125 「吸血鬼」 "Vampyr" (1932年 仏・独) カール・Th・ドライヤー 「吸血鬼」"Vampyr"(1932年仏・独)、監督はカール・テオドア・ドライヤー。 じっさいの制作年代以上に古色蒼然とぼやけたような映像からは、夢幻的なatmosphereが醸し出されています。ほとんどリアリティを放棄した、こうした白日夢のような映像の効果と相俟って、storyを追うよりもimage画像といった趣きがありますね。 脚本は、シェリダン・レ・ファニュの短篇小説「カーミラ」などがもとになっているとされていますが、素材とされたのは女性の吸血鬼が登場するという一点のみ。かなり自由に改変されている・・・というより、まったく別もの。あえてレ・ファニュを原作としたと言っているのは、F・W・ムルナウが「吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響曲」"Nosferatu - Eine Symphonie des Grauens"(1921年 独)で、ブラム・ストーカー未亡人から訴えられたため、ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が原作でないことを強調しておきたかったのではないでしょうか。 一応あらすじを説明しておくと― アラン・グレイというフランスの田舎町を旅する青年が一軒の宿屋に泊まる。横になっていると、夜中にカギが回って、ひとりのガウン姿の男が部屋に入ってくる。男は何か包みを置いていく。それには「私の死後に開封すること」と記されている。 アラン宿を抜け出し、一軒の邸宅にたどりつく。その家には娘が二人と女中や使用人、シスターがおり、長女が重い病気にかかっている。ガウンの男は死んで、アランが遺言どおりに包みを開くと、それは吸血鬼に関する本。そこにはアランがいまいる村の名前と、女の吸血鬼の名前が記されていた。娘は吸血鬼の犠牲者で、彼女のかかりつけの医者は吸血鬼の手下なのであろう。アランは下の娘が消えていることに気付いて、探しに出る。 ・・・さて、ここからが「あらすじ」説明の難しいところ。ここでたいがいの解説では、アランが「幽体離脱して・・・」とか「肉体から魂が抜けるという幻覚を見て・・・」、と説明されるんですよね。その解説を見た人がまた同じことを言う・・・でもね、映画内に「幽体離脱」だとか「肉体から魂が抜ける」などといった説明は一切ありません。ただ映像的には半透明のアランが下の娘を探しに行く場面が続くんです。いいですか、「幽体離脱」とか「魂が肉体から」というのは、観た人がそのように判断したということですからね。みなさんが観るときは、そんな解説は忘れて、映像を観て自分で判断して下さい。観ても「わからない」なら、「わからない」というのがアナタの解釈だということでいいんです。 ・・・というわけで、あとは映像で確認できることだけお話ししておくと、最後は古文書に記された方法で吸血鬼を滅ぼします。杭を打つとその屍体は白骨になる・・・吸血鬼を滅ぼしたことにより、娘は助かり、下の娘も救い出されます。医者と彼の手下は殺される。 もうわけわからん、という声が聞こえてきそうですね。 この映画ならではの特徴をいくつか挙げておくと、ドライヤーとしてははじめてのサウンド映画なんですが、初期のサウンド映画で、これほど登場人物がしゃべらない(しゃべることが少ない)映画もめずらしいでしょう。 また、サウンド映画の初期といえば、サイレント時代の伝統で、俳優の演技や表情は多少大げさなものですが、ここではいかにも演劇的な演技はほとんど見られません。それというのも、職業俳優は館の主人を演じたモーリス・シュッツとレオーヌ役のジビレ・シュミッツくらいで、あとはドライヤーが見つけてきた素人なんですね。ジャーナリストとか画家、写真家のモデルなど。 アラン・グレイ役を演じているジュリアン・ウェストについては註釈が必要です。じつはこのジュリアン・ウェストというのは、この映画の制作資金を提供したロシア系貴族のニコラ・ドゥ・グンツブルグ男爵の変名です。資金提供の条件が自らを主演とすることだったんですよ。さまざまな芸術家と親しく付き合う富豪の道楽というなかれ。この人の伯父はバレエ・リュスのディアギレフのパトロンで、ニコラの父もニジンスキーを経済的に支援、ニコラ自身もディアギレフ亡き後、バレエ・リュス・ドゥ・モンテ・カルロのアメリカ公演を援助しているんですよ。富豪・貴族として正しき道ですなあ。もっとも父親の死後は財産も尽きてしまった。ところが、ここで新たな人生を切り開こうとアメリカに渡り、なんと、ファッション雑誌「ヴォーグ」のファッション部門主席編集者になっています。いや、それはそれでたいしたもんです。ね、ただのボンクラ富豪じゃないでしょ(笑) よく言われるのは、光と影を効果的に用いた演出です。これはかなり意識的に多用されています。また、とくに屋外における、ソフトフォーカスめいた、ぼやけたような映像は、カメラのレンズの前に上質なガーゼだか紗のフィルターをかけることによって産み出されたものとされていますが、そんなことはしていない、靄や霧はじっさいのもので、明け方や日没に撮影を行っていたのだ、というグンツブルグ男爵の証言もあります。 ドライヤーは前作「裁かるるジャンヌ」"La Passion de Jeanne d'Arc"(1928年 仏)に続いて、超自然的なテーマの映画を制作しようと考えていたと言われていますが、それでシェリダン・レ・ファニュの小説に目を付けたというのは、これはわかります。しかし、レ・ファニュの小説からは素材のみ借りて、できあがった映画は、これは当時の観客が超自然と感じるような作品だったんでしょうか。 結論から言ってしまえば、これはいまふうに「ホラー映画」などと呼ぶような映画ではありません。「怪奇映画」「恐怖映画」というのもあたらない。たしかに、吸血鬼の話には違いないし、遺体は白骨になる。しかしそれがstoryの中心とは見えないのです。登場人物はだれも彼もが怪しげで、先に述べたとおり、サウンド映画なのに台詞が少ないから、観ている側の想像力が試されるんですが、それがしばしば行き場を見失ってしまう。 視点はほぼ全篇にわたってアラン・グレイにあり、その意味では、描かれているのはアラン・グレイの内面そのものではないかとも思えます。現実と超自然の境界が曖昧・・・とはわりあいよく言われるようですが、これはつまりシュルレアリスム的手法じゃないでしょうか。はてしなく深く、主人公の内面をのぞき込んだところに超現実(徹頭徹尾の現実)が見える、ということです。 つまり、悪夢と同じ。「幻覚と現実の区別がつかなくなった」という描写で、観る側の現実感覚を揺るがしつつ、主人公の内面に入り込んでいくのです。自分が自分の姿を見るなどというと、あたかもドッペルゲンガー・モティーフのようですが、ドッペルゲンガーなんて、悪夢だったらめずらしいことではありません。ましてや見る対象が死者となった自分だったとしても、悪夢の中でならわりあい自然に、抵抗なく納得できますよね。幽体離脱? それはこの映画を「解説」しようという人が言っていること。映画の中ではだれも「幽体離脱」なんて説明はしていませんよ。ただ、白日夢のような夢幻的な効果を狙っていて、だから映像がぼやけている。しかし、映像がボカされているほどには、storyはボカされて曖昧になってはいません。たとえ死者の視線だとしたって、生者のそれと同様に、リアリズムで描いているわけです。そんなところがシュルレアリスムと共通する手法だと思うんですよ。 私が持っているDVDは、1998年にボローニャのシネマテークとベルリンのドイツ・キネマテークが、独語版のもっとも原型に近いプリントに基づいて復元した「ボローニャ復元版」、これは紀伊國屋書店70分と、The Criterion Collectionから出たもの73分、それにイギリスのEurekavideoから出たデンマーク映画協会によるドイツ語版のデジタル修復版、PALの72分の3本ですが、今回は紀伊國屋書店の「ボローニャ復元版」を観ました。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 |