114 「怪談」 (1964年 東宝) 小林正樹 原作は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。ただし四篇のうち二篇「雪女」「耳無芳一の話」が「怪談」からとられたもので、「黒髪」は短篇集「影」の「和解」を、「茶碗の中」は短篇集「骨董」の「茶碗の中」が原作。1965年・第18回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しています。ま、外国人がいかにも日本に求めるものになっているということです。武満の音楽はジョルジュ・オーリックやヤニス・クセナキスなどに絶賛されました。 「黒髪」 小泉八雲は嫌いではないんですが、日本人としては、これが日本各地に伝わる伝説、幽霊話などの再話であるということが、まず念頭に浮かんでしまう。すると、再話にあたって独自の解釈も加えられており、その結果情緒豊かな文学作品となっていることも暗黙の了解事項なんですよ。つまりあくまで文学作品として価値あるものとして成立している。だから、それをそのまま映像化するということに、ちょっと疑義を挟みたい気もするんですね。 「雪女」 たとえば「耳無芳一の話」の場合、小泉八雲は江戸時代後期の天明2年(1782年)に刊行された一夕散人の怪談奇談集読本「臥遊奇談」(全5巻5冊)の第2巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」を典拠としている。雪女になるとその起源はもっと古くて、室町時代末期の連歌師・宗祇法師による「宗祇諸国物語」に雪女を見たという話があるので、室町時代には既に伝承があったんですよね。 「耳無芳一の話」 伝説の世界の話なんですから当たり前のことですが、再話の再話、そのまた再話・・・なんですよ。いや、伝承とはそうしたものであることは百も承知の上で言わせてもらうと、外国人には面白いかも知れませんが、我々日本人にとっては、とてもよく知っている話だから、あまり観ていてワクワクしないんです(笑)storyを「確認」しているような見方になってしまう。三國連太郎、新珠三千代、仲代達矢、岸惠子、中村賀津雄、中村翫右衛門といった錚々たる面々の渾身の演技も、なんだか予定調和に見えてしまう。これならそれぞれの説話の原点に戻ってみるか、いっそもっと大胆に脚色してもよかったかなと思います。 いやあ、勝手なことばかり言って申し訳ないんですが、もしも、私がこの映画を脚色するなら・・・という与太話を一席。たとえば第四篇の「茶椀の中」。一応あらすじを記しておくと― 天和3年(1683年)1月4日、中川佐渡守は家来と共に年始の挨拶をする道中、江戸は白山にある茶屋で一服つく。家来の関内が自分の茶を飲もうとしたとき、茶碗の水面に男の姿が映っていることに気付く。しかし背後にそのような男がいるわけでもなく、茶碗に描かれているわけでもない。気味悪がりつつも一気に飲み干す関内。 その夜、彼が夜番を務める部屋に、音も無く茶碗の幽霊とそっくりな式部平内という男が現れる。関内は平内と名乗るその幽霊を斬ろうとするが、幽霊は壁を通り抜けて消えてしまう。関内は仲間に報告するが、屋敷にそのような男が立ち入ったという話は無く、式部平内という名を知る者もいない。 次の夜、非番の関内は両親と出掛け、その先で3人の侍と出会う。3人は平内の家臣だと名乗り、平内を斬った関内に決闘を申し込もうとする。幽霊に憑き纏われることへの苛立ちと恐怖から関内はその3人に太刀を向けるが、3人は塀を飛び越え、そして・・・(と、ここで物語は唐突に終わる)。 「茶碗の中」 これ、原話は「新著聞集」の中の「茶店の水椀若年の面を現ず」で、短いながらも、幽霊が出てくる話でもなければ未完でもなくて、当時の衆道のもつれのひとつを語ったものなんですよ。こらは小泉八雲の手により脚色が加わって、平内やその家臣は人ならざる者となったうえ、話の結末を付けない形で放り出されている。 この映画では関内を中村翫右衛門、式部平内を仲谷昇が演じているんですが、これ、もとの話の余分な要素をそぎ落としていったら、その元型はわりあい典型的なドッペルゲンガーものではありますまいか。私なら、関内が茶椀のなかに見るのは関内そっくりの男の影にしますね。いっそ、関内が老いたか、あるいは若返ったかのような映像でもいい。そしてその夜にドッペルゲンガーが現れる・・・。 「雪女」 そんななかでよかったと思うのは「雪女」の空に見える目ですね。ベラ・ルゴシもクリストファー・リィも「大魔神」も目力が強かったじゃないですか。目というものは古来から外界からの刺激を受容する器官であると同時に、外に向けて力を放射することもできると考えられていました。もちろん、メスメリズムよりももっと前。ゴルゴンのひとりであるメドゥサは、にらんだ相手を石に変えてしまいますよね。あるいは「邪視」なんて、古くは古代アイルランドの英雄伝説にも出てきますよ。フリーメイソンのシンボルは「万物を見通す目」でしょ。これはキリスト教の三位一体のシンボルともよく似ている。ヒンドゥー教やチベット仏教ではしばしば「第三の目」が超自然的な眼力や啓示のしるしとされています。そう、空にあらわれるのはふたつの目じゃないんです、単眼なんですよ。これは神の全知や太陽、その残酷非情な面をあらわしており、時に人間以下のものの目であるとされています。神話の一つ目巨人なんて、無意識の形象なんですよ。参考までに、フランスの画家、オディロン・ルドンの「キュクロープス」と「眼=気球」をどうぞ―。 Odilon Redon "Le Cyclope"、"Œil-ballon" (Klingsol) 参考文献 とくにありません。 |