156 「血を吸うシリーズ」三部作 (1970~1974年) 山本迪夫




 「血を吸うシリーズ」は、東宝が製作した、吸血鬼が登場する特撮恐怖映画の総称、「血を吸う三部作」とも称されているようです。その三作とは―

 「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」 (1970年)
 「呪いの館 血を吸う眼」 (1971年)
 「血を吸う薔薇」 (1974年)

 監督は三作とも山本迪夫。story上のつながりはなく、それぞれが独立した内容。我が国の従来的な怪談映画ではなく、西洋的な怪奇映画、イギリスのハマー映画を手本にしたものであるとはよく言われるところ。

 なお、第一作「血を吸う人形」の野々村夕子は「事故による重傷で臨終の間際に強い催眠術で死を凍結された」「生きている死人」という設定であり、幼少時のトラウマから鋭利な刃物で他人の喉笛を切り裂いて殺す殺人鬼ではありますが、吸血行為は行いません。

 第二作「血を吸う眼」、第三作「血を吸う薔薇」では往年の怪優、岸田森が吸血鬼を演じて、その演技は高く評価されてこの2本は岸田森の代表作に挙げられることもあります。


 「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」 (1970年) 山本迪夫

 さて、それではその第一作「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」です。

 あらすじは―

 婚約者である野々村夕子に会いに屋敷を訪れた佐川和彦は、半月前に起きた夕子が事故死したと知らされ、そのまま行方不明になる。

 婚約者に逢いに行ったまま戻らない和彦の消息を訪ね、妹の佐川圭子は恋人の高木浩とともに夕子の屋敷を訪れ、血まみれの手にナイフを持つ夕子を目撃する。圭子と浩は野々村家の過去と事故で亡くなった夕子の生い立ち、死亡時に立ち会った山口医師のこと、夕子が死後に土葬されたこと聞き出す・・・。


金色のコンタクトを入れていますが、撮影時、ほとんど視界を遮られてしまって、それがかえって効果的な演技につながったとも言われています。

 出演は小林夕岐子、松尾嘉代、中尾彬、中村敦夫ほか。

 イギリスのハマーの影響というのは、これはプロデューサーの田中文雄自身が語っていること。当時東宝は映画斜陽期にあって新味を求めていたところ、怪奇ものに関心を持っていた田中文雄の企画で、イギリスのハマー・プロの「ドラキュラ映画」を参考に、「日本にもドラキュラを」との趣向で企画したのがこの作品。ただし監督を担当した山本迪夫ショック場面を入れたがって、田中、山本両者の嗜好するところを織り込んだ形となりました。

 女のすすり泣き、揺り椅子に座る女の後ろ姿・・・なるほど、不気味な映像をつくるのに、特撮なんか必要ないんですよ。とはいえ、さすがに古城や館を舞台にするわけにもいきませんから、山奥の羊羹・・・じゃなくて洋館。なるほど、たしかに我が国の怪談映画の伝統から脱却しようとしていることがわかります。「四谷怪談」とか「牡丹灯籠」とは、はっきり違う。ただ、そのことによって、土俗的なものも切り捨てられてしまう。それを補えるだけの成果を上げられるかどうかが問われるわけです。


ハマー映画にしばしば観ることができる構図です。

 直接の原案としては、「催眠術で死者を蘇らせる」という、エドガー・アラン・ポーの怪奇小説「ムッシュー・バルディモアの真相(ヴァルドマール氏の症例の真相)」を下敷きにした・・・ということなんですが、一応ツッコんでおくと、「ヴァルドマール氏の症例の真相」は、臨終直前の男に催眠術をかけて生き延びさせるという小説。だから看板に偽りあり、この劇中で野々村夕子は「吸血」はしないんですよ。むしろゾンビ。腐敗していない、きれいなゾンビです(笑)

 最初に犠牲者佐川和彦を演じているのは中村敦夫。この人がTVの「木枯らし紋次郎」でブレイクしたのはこの映画の翌年のこと。野々村夕子役を演じた小林夕岐子は、脚本を読んでこの役がたいそう気に入って、大乗り気で演じたと語っています。

 物語が動き出すのは佐川和彦の妹圭子とその恋人である高木が、消息を絶った兄の行方を追うことになってからなんですが、このふたりを演じている松尾嘉代、中尾彬がねえ・・・いやあ、私は中尾彬が好きなんですけどね、ふたりとも等身大の若者という印象で、それだけに世界が俗っぽくなってしまうことも避けられない。おまけに松尾嘉代がミニスカートではしゃいでるでしょ(笑)どうしてもドラマがこのふたりの色に染められてしまって、西欧怪奇映画のtasteから離れていってしまうんですよ。


ふたりともいい俳優・女優さんだとは思うんですが、どうも「日常性」の空気を纏っているんですよね。

 さらに言うと、夕子の出生とか生い立ちと、結末に至っての流れは、なんだか西欧怪奇映画の公式をすっかり忘れて、日本的な因果因縁譚に回帰してしまってはいないでしょうか。洋館だの催眠術だのと、土俗的な要素をすっかり洗い流してしまった後で、そんな人間模様的な話を持ち出されてもなあ・・・というのが正直な感想です。


 「呪いの館 血を吸う眼」 (1971年) 山本迪夫

 続いて第二作「呪いの館 血を吸う眼」です。

 あらすじは―

 中学教師の柏木秋子は、富士見湖畔で妹夏子と暮らしていた。秋子は5歳の時に見た悪夢が現在でも気になっていた。ある日、不気味な棺桶が送られてきて、以来、かつての不思議な夢が現実のものとなる。悪夢に見たと同じ眼をした男性が現れて秋子を襲い、妹の夏子も男の手にかかってしまう。この事態を解決する手がかりは悪夢にあると見た恋人の佐伯は、催眠療法によって失われた記憶を辿り、秋子とともに悪夢に見た洋館を訪ねる。そこで、悪夢で見た男の正体が吸血鬼であり、秋子を花嫁に迎えるために彼女が成人になるまで待ち続けていたことが判明する・・・。


眼とか視線というものは、小林正樹監督の「怪談」(1964年)をはじめ、わりあいよく使われるモティーフですね。ある意味で、そもそも映画というものの「先祖返り」ですから。しかも、例によって「単眼」です。

 はい、ここで和製吸血鬼、岸田森がご出演。ヒロインに藤田みどり、ほかに江美早苗、高橋長英、大滝秀治ら。

 「第一作が女吸血鬼だったから、次は男にしようと・・・」と田中文雄が語っていますが、第一作は「女」だけど「吸血鬼」じゃなかったですよね。とはいえ、第一作よりも徹底して、製作者田中文雄念願のハマー・プロの人気シリーズだったクリストファー・リー主演の「ドラキュラ映画」の日本版を狙った作劇となっています。前作と同様、不気味な洋館を舞台にしたあたりにもそうした色合いが濃厚です。発端からして棺の到来ですからね。主人公の恋人が、1948年に「明らかに血を吸ったと思われる吸血鬼の処刑」があったと言うのは、イギリスの連続殺人鬼ジョン・ジョージ・ヘイグJohn George Haighのことでしょう。

 田中文雄が吸血鬼役に望んだのは岡田眞澄だったそうで、ところがスケジュールが合わず、監督の山本迪夫が「彼でなければ撮らない」とまで言って推薦した岸田森が起用されたということのようですね。


黙って立っているだけでサマになります。その点では海外の吸血鬼俳優以上の存在感。対する、女優さんの緊張感の欠如が残念です。

 岸田森の吸血鬼は、肉感的でなく「植物質」であるところが見込まれたもののようです。肌は色白く、爪は鋭く、眼は本性をあらわすと金色に輝く・・・これは前作を踏襲したものでしょう。ちなみにヒロインが悪夢で見る「眼」は岸田森のもの。眼の演技にはかなり力を入れて取り組んだ模様です。また、鏡には姿が映らないあたりは、吸血鬼設定の王道。鏡になにも映っていないので誰もいないと思ったら・・・というシーンは効果的です。とはいえ、宗教観の異なる日本で、いかにして吸血鬼を退治するか・・・ニンニクはともかくも、十字架という弱点はリアリティに欠けてしまいます。そこでなんともパワフルな「取っ組み合い」となったわけですが、これがそれまでの吸血鬼映画にはなかった要素。激しいアクションの末、二階から落下して串刺しになり断末魔・・・1分以上続く苦悶の絶叫は、岸田森自身が「やり過ぎたかな・・・」と言ったほど。その特殊メイクは自ら注文を出して、だんだん酷いものになっていたとか。なお、身体が急速に溶け崩れて白骨死体と化すシーンで、全身がしぼむ描写には、空気人形が用いられたということです。


岸田森が「やり過ぎた・・・」とは思いませんが、ちょっと長すぎて、「見せ場」として浮いてしまった印象も。

 story上の設定を説明しておくと、異国人の祖父が日本の能登半島の小さな港町に洋館を建て、三代にわたり暮らしていた。祖父方は吸血鬼の血族だったが、祖父も父も平凡な人間だったところ、三代目は25歳(劇中の18年前)のある日、娘3人に牙を向けた。その頃に洋館へ迷い込んで来たのが幼少期の秋子で、彼女を将来の花嫁として目を付けるも父に秋子を逃され、18年にわたり監禁された。ところが18年後に復活を遂げ、運送店のトラック運転手を利用して棺を強引に配達させ、秋子がいる富士見湖周辺へ移動した・・・・と。吸血鬼も18年間もの間、一途に思い続けていたわけで、思われ続けていた女性がちょっと引いちゃうのも無理ありません・・・って違うか(笑)いや、真面目に考えれば、そこにこそ吸血鬼の悲劇があらわされているということで、ましてや何処とも知れない外国の出身なんですから、貴種流離譚、放浪する永遠の生命という宿命をも浮かび上がらせているわけです。

 そして吸血鬼を滅ぼすのは、大滝秀治演じる父親の愛と悲しみということになっていて、どうにか違和感なく、日本を舞台にした吸血鬼映画として成り立たせています。とはいえ、なんであれ、見るべきものは「影のような男」と説明されている吸血鬼役の岸田森の熱演。細い身体で、怪力をもって暴れ回るのは効果的です。


このシーンなども、たしかにハマー映画に倣っていることがわかります。


 「血を吸う薔薇」 (1974年) 山本迪夫

 第三作は「血を吸う薔薇」。

 あらすじは―

 教師の白木は、東京から八ヶ岳山麓にある80年の歴史を持つ聖明女子学園(女子大、短大かな?)に赴任。学長邸に案内されるや、学長からは次期学長に指名される。その夜、学長邸に泊まった白木は、事故で死んだはずの学長夫人や失踪中の女子学生の姿を目撃する・・・が、夢だったのか、現実だったのか・・・。数日後、白木は校医の下村から、転びバテレンがこの村で吸血鬼になったという200年前から伝わる吸血鬼伝説を聞く。学生寮では女学生たちが次々と何者かの犠牲となり・・・。


いい雰囲気を出していますが、それはこのシーンだけ。ほかのシーンではただの「田舎」に見えます(笑)

 前作に引き続き、岸田森の吸血鬼役。三作の中では最も評価が高いと言われている作品です。

 八ヶ岳山麓なんていうと、広々としたimageを持つかもしれませんが、これが案外と外界と隔絶した閉鎖空間なんですよ。前作の富士見湖畔、能登半島、それにここでの八ヶ岳と、わずかに日本ならではの土俗性的な要素を加味しようとしたんでしょうか。ところがねえ・・・女子大でしょ、だからって、なにもこんなに始終ネグリジェでウロウロしなくてもいいじゃないかと思うんですけどね。しかも、吸血鬼は首筋ならぬ胸に噛みつくから、なんだか「キワモノ」めいてしまった印象です。だからかどうか、洋館や学生寮のデザインなど、いかにもゴシック・ムードを醸し出そうとしているのはわかるんですが、どうも無理をしているように、はっきり言えば「とってつけたように」見えてしまうんですよ。


こんなシーンを貼り付けたくはないんですが、ま、一応説明に合わせて・・・(笑)

 岸田森の学長・吸血鬼の演技の切り替え(落差)は良くも悪くも極端、個人的にはうなり声などあげないで、クールなまま恐怖感を煽ったらどんな演技を見せてくれたのかなとも思います。なんだかね、全体としてはアクションの線を狙った分だけ「ふつうの」映画になってしまっているんですよ。ただし、私は岸田森贔屓なので、あまり悪く言いたくはない(笑)

 ラストの見どころは、火かき棒を胸に打ち込まれての断末魔、同様に滅びゆく妻ににじり寄るシーンでしょうか。これもまた悲恋の物語であることに気付かされる・・・このstory展開できちんとそのことを分からせてくれるのは、やはり岸田森の功績と言っていいでしょう。


どちらにせよ、カッコいい。

 しかし、story上やむを得ないとは言え、黒沢年男(現・年雄)演じる白木役が目立ちすぎではないしょうか。言っては悪いんですが、あまり颯爽としているようにも見えない、青二才ではなくて大人の雰囲気ではあるんですけどね。舞台が舞台で若い娘が大挙して出演しているから学園ものになってしまって、おかげで役どころ自体が青春ドラマとたいして変わらないノリと見える。脇役も演技が紋切り型に過ぎます。とりわけひどいのが、やたらボードレールを引用するフランス文学教師、これなんか、キザというよりただのバカ。このように演技しろという指示だったのなら、監督の責任。まさかレンフィールドのつもりじゃないでしょうNA。これじゃ三流喜劇ですよ。無難な演技をしているのは、校医役の田中邦衛くらいでしょうか。

 なお、最初の犠牲者、野々宮敬子を演じている麻理ともえという女優さんは、後の阿川泰子。


わかります?


(Hoffmann)



参考文献

「岸田森 夭折の天才俳優・全記録」 武井崇 洋泉社

「銀幕の百怪 本朝怪奇映画大概」 泉速之 青土社