115 「ブレードランナー」 "Blade Runner" (1982年 米) リドリー・スコット




 2019年、酸性雨降りしきるロサンゼルス・・・と言えば映画「ブレードランナー」ですね。監督はリドリー・スコット、出演はハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングなど。フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作とするSF映画です。

 1982年の全米公開は制作費に比してはさほど振るわず、我が国でのロードショーも不入りで、多くの劇場で早々に上映が打ち切られてしまったところ、名画座での上映で徐々に人気が高まって、いわゆるカルト的な名作として評価が確立した作品です。当時のSF映画といえば明朗というか、健康的な作風が主流であり、陰鬱で退廃的な未来像が、明るいアクション映画を期待していた多くの観客には受け入れられなかったとされていますが、それだけに、入念に作り込まれたその世界観は「マニア好み」であったとは言えそうです。



 この映画にはかなりの数のヴァージョンがあるらしいのですが、今回私がHoffmannさんからお借りしたDVDは次の4つのヴァージョンです。

「ファイナル・カット 2007」
「オリジナル劇場版 1982」
「完全版 インターナショナル劇場版 1982」
「ディレクターズカット 最終版 1992」


 storyは―植民惑星から脱走した人造人間(レプリカント)の抹殺を依頼された“ブレードランナー”であるデッカードが、地球に潜入したレプリカントたちを追う・・・というものですが、あらすじの詳細や上記ヴァージョンの違いに関しては、web上で詳しい情報を参照することができますので、説明は最小限にとどめます。

 さて、やはりテーマは「フランケンシュタイン」ものでしょうか? もうひとつ、デッカード自身がじつはレプリカントであったと匂わせている箇所から、デッカード自身のidentityにかかわるテーマも重ねられているのでしょうか?

 どうも後者に関しては、制作側にもともとそのような意図があったわけではなくて、あるいは撮影中に思いついたアイデアのようでもあるので、ここではいったん無視したいと思います。それから、1982年の公開時には脱走・地球に潜入したレプリカントの人数(個体数)に関して、つじつまの合わない台詞があるとか、ヌードル(うどん)に載せた具材がなんなのか(笑)といったディテールにも、ここではこだわりません。



 私がひととおり観て、まず指摘しておきたいことは、1982年公開版ではデッカードの独白があること。これは観客にわかりやすくしておこうという意図で入れられたものと思いますが、これは不要なものですね。この世界観を観客側が理解しようと努めてくれるならば、まったくの蛇足です。そもそも台詞、それも主人公の独白で説明しなければ理解されないようでは映画として未完成です。しかし、この作品はその点ではよくできており、このような「説明」を必要とするものではありません。とくにエピローグの、レイチェルとの逃避行での独白は、sentimentalに過ぎると感じられるうえ、これによって、ここまでのstory展開が著しく陳腐なものに堕してしまいます。

 私が注目したのは、このレプリカント、すなわちフランケンシュタインもので言うところのクリーチャーに、フランケンシュタイン=父親がいない点です。つまり、レプリカントは工業製品であって、だれかひとりの人間によって造られたものではない。だからバッティがセバスティアンの手引きによってタイレルに会っても、タイレルはフランケンシュタイン=父親ではないのです。にもかかわらず、タイレルはここでバッティと「ルカによる福音書」の「放蕩息子の帰還」を演じる。謂わば聖書ごっこ。これはいかにも芝居じみた、とんでもない欺瞞なんですよ。

 ちなみに、脚本段階では、タイレルは死病に侵されたために冷凍睡眠に入っており、登場するのは本人の記憶を移植されたレプリカント、タイレルを殺害してこの事実に気づいたバッティは改めて本物のタイレルのところに案内するようセバスチャンに要求するのですが、冷凍睡眠に入っていたはずの彼は既に装置の故障によって死亡していた。そのためバッティは延命の望みが完全に絶たれたことに絶望する・・・というものだったそうです。

 これはむしろ映画の完成版で正解でしょう。この、悪意がないだけに冷酷非情極まりないタイレルの聖書ごっここそがバッティを絶望の底に突き落とし、レプリカントに(父)親がいないという事実を突きつけるのですから。



 もう一点、バッティの死の場面にも注目したいところです。このラストの独白シーンの台詞は、バッティ役のルトガー・ハウアーが台本では長すぎるとして、撮影時に提案したアドリブだそうです。結果的に脚本よりも短くして独自の台詞を加えているらしいのですが、これはこれで完成度が高いものだと思います。そして白い鳩が飛び立つ描写。これもハウアーのアイデアだったということなんですが・・・ルトガー・ハウアーがどこまで意識していたのか、死者のもとから飛び立つ鳥(鳩)なんて、これはもう言うまでもなく、魂の飛翔ですよね。いかがでしょうか? もう、おわかりいただけましたよね。鳩が飛び立つということは、レプリカントに魂が宿っていたということなんですよ。



 正直なところ、ここに至るまでのstory展開は、私にはやや退屈で、ところどころ間延びした印象も受けていたのですが、この場面ではちょっと感動してしまいました。ただ、このような意味や象徴を制作者側が意識していたのかどうかとなると、若干の疑問はあります。というのも、物語はあくまでデッカード側の視点で語られており、ルトガー・ハウアーの演技は抑制気味といえば聞こえはいいのですが、あまり掘り下げられているとも思えないのです。

 なので、以下は制作者側も意図していなかったのに、できあがった作品に図らずも込められてしまったテーマです。これを読み取ったのは、悪くいえば私の深読みということになるのかも知れません―

 レプリカントに魂が宿っていた、ということをあまり感傷的に受け取らないで下さい。人間とロボット(人造人間)の違いはどこにあるのか。ダニエル・C・デネットに言わせれば、人間だって、もちろん脳も含めて、ヘモグロビン、抗体、ニューロンといった分子よりも上のレベルで分析すれば、自動装置の集合体なのです。多くの人が信じているように、機械とは別に心の世界が確固として存在しているという心身二元論はそれほど確実な真理なのでしょうか。いまやロボット、AIはチューリング・テストという、被験者が人工知能か人間かを判断するテストをもクリアしてしまう(欺いてしまう)レベルに到達しています。心とか精神などというものは、人間の認知の問題に過ぎません。目に見えないものがあるのないのと、どうして証明できるのでしょうか。ですから、人工知能に心があるということ、またはないということ、いずれを主張したところで、仮説の次元にとどまることになるのです。ということは、どちらの主張にも質的な差異はありません。機械に心があるという主張も、人間の認知の問題だと思えば十分に成立しうるのです。

 認知の問題であるということについて補足しておくと、人間対人間の場合だって同じなんですよ。あなたがあなたの恋人をどのように認識していたとしても、それはあなたの幻想(認知の問題)に過ぎません。まさか、人間同士だから「わかりあえる」はずだなんて思っている人はいませんよね。人間関係というのは、この認知の幻想に従った、謂わば仮定の舞台上で演じられるお芝居なのです。

 この「ブレードランナー」において、デッカードの側は相も変わらずフランケンシュタインの物語を踏襲して、怪物を抹殺するべく追いかけ回している。かろうじて、レイチェルを抹殺しないことで救いを持たせているわけですが、その思考は、せいぜい近代合理主義や機械論に対する疑念に至るという、これまでに語り尽くされた、その程度のレベルです。一方のレプリカントの側は、もともと人間に「復讐」しようなんて考えていたわけではない。自らの生命がわずか4年間という有限のものであることを知って、この限界を突破しようとしている。自らの運命と闘っているだけ。これは、産み出された怪物が死の象徴であることを放棄して、限りなく人間に近づき、人間とレプリカントの間の深淵などには一顧だにしていない、そもそも意識してすらいないということではないでしょうか。

 なお、デッカードがレプリカントであったか否かという点に関しては、映画の中ではなにも語られておらず、わずかなほのめかしを赤目やユニコーンでポンと出しただけ。そこから広がる世界はなにも描かれていません。もちろんデッカードの内面も。この点に関しては、ハリソン・フォード演じるデッカードの人物造形は通り一遍の紋切り型で、深読みのしようがありません。



 映画が完成した形で評価されるものだと思えば、これはバッティを主人公とした、いまふうに言えば人工知能のidentityの物語だと思えるのです。それでも、まだまだ描ききれているとは思えませんが、あえて言えば、上記の父親不在という設定とタイレルとの聖書ごっこの末に描かれた、絶命と鳩が飛び立つシーンのこの一点に、重要なテーマが凝縮されていると見ることができるのではないでしょうか。


画像はすべて「ファイナル・カット 2007」から―。


(Kundry)



参考文献

 とくにありません。