入ってきていましたが、どうなっているのかな。 以前、取り上げたときのコメントを引用しておきます。 私は上記の6作は全部観ているのですが、個人的にはこの第一作だけが突出していいかなと思っています。ここでは「生ける死者」が、「正常な」登場人物たちに対して、ひたすら理不尽な恐怖の対象であることに徹しているのが好ましいんですね。その後の映画では「生ける死者」が「ゾンビ」という名のsupernaturalな存在となって、特定の個人よりも、社会にとっての脅威―恐怖となってしまう。社会性が強まってくると、第一作で匂わせていたものがことさらに声高に主張されるようになる。それでも第二作、第三作あたりは「人間って愚かだなあ」と思って観ていられるんですが、「ランド・オブ・ザ・デッド」あたりになると安っぽい社会派映画と成り下がっているとしか感じられない。もっとも、おそらくそのあたりがかえって評価されているのだろうと思いますが、制作順に観ていくと、なんだかギリシア悲劇でアイスキュロスやソポクレスが本質的・根源的な人間像を描いたのに、エウリピデスに至って社会における人間像となってしまったのと同様なツマラナサを感じるんですよ。ロメロなら、断然この第一作ですね。 ・・・というわけで、詳しくはこちらのページをどうぞ― そもそもゾンビというのはハイチのヴードゥー教の伝承で、神官が犯罪者等の死体を呪術によって甦らせて、生前の罪を償わせるために奴隷として使役したもの。意思を持たず命ずるままに行動するし、疲れ知らずのうえ食料を必要としない生ける屍。ただし魔術的な浄化作用のある塩を口にすると動かなくなってしまう。塩ムスビは食べられませんね。 塩ムスビはともかく、ハイチのゾンビも民俗学的に考えて面白いところなんですが、今回は映画の話なので省略します。ひとつだけ、ゾンビ=薬物中毒者説があることだけ指摘しておきましょう。 さて、ユニヴァーサルによる世界初のゾンビ映画「恐怖城」(再公開及びビデオ邦題は「ホワイト・ゾンビ」)"White Zombie"(1932年 米)はベラ・ルゴシ主演で、批評家からは無視されたものの、予想を上回るヒット作に。それで各社も追随したわけですが、もちろんその多くはハイチを舞台にして、あるいはヴードゥーの呪術師を登場させたもの。ところがある程度のブームにはなっても、ゾンビそのものが人気を得るには至らなかった。そこはやっぱりドラキュラやフランケンシュタイン(のモンスター)にくらべるとカリスマ性が足りない。悪人の奴隷役ですからね。 そうこうするうちにゾンビはハイチやヴードゥー教を離れてひとり歩きしはじめた。カンボジアを舞台にしてカンボジアの呪術師が登場する映画もあるし、宇宙人が人間をゾンビ化して操るSFタッチのものも制作される。エドワード・D・ウッド・Jrの「プラン9・フロム・アウター・スペース」 "Plan 9 from Outer Space" (1959年 米)も宇宙人が死体を甦らせるという設定ですから、そのひとつと言っていいでしょう。 リチャード・マシスン原作でヴィンセント・プライス主演の「地球最後の男」"The last Man on the Earth"(1964年 伊・米)になると、ただSFジャンルに登場したゾンビというだけではなく、ゾンビの「感染」と終末的世界観という点でエポックメイキングな名作です。いうまでもなく、ロメロの第一作に与えた影響も計り知れない。個人的には「地球最後の男」と「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」が時代を画した作品であって、ゾンビ映画はこれ以前とこれ以後に分けられるのではないかというくらい。 さて、「地球最後の男」"The Last Man on Earth"(1964年 伊・米)シドニー・サルコウ、ウバルド・ラゴーナは、アメリカの作家リチャード・マシスンによる1954年の長篇デビュー作を原作とする映画。この原作はこれまでに3回映画化されており、このヴィンセント・プライス主演版を皮切りに、チャールトン・ヘストン主演の「地球最後の男オメガマン」"The Omega Man"(1971年 米)、ウィル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」"I Am Legend"(2007年 米)がありますが、映画としての格調高さでは圧倒的にこの第一作です。 あらすじは― 1968年、人類を死に追いやった後に吸血鬼として甦らせる疫病が世界中に蔓延。免疫を持っていたためにただひとり生き残ったロバート・ネヴィルは、夜な夜な自分の家の周囲に集まり、騒ぎ立てる吸血鬼たちと孤独に苦しんでいる。吸血鬼たちはニンニクと日光を嫌い、昼間は眠っているので、日中、探し出して杭を打ち込みながら、生活必需品を確保して、吸血鬼退治の方法を研究し続けている。 そんなある日、ロバートは生存者である女性を発見する。そのルースと名乗る女は、感染しているが薬で症状を制御できている新人類のコミュニティのひとりで自分がスパイであり、ロバートが日々殺しているのは吸血鬼ではなく自分の仲間なのだと言う。 ルースが寝ている間に、ロバートは自分の血液をルースに輸血する。すると瞬く間にルースは完治し、ふたりはほかの新人類も治すことが出来ると喜ぶが、新人類がロバートを殺しにやって来る。ルースはロバートにここから逃げるように言う。新人類がロバートの家に集まってきていた吸血鬼を相手にしている隙に、逃げるが抵抗も虚しく、教会に追いつめられる。彼ら新人類にとっては、ロバートこそが、彼らが寝静まった日中に街を徘徊し、彼らを殺戮する伝説の怪物"Legend"であることに気づく・・・。 予算を抑えるため、撮影はイタリアで行われ、主なキャスト・スタッフもイタリア人が雇われたという低予算映画です。しかしヴィンセント・プライスの演技は、原作者のマシスンは気に入らなかったらしいのですが、ちょっと俗っぽいimageはあるものの、孤独に苛まれる痛切な表情などはなかなかの見物です。図らずも、善悪のいずれにも与することのない立場に立たされている主人公には、これ以上のキャスティングは考えられないのではないでしょうか。 原作からして、先に述べたとおり、ゾンビや吸血鬼文学の近代化に影響を与えた作品ですが、映画の方も、その世界終末観と、ゾンビという病態を吸血鬼(的なもの)に擬することによって、そこに「感染」という要素を付加したという点で、新しく、画期的。 もう一点、声を大にして指摘して起きたのが、全世界の人間が吸血鬼と化し、ただ一人の人間となった主人公に襲い掛かってくるというシチュエーションでありがなら、じつは主人公こそがminorityであって「加害者」であったという展開と結末。近頃ナチス・ドイツ関連の文献を読んでいて、つくづく思ったのが、被害者と加害者という二元論がそもそも間違っているのではないかということです。ナチス・ドイツというある意味特異な社会においてだって、人間は被害者であると同時に加害者でもある、あり得る、ということです。これはナチスのことではなくて、たとえばナチ占領下のパリ市民のこと。連合国が勝利してパリが解放されたときだって同じです。 時代は現代。現代に怪物が出現する。生き残った人間が、一軒家に立て籠もる、夜な夜な死者が集まってくる。病理学的、科学的な説明がある、もしくは背後にあるように感じさせられる。被害者と加害者の二元論は、最後に明かされる価値観の逆転によって粉砕される・・・これらのすべてが、ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」に受け継がれています。 ただし、大きな違いを指摘しておくと、「地球最後の男」には怪奇映画の大スター、ヴィンセント・プライスが出演していて、被害者であり、加害者でもある役を演じていること。一方、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」は大スター不在、というのは予算的な理由もあったかも知れませんが、結果的に数で勝負。すると、人(々)が犠牲者にも襲う側にもなり得るというテーマが、よりクローズアップされることになるわけです。もう、ひとりの男の問題ではない。そう考えると、ゾンビ映画の社会性なんて、じつはこのロメロの第一作からはじまっていたのかも知れません。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 |