113 「タルチュフ」 ”Tartueff” (1925年 独) F・W・ムルナウ




 F・Wムルナウの「タルチュフ」"Tartueff"(1925年 独)です。ご存知モリエールの喜劇が劇中劇ならぬ映画内映画で上演されるという内容の、戦前のドイツ映画界黄金時代のサイレント映画。



 老人の遺産を狙っている家政婦、しかし老人はそのたくらみに気づかず。唯一の血縁者である孫は俳優となったために勘当されているのですが、巡回映画興行者に扮して「タルチュフ」を上映、家政婦の悪事を暴くという枠物語ですね。その枠部分の家政婦役にローザ・ヴァレッティ、映画内映画のタルチュフ役にエミール・ヤニングス、夫オレゴン役にヴェルナー・クラウス、夫の目を覚まさせようと大胆な芝居を打つ妻エルミール役にリル・ダゴファーという、奇跡のような豪華キャストです。



 何気ないカットに深い意味を持たせているのも、現代では観ることのできないサイレント期ならではの、まさに映画的な要素ですね。



 storyや台詞に個性の光るムルナウですが、小道具の使い方もごらんのとおり―



 ダゴファーの、抑えめの表情と・・・



 ヤニングスの百面相的な表情の変化のコントラストがおもしろいですね。



 こうしたヤニングスのような演技は、トーキー時代になると「古い」だの「おおげさ」だのと言われるようになるんですが、それは俳優のアップ映像でその表情の細部が再現できるようになったことによる「写実主義」ですから、これだけ取りあげてどうこう言うのは見当違い・・・つまりこれは様式に従った古典劇として観るべきものなんですよ。

 正直なところ「タルチュフ」の、その寓意性やその劇的効果に関して、またそのあたりを論じることにも、さほど関心がありません。むしろモリエールの原作を単純化してすぐれた映画作品とすることがムルナウをはじめとする制作者の意図だったのではないかと思います。いや、宗教というものに対する皮肉くらいは意識していたかもしれませんが、そんなメッセージ性ばかりに意を払うのなら、「タルチュフ」が映画である必要もない。これはね、映画的驚異に満ちた傑作なんですよ。



 もっとも、それだけではあんまりなので、少しばかり付け加えておくと、この映画内映画はモリエールの戯曲をかなり大胆に変更しており、偽の聖職者タルチュフと、これに全幅の信頼を置いているオルゴン、その妻エルミールに焦点を当て、その他の周辺人物や出来事は大幅にカット。いつ、だれの身にも起こるかも知れない出来事として、時代と場所は特定されていません。室内劇映画としては正統派のようでいて、やはりサイレント映画らしい絵画的な様式感が際立っています。そこが、本来の室内劇とは異なるところ。それがスタジオ内のセットのみをバックに作られている。その意味では、「タルチュフ」は「最後の人」よりも表現主義的です。

 また、枠物語としたことで、「メタ」的な効果もあります。つまり枠の中、すなわち映画内映画を展開させる狂言回しの役を老人の孫が担っている。これによってタルチュフの物語はやや抹香臭い教訓的な寓話になってしまっていることも否定はできないんですが、しかし、ご注意いただきたい。この映画の中心人物は、だれの目にも明らかでしょう、エミール・ヤニングス演じるタルチュフにほかならないのです。あざむかれるオルゴンも悪者を看破するエルミールも、もはやたいして重要な役どころではありません。枠部分においても、重要なのはローザ・ヴァレッティ演じる家政婦ですよね。そう、悪人こそが魅力であることを、この時代の映画人たちは既に知っていたのですよ。だから、これは教訓劇などではないのです。

 じっさい、この映画は不評でした。にもかかわらず、エミール・ヤニングスの威信はいささかも損なわれなかった。俳優として堂々たる成果をあげていることはだれもが認めるところ。かれはエーリヒ・ポマーの事務所にやって来てこう言ったそうです。


「私はもう、こういう文学映画はたくさんですよ。私はひとつまた、本当の通俗映画がつくりたいんです!」


  次に制作されたのは「ヴァリエテ」"Variete"(1925年 独)でした。その延長線上に、「嘆きの天使」"Der Blaue Engel"(1930年 独)があるわけです。

 なお、紀伊國屋書店のC.E.(Critical Edition)版。特典映像にはこの復元に至る、各版の相違や当時検閲で手を入れられた箇所の解説が収録されています。これでこそ「特典」と呼べるだけの価値があるというものですね。




(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。