159 「歓びの毒牙」 "L'uccello dalle piume di cristallo" (1970年 伊・西独) ダリオ・アルジェント 「毒牙」は「きば」と読む。これがダリオ・アルジェントの監督デビュー作。原作はフレドリック・ブラウンの小説「通り魔」"The Screaming Mimi"とされています。 出演はトニー・ムサンテ、スージー・ケンドール、エンリコ・マリア・サレルノ、エヴァ・レンツィほか。音楽はエンニオ・モリコーネ。 なお、ダリオ・アルジェントの初期監督三作は、いずれもタイトルに動物の名前が含まれていることから「動物3部作」"Animal Trilogy"なんて呼ばれることがあります。すなわち― 「歓びの毒牙」"L'uccello dalle piume di cristallo"(1970年 伊・西独) 原題は「水晶の羽を持った鳥」の意。 「わたしは目撃者」"Il gatto a nove code"(1971年 伊・仏) 原題は「九尾の猫」の意。 「4匹の蝿」"4 mosche di velluto grigio"(1971年 伊) 原題は「灰色のベルベットの上の4匹の蝿」の意。 当時イタリア産ジャッロ映画でタイトルに生物の名前を入れるのは、「歓びの毒牙」あたりから流行りだして、たとえばルチオ・フルチの「幻想殺人」"Una lucertola con la pelle di donnna"(1971年 伊・西・仏)は「女性の皮膚を持つ蜥蜴」、日本未公開作品にはフランチェスコ・カンピテッリの「ビロードの尻尾の狐」"La volpe dalla coda di velluto"(1971年 伊・西)、「炎の舌を持つイグアナ」"L'iguana dalla lingua di fuoco"(1971年 伊・仏・独)なんてのもありました。 冒頭で鳥の剥製が並ぶケースの間を歩く主人公。表題としたからでしょう、ダリオ・アルジェントも律儀ですね(笑) あらすじは― イタリアを旅行中のアメリカ人作家サム・ダルマスは、ある画廊で男女が格闘しているのを目撃。女は負傷し、彼は重要参考人として、パスポートを取り上げられ、帰国を阻止されてしまう。 負傷した女は画廊の経営者ラニエリ夫人モニカであり、最近立て続けに起きているブロンド女性ばかりが狙われる連続殺人事件の4人目の被害者だった。サム自身も命を狙われることとなり、自ら事件を調べはじめ、かかってきた脅迫電話から聞こえてきたきしむような音が、鳥の鳴き声であることを突き止める。その動物園に面した部屋でラニエリ夫妻が争い、夫は窓から転落して、自身が連続殺人事件の犯人であることを告白して息絶えるが・・・。 実験的なスリラーのプロットを持つジャッロ映画であるとは監督本人の説明。なんでも人間には、たとえば純情を白、悪を黒と結びつける傾向があり、これを打ち破る仕組みを編みだしたのであると―。 スリラーのプロットというのは基本的に犯人捜しだからでしょう。ジャッロ映画であるというのは、黒レインコートに黒手袋、ナイフやカミソリというのが典型的なジャッロ映画の要素だから。ここで小さな違和感が主人公の思い違いを正す鍵となるのは、「サスペリアPART2 / 紅い深淵」の先取り。ラストですべての意味が反転する、言ってしまえばドンデン返しのオチにこだわったstory。 夜のローマ、無機的なガラスとコンクリートに囲まれた街を歩く主人公は外国人。悪夢のような展開。変人画家の描いた絵が謎解きのヒントになるところなど、後の「サスペリアPART2 / 紅い深淵」と同様です。やっぱりね、映画が映像作品であることを常に意識しているんですよ。 窓からの落下シーンでは、じっさいにカメラを落として撮影したというのは有名な話ですね。もちろん、カメラはオシャカに。幸いfilmは無事でした。このような画面造りもダリオ・アルジェントのアイコン。 これはひょっとすると、これがジャッロ映画であることを示すための色遣い? ラストで犯人の歪んだ心理について精神科医が解説するのは、ヒッチコックの「サイコ」の模倣でしょう。わざわざ解説しちゃうところが微笑ましい(笑) 観るのが2度目以降になると、思いっきり注視してしまうシーンです(笑) 左はエヴァ・レンツィ。「007」のボンドガール役のオファーを、「可愛い女の子向きの役、女優には向かない」と言って蹴った知性派女優。キレイな方ですね。右はスージー・ケンドール。「影なき淫獣」にも出演していましたよね。イタリア産ジャッロ映画ではお馴染みの清楚系女優。清楚系ですからstory上は生き残る確率が高いんですが、いつもそれなりにひどい目に遭っています。このふたり、いい女優さんなのに、もうひとつ作品に恵まれず、大成しませんでしたね。ただし、エヴァ・レンツィに関しては、いろいろと物議を醸す言動があったことも影響していたようです。 ところがデビュー作ですからね、アルジェントはまだ若かった。周囲からはすっかり素人扱いされて、「そんなやり方じゃダメだって、わかりますよね」とか「そうではなく、こうしたらいいんじゃない?」と言われてばかり。味方は撮影監督ヴィットリオ・ストラーロだけ(この立派な人の名前は記しておかないとね)。それでも自分の選択を貫いたアルジェントは偉い。じっさい、この若い監督を前にして、現場の撮影チームはいつもどおりのイタリア流の刑事物を撮るのだと思っていたそうです。ところが、たしかにアルジェントはこのデビュー作の時点で、撮りたいもの、そのスタイルが明確に意識されていたんですよ。 ようやくこぎつけた試写では、「それでこれはジャッロなのか?」と誹謗中傷の嵐。ところが制作・配給会社のプロデューサーの秘書が、「ドキドキしっぱなしだったの。こんなに怖い映画、見たことないわ」と言って、アルジェント父が「彼女は観客だ」と言い切り、ようやく1970年2月19日にトリノとミラノで先行上映されることに。場内は空席だらけ。気落ちするダリオ、挫けない父。次にフィレンツェとナポリで上映することとなって、フィレンツェの封切り当日の最終回をアルジェント父子で観に行ったところ、なんと満員御礼状態。早い時間に観た人から口伝えで映画のことを聴いた人が次の時間にやって来て・・・という連鎖だったようです。上映中に叫び声を上げる人もあり、映画が終わると拍手をする人も・・・。次にナポリへ行くとやはり同じことが繰り返されて、イタリア全土での興行収入は10億リラを超えるという、デビュー作としては大成功のレベル。結果的にこの作品はジャッロ映画の爆発的なブームの先駆けとなりました。 (Hoffmann) 参考文献 「恐怖 ダリオ・アルジェント自伝」 ダリオ・アルジェント 野村雅夫、柴田幹太訳 フィルムアート社 「イタリアン・ホラーの密かな愉しみ 血ぬられたハッタリの美学」 山崎圭司編 フィルムアート社 |