124 「ナチ占領下のパリ」 長谷川公昭 草思社 1940年6月のナチスの無血入城から、1994年8月の連合軍による解放までの4年間、パリでなにが起きていたのか・・・厳しい統制下で多くの市民はドイツ軍に対して何を感じていたか、もちろんナチスにおもねって私腹を肥やす者もいれば、レジスタンスとして命を賭して抵抗する者もいたわけですが、大部分のフランス国民、おそらく99%は、ドイツに不快感や嫌悪感を覚えつつも、素知らぬ顔をして関りを避けていた。そして0.5%は果敢にレジスタンスに参加し、残りの0.5%は積極的にドイツに協力した・・・。 いまさら言うまでもないことながら、ナチス支配下のパリではレジスタンスがさかんに活動していたなんていうのは戦後に作られた神話で、大半のパリ市民は無視することも含めて、ナチスに迎合していたわけです。 世論? ドイツが優勢の時はドイツ寄り、不利になると連合国寄りになったんですよ、もちろん。 権力闘争、派閥抗争。これはドイツもフランスも同じ。ドイツはドイツで内部では主導権争い。そもそもヒトラーが性器・・・じゃなくて、正規軍たる国防軍に信を置いていなかったのはよく知られた話。フランス国内のレジスタンスにしても、自由フランス、共産党系で足並みが揃わず。 とはいえパリだ。独仏間に休戦協定が調印された日の翌日6月23日には、早くもヒトラーがやって来た。ゲッベルスも作戦上の必要という名目で、ヒムラーも、ローゼンンベルクも、地方のナチ党幹部や地方都市の市長までもが、部下を引き連れてパリにやって来た。ドイツ海軍潜水艦司令部までもが、どう考えても不便なパリに置かれた。みんなパリを一目見たかったんだね。おかげで高級服飾店や宝石店では、ドイツ高官の夫人たちが上得意になった。パリ市民は500万人中300万人が脱出していたので、パリは経済的にも潤ったんですよ。もちろん、ドイツは一方的な為替レートを押し付けて、さらにフランス政府に占領費まで支払わせていたので、ドイツ人が落としていく金はもともとはフランス国民の税金だったわけですが。 中央と右は参考画像。どこかの国の自民党女性局長の、「研修」という名目の「観光旅行」の一コマです。ナーニ、ナチス高官だって、口実を設けて観光に来ていたんですから、それと同じことしてるだけでショ。自らこんな写真をワールドワイドに公開するあたり、頭ン中がお花畑、莫迦っぽいと思いますか? だって、国民の税金でいい生活がしたくてこの世界に入ったんですから。「観光旅行」ですから。費用は増税でまかなえばいいんです。他人の金で行くフランス旅行はサイコー。下々の者ども(国民)からなにを言われたって、痛くもかゆくもありませんから。気分はナチス高官♪ ついでに外国人男性との不倫のなにが悪いんですか。それで歌舞伎町のラブホテルチェックアウト2時間後、予算委員会の審議中に居眠りしたからなんだと言うんですか。秘書給与搾取して(上納させてネコババ?)なにが悪いんですか。アタシは上級国民、上級国民はなにしたって逮捕はされないんだよん・・・と、これはいちばん右の人のコト。 ちなみに、「新明解国語事典」(三省堂)で「選良」ということばを引いてみると、次のように書いてあります― [選出された、りっぱな人の意]「代議士」の異称。[理想像を述べたもので、現実は異なる] プロパガンダのうまいナチスのことですから、ここに至るまでの「演出」も周到でした。 1940年6月14日、ドイツ軍のパリ無血入城、規律正しく、整然と秩序ある行進。尾羽打ち枯らしたフランス軍人とはえらい違いだ。パリに定着してからも、市民に対する礼儀正しく、丁重な振る舞い。商店では略奪どころか、値切ることさえしない買い物、金離れの良さ。いやあ、「お土産」にずいぶん買い物したみたいですよ。なにしろ、ドイツ兵に扮したイギリスのスパイが見破られたのは、買い物した荷物を持っていなかったからだと言われるくらいなんですから。商店は売り上げアップ、おかげで「疎開」していた市民もパリにちらほら戻ってきたほど・・・フランス政府はというと、ドイツ軍のパリ接近近しと見るや、市民を置き去りにして、6月11日までには夜逃げ同然にパリを脱出して、トゥール、ボルドーへ拠点を移していたのだから、市民が頼りにできると思う方が無理筋。もちろん、ドイツ軍のそれは作為的な低姿勢。いずれにしろ、フランスから搾取できるものはすべて搾取する腹づもり、そのためにせいぜいフランス国民を手なずけておこうという魂胆だったわけです。それが私有財産没収あたりからわかってきたとは思うんですが、それがこうしてはっきりと言えるのも、ナチスの敗北に終わった戦後だからこそ。 なぜいまだから言えるのか。ヴィシー政府だってユダヤ人迫害政策を次々と打ち出していたからなんですよ。ユダヤ人が公衆と接触する職業に就くことを禁止して、ユダヤ人の銀行預金は凍結、電話、自転車、ラジオの所有も禁止。これはドイツ側からせっつかれたという事情もあるにはせよ、フランスを敗戦に導いた第三共和制の政府や経済界を牛耳って腐敗させたのがユダヤ人であるという認識を持っていたから。ドイツはドイツで貧民街を波状的に襲って、ユダヤ人労働者を収容所送りに。それがフランス国籍を持つユダヤ人にまで及ぶようになったのが1941年の12月。ちなみにヒトラーが「ユダヤ問題の最終的解決」、つまり絶滅の方針を固めるのは1942年の1月です。 1942年の春から夏にかけて、ヴィシー政府がユダヤ人に加えた規制は、午後8時以降の外出禁止、映画館その他の娯楽施設の立入禁止、買い物は午後3時から4時までの間以外は禁止、メトロは最後部の車両以外に乗るのは禁止・・・って、幼稚極まりない、ただの嫌がらせ。 おかげで息子がユダヤ人女性と恋仲であることを知った父親が、一家の不名誉と息子に結婚を断念するよう説得、この話を耳にしたゲシュタポが、当のユダヤ娘を収容所に監禁せよと命令してきたなんていう話もあるほど。ちなみに、この青年は結婚を断念すれば、彼女も釈放されると信じて結婚の約束を反故にしたのですが、結局このユダヤ人の娘は強制収容所で若い命を散らしています。 なお、ヴィシー政府といえばナチスの傀儡政権であり、ペタン、とりわけラヴァルの対独協力ぶりはよく知られているところで、連合国側の勝利後、第四共和政はヴィシーからの継承を拒否、歴史的にも正統な政権であったとは見なされていません。ただし、ヴィシー政府の対独協力が擬態であったとする声もあり、また、国家と政府の名誉を失った引き換えに人命と物財を守ったとする見方もあります。ただし、第一次世界大戦の勝利に貢献したペタンに関しては、その名誉を回復する動きは極右勢力と結びついていることが問題となっているようで、また、ラヴァルに関しては、ペタンの支持者が、悪いことは全部ラヴァルの責任に帰しているようなところもあります。ヴィシー政権については、曲りなりにもフランスの政権を維持・継続させたという評価もあることを付け加えておきましょう。「あの場合はああするよりほかになかった」と言ったかどうかはわかりませんが、世のなかで何が起こっているのか全然知らなかった、なんて「言い訳」をして罪を逃れたり、名誉を回復したりしている連中がたくさんいるんですから、「あの時代の」対独協力者をことさらに悪しざまに罵るのも、どうなのかな、と思うんですよ。とくに「なにもしなかった」連中においておや。 占領下でナチスに消極的迎合をしていた一般市民の、パリ解放後の行動は、いかにもナチス的思考のあらわれであったと思います。その悪魔的な「笑い」がこうして写真に残されています。 ここから、ちょっと音楽の話。 ナチスがオーストリアを併合した1938年、アメリカのニューヨークではベニー・グッドマンのスウィング・ジャズが大当たり、それがパリにも入ってきて、大ヒット。 ところがパリがドイツ占領下におかれると、ドイツ軍兵士、パリ市民ともダンス・パーティは禁止。それでも1940年の年末ごろに、ベルギー生まれのジプシーで、天才的なギター奏者ジャンゴ・ラインハルトがジャズ・フェスティヴァルを開催して、パリはまたまたジャズ熱に。浮かれていたのは中産階級以上の子女。労働者階級は生活に追われて踊り狂って遊ぶ暇などありません。 1941年半ば頃になると、占領軍当局はドイツ軍人にはダンス・パーティを解禁、フランス人に対してはヴィシー政権に決定をゆだねた。ペタン元帥はクラシック好きでバレエ・リュスの大ファン、黒人の音楽なんぞもってのほか。ひとつには、パリ陥落の直前、アメリカに救援を求めたところ、すげなく断られた恨みもあったのかもしれません。 それでも、およそ1年後の1941年末には真珠湾攻撃をきっかけにアメリカが参戦に踏み切ったわけですよ。フランス政府と、フランスの一般市民の、対アメリカ感情、ジャズ受容に関しては、ただ単に流行りものというだけではない、複雑な感情があったのではないでしょうか。ロジェ・ヴァディムの映画「さよなら夏のリセ」は戦後の1953年の地方都市を舞台にして、主人公がジャズに夢中なのに父親が「黒人の音楽なんぞ」と言っていましたよね。ついでに言うと、登場人物のひとりは父親が対独協力で身を隠しているという設定でした。これも上記のような文脈から理解するべきことかもしれません。 音楽の話となると、バレエ・リュスの舞踏家セルジュ・リファールやピアニストのアルフレッド・コルトーの対独協力です。ま、これもいろいろ複雑なところではあるのですが、単純なのは指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンでしょう。カラヤンは占領下のパリでフランスの文化活動を監視・規制する機関であるドイツ協会に入りびたりで、自家用飛行機でベルリンとパリの間を始終往復。ナチ党入党も、1933年4月8日で、非常に早い時期であったことがわかっています。この「早い時期」というのは、半ば義務的に形ばかり入党したという時期ではなくて、自ら乳頭・・・じゃなくて、入党希望した時期であるということ。後年本人が必死になってもみ消そうとしたり、入党年を偽ったり、あるいは1942年に脱党したと言ってみたりしましたが、入党は1933年4月8日で脱党はしていない、これは確実です。カラヤンは、入党はしたがナチスについては何も知らず、関心もなかった、と言ってすませてしまった代表的な人物ですね。これはナチスに関与した者が戦後必ず口にした弁解です。あれだけ世事に長けた人物が、いくらなんでもそれはないよね。 Herbert von Karajan たとえば、フルトヴェングラーやアルフレッド・コルトーは自分の立場を利用してユダヤ人を庇護したり擁護したりした、とは自分でも言っているし、周囲にいた人たちからも証言されている。これは、「言い訳」だとしても、立証も反証も可能な「事実」ですよね。だから戦後の裁判で、文字どおり事実関係について「争って」いるわけです。じっさい、コルトーは戦争捕虜を解放させ、ユダヤ人芸術家やレジスタンス仲間を保護し、占領下で開催された演奏会の収益を戦争捕虜音楽家の救済を目的とした慈善団体などに寄付しています。そうした「事実」が、ちゃんと明らかになっている。しかし、カラヤンの「知らなかった」「関心がなかった」というのはあくまで当人の内面の問題。立証することもできないけれど、他人が反証を出して否定することも難しい、というか不可能。これは国会で証人喚問をされている現代の政治家や官僚と同じで「記憶にありません」と言っておけば、だれも「そんなはずはない」と反証すること、すなわち当人の記憶にあると立証することははできないわけです。このように、当人の「内面の問題」としてしまうのは、相手に反証させないための言い訳、弁解、謝罪の常套手段なんですよ。だからカラヤンが「世事に長けている」というのはこういうところ。それにくらべたら、フルトヴェングラーやコルトーは愚直。しかし、ある意味正々堂々と問題に向き合っていると言える。一方、カラヤンの場合は逃げている。そう考えると、苦しい立場に置かれていたペタン、ラヴァルのほうが、まだしもいくらか同情してやってもいいかなと思えてきます。 Alfred Denis Cortot なお、この時期ナチスに庇護されてパリにやってきたのはカラヤンだけではないので一応名前を挙げておくと、オイゲン・ヨッフム、ヴィルヘルム・ケンプ、ハンス・クナッパーツブッシュ、クレメンス・クラウス、ヴィレム・メンゲルベルクなどがいます。それに、パリではベートーヴェン、ワーグナー、R・シュトラウス、それにモーツアルトの音楽が大変な人気だったことも付け加えておきましょう。 なお、カルチェ・ラタンのカフェ「デュポン」が入口に「犬とユダヤ人、入るべからず」と書かれた貼り紙をしたことも付け加えておきたいですね。中国の北京で、「日本人と犬お断り」とか「日本人、フィリピン人、ベトナム人、犬は入店お断り」とした貼り紙をした飲食店がありますよね。あれ、ナチスや反ユダヤ主義と同じことをやっているんですよ。それを恥じないでいられる神経というのは、ナチスと同じなんです。たぶん、その人は自分がナチスだとは思っていないでしょう。ところが、これは以前も言ったことなんですが、「他者」を自分たちとは関係がない別な生き物と見なす態度、そういう安易な切り捨てによる思考停止こそが、まさしくナチスとまったく同じなんですよ。その意味では、「けやきの郷事件」の鳩山ニュータウンの自治会の会報で、自閉症患者を犬にたとえた投稿者なんかも、典型的なナチス的思考の持ち主です。 音楽も聴く ナチ占領下で行われた演奏会(ラジオ放送)が記録されたCDがあるので、ここで取り上げておきます。 ケルビーニ:「アナクレオン」序曲 ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 フランク:交響曲ニ短調 ポール・トルトゥリエ(チェロ) ヴィレム・メンゲルベルク指揮 パリ放送大管弦楽団 パリ、シャンゼリゼ劇場、1944年1月16日 MALIBRAN CDRG188 (2CD) ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 ショパン:ピアノ協奏曲第2番 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」 アルフレッド・コルトー(チェロ) ヴィレム・メンゲルベルク指揮 パリ放送大管弦楽団 パリ、シャンゼリゼ劇場、1944年1月20日 録音場所: 録音方式:モノラル(ライヴ) Malibran CDRG189 (2CD) フランスのヒストリカル・レーベル「マリブラン」から2009年に出た2枚組CD2タイトルです。すべてこれが初出。アセテート盤に記録されていたものらしいのですが、ノイズのほか、一部に音ゆれ、音とびがあるものの、なかなか鮮明な録音です。 ここに収録されたのは1944年1月の、聴衆ありの(おそらく)放送用録音と思われます。1944年1月といえば、1940年6月にドイツ軍がパリに入城してから3年半が経過した、ノルマンディー上陸作戦(6月6日)を5か月後に控え、パリ解放(8月25日)まであと7か月という時期。 メンゲルベルクは、この約1か月後の2月下旬にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を振って3曲の録音を残していますが、それが最後の録音であるため、これもまた晩年の貴重な記録ということになります。もちろん、コルトーとの共演もトルトゥリエとの共演も、おそらくこれが唯一と思われます。 なお、ドヴォルザークのチェロ協奏曲の録音は、かつてモーリス・ジャンドロンの独奏で同一日付という演奏として、国内盤 (KICC-2058) や英 ARCHIVE DOCUMENTS 盤で出ていたことがあるのですが、ブックレットによると、今回の録音とは演奏自体が異なっており、おそらくメンゲルベルクの指揮でもないのではないかとのこと。従って、この情報が正しければ、既出のディスコグラフィでは、この日付の演奏はすべてジャンドロンの独奏とされているのですが、これは誤りだということになります。 戦後、コルトーはヴィシー政権寄りだったとしてフランスでの演奏活動を禁止され、メンゲルベルクもゲッベルスの招きによりベルリンでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮していたことから、戦後の演奏活動を禁止され、禁止が解かれる直前の1951年にスイスで亡くなっています。トルトゥリエに関してはそのようなことはなく、戦後はコンセルヴァトワールに戻り、首席奏者になっています。なお、トルトゥリエは占領下のパリでは「ラジオ・オーケストラの仕事しかありませんでした」としか語っておらす、この演奏会についての言及は見当たりませんでしたが、尊敬する指揮者のひとりにメンゲルベルクの名前を挙げています。15歳の時に師であったジェラール・エッキング(エッカン)がコンセルトヘボウの首席奏者であったことから、間接的に影響を受けたと言っています。 メンゲルベルクの録音ならでは、楽章ごとに譜面台を指揮棒で叩く音が入っています。演奏については、メンゲルベルクの刻印は明らかで、テンポは揺れるし、ショパンなどはスコアに手を加えているようですが、手兵コンセルトヘボウを振ったときとはまた異なった、ポルタメントなどは抑えめな端正な指揮になっています。オーケストラの音色はたいへん明るい。とくにチャイコフスキーは、以前取り上げたコンセルトヘボウ盤ではメンゲルベルクの指示が徹底していたところ、ここではやや不徹底なのかもしれませんが、わずかにモダンな感覚に傾いて、これはこれで感動的ですね。コルトーは技術的な衰えは隠せずミスタッチも多いのですが、それでもテクニックを超えた香り立つようなロマンティスムがあります。白熱的なチェロはたしかにトルトゥリエのものと聴こえます。 CDの解説書から―。 なお、「音楽を聴く 93 オネゲル 劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』」でも、ナチ占領下における同曲の上演についてお話ししていますので、ご参考にどうぞ。(こちら) (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「ナチ占領下のパリ」 長谷川公昭 草思社 「抵抗と適応のポリトナリテ ナチス占領下のフランス音楽」 田崎直美 アルテスパブリッシング Diskussion Kundry:アルフレッド・コルトーは好きなピアニストです。 Hoffmann:もともと技巧派ではなくて、とくに晩年に至るとミスタッチが多くなるんだけど、技術を超えたものがあるよね。 Prsifal:戦後、フランスという国は、たとえばオーストリアなんかよりも、ナチスの占領下の自国の状況を冷静に理解していたところがありそうだね。 Klingsol:それでもコルトーの場合なんか、周囲の感情的なものがその後の処遇を支配していたところがある。決して法的制裁ではなくて、フランスの音楽家の反感が主導して戦後の音楽界から締め出されたんだよ。 Hoffmann:感情というものはしかたがないという面もあるけれど、周囲に引っ張られて同調した人もいただろうし・・・ただ、結局カラヤンみたいに上手く立ち回った人間が難を(最小限に)逃れていることには不公平感がある。 Klingsol:Hoffmann君が言うように、あくまで「知らなかった」で通したカラヤンは賢かったとも言えるね。メシアンだって、捕虜収容所で「世の終わりのための四重奏曲」を演奏したとき、捕虜と監視員が5千人集まったと公言しているけれど、このときの劇場の収容人数は500人未満で、いまでは初演時の聴衆は510人であったことが分かっている。それだけじゃない、帰還時期もじっさいより1年遅く語っている。こういう嘘はばれちゃう(笑)カラヤンの「知らぬ存ぜぬ」は、第三者には反証できないからね。(ズル)賢い。 Kundry:嘘や演出は付きものだと思いますが、自分の内面の問題にしてしまえば、自分自身が墓の中まで持っていけばいいことですからね。 Hoffmann:メシアンの場合、その音楽を評価したのは、フランスよりもむしろドイツだったという事情もありそうだ。 Parsifal:それはそれとして、ナチスドイツに限らず、占領下のパリにも、やっぱり集団的な狂気を感じるな。それが爆発したのが連合軍による解放時だ。それはフランス人も分かっているんだよ。 Hoffmann:「無視」だって迎合のひとつの形なんだから。被害者・加害者という二元論ではなくて、被害者でありつつ加害者でもあり得る、ということを理解していないとね。どこかにいつまでも被害者面している国があるけれど、あれは他国にゆすり・たかりを続けるための、戦略的な方便なんだよ。 |