068 「心霊写真 メディアとスピリチュアル」 ジョン・ハーヴェイ 松田和也訳 青土社




 写真の話となると、どうしてもその前史からはじめなければなりません。前回の続きのようになりますが、ファンタスマゴリア、幻燈器の話です。

 ステージ上に幽霊が登場するのは、たとえばシェイクスピアの「ハムレット」。なんなら落語でもいい。ちょっと想像してみてください、ひゅーどろどろ・・・。幽霊が出現する際には不気味な音楽が鳴り響き、当の役者はあるいは全身に白い布を纏って、あるいは血を流して、そろりそろりと舞台の袖から歩み入る・・・これを眼前にした舞台上の登場人物は悲鳴をあげたり驚いたり。この世のものならぬ幽霊は一定のお約束のもとに現れるわけです。

 写真どころか、ファンタスマゴリアの話にもならないじゃないか、と呆れている方、もう少しですからね。

 18世紀、すなわち理性の時代に入ると幽霊だの生霊だのといったものの居場所はなくなるかに見えたのですが、19世紀になると、これが心霊主義 Spiritualism のうちに復活を遂げることになります。心霊主義とは、死者と生者とが霊媒を介して対話・交流することができると考える思想のこと。

 1848年にはアメリカはニューヨーク州の小さな町ハイズヴィルで、幼いフォックス姉妹(8歳と6歳)が幽霊と交信したという事件が話題になりました。もちろんこれはインチキ、後に彼女たちが関節を鳴らしていたものと判明しています・・・が、この事件も折からの心霊主義ブームに火をつけ、燃料を投下したことはたしかです。英国でブームとなったのは概ね1850年代あたりからのこと。

 まさしくその時期、1852年に、ステージ上の幽霊の出現や消滅を、効果的に演出する仕掛けを考案した男がいました。ヴィクトリア朝の大衆演劇界で人気を博していたディオン・ブーシコーです。これはスライド式の落とし穴とか隠し扉の仕掛けによるもの。それでも当時の観客は驚いた。

 ところがさらに10年が経過して1862年になると、これを上回る、半透明に光る幽霊が出現するようになります。ジョン・ヘンリー・ペッパーによる、ファンタスマゴリアを利用した仕掛けによるもの。いや、ファンタスマゴリア自体は英国に紹介されてから既に60年の歳月を経ていたんですが、従来はスライドに、幽霊や骸骨、死神などの稚拙な絵が描かれていただけのもの。だから基本的には静止画。ところがペッパーは、鏡とレンズとガラス板を利用して、観客からは見えないところで演技している役者に光を当てて、その像を投射してステージ上に出現させるという仕組みを考案したのです。いわば3Dのホログラム。しかも生身の役者ですから、自在に動く。さぞかしお客さん方も腰を抜かしたことでしょう。



「ペッパーの幽霊ショー」のカラクリを解説した図。客からに見えないところにいる役者に光を当てて、角度を調節した板ガラスに反射させる。すると、客からは宙空に浮かぶ幽霊の姿が見える。

 こいつはいかん、と焦ったブーシコーは、1864年に新手の幽霊興行をはじめます。もう、レンズもガラスも鏡も光学装置も使用することなく・・・ええい、いっそ、じっさいの幽霊を呼び出してしまえと、アメリカの有名な霊媒師ダヴェンボ-ト兄弟を招聘して交霊実験を公開したのです。

 一方、作家のチャールズ・ディケンズはゴースト・ストーリーを書いてはいるものの、あくまで人間の心とか精神、妄想などに興味を抱いていたのであって、幽霊の存在を信じていたわけではなく、幽霊実話の信憑性に疑義を挟んでいました。そのディケンズ、じつはメスメリズムに夢中になっていて、外科医でメスメリズムの唱道者であったジョン・エリオットソンに師事して自ら催眠術の名手となって、友人知人のちょっとした病や神経症を治療していたんですね。ところが、幽霊に悩まされているという症例に出くわして、いささか手を焼いていた・・・。

 そこでディケンズはロンドンの「幽霊クラブ」に入会。このクラブの目的は、科学的な調査によって超常現象の嘘を暴くことにあって、いわゆる心霊調査団体としては最古のもの。で、このクラブの最初の調査がブーシコーが取り仕切ったダヴェンボート兄弟の交霊術。これに立ち会って、どうもあのキャビネットが怪しいぜ・・・ってんで、見事にそのトリックを見破った(ただし、結果は公表されませんでした)。



「精霊キャビネット」とDavenport brothers(左右)


 さて、インチキであることはともかくとして、霊媒って、なんなのさ、とは思いませんか。中世から近世初期にかけては、霊感なんてものがなくても、あらゆる社会階層のごく普通の老若男女のだれでもがこれを目撃していたのに、19世紀及び20世紀初頭においては、霊を見たり交流したりする能力は霊媒及び霊感体質者に限られるものとなっている。

 これをもう一回ひっくり返したのが心霊写真です。カメラは幻燈器とは正反対の原理を持つものでした。幻燈器が悪霊や幽霊といった超自然を映し出す(投影する)ホラーショーが大当たりした次の時代に、奇しくもというか皮肉にもというか、今度は逆の原理を持つカメラが幽霊を見せるようになったのです。

 つまり、誰もが見ることができるようになったのは、霊媒がインチキだったから、ではないでしょうか。だから次の世代の「霊媒」が必要になったんですよ。次の世代の「霊媒」は、まず写真師でした。心霊写真は死別を儀式化し、商業化しました。嘆き悲しむ親族や友人たちにとって、写真師は霊媒であって、この霊媒は死者と生者をガラス板の上で結合させるわけです。そしてもうひとつの霊媒が、カメラそのものです。じつは、写真は長らくその機能を理解されておらず、一種の奇跡のように見なされていたのですね。片足は科学の領域に、もう一方の脚は依然として宗教とオカルトの領域に置いていた、というわけです。

 かつて幻像として出現するのはそれなりに重要な聖人であったりしたものが、霊媒の出現以降は、無個性かつ大衆的な、あらゆる人々がそこに出現するものとなりました。しかも、霊は生前と変わらぬ姿形であることを世俗の人々に訴えています。とても日常的。これは心霊写真でも同じこと。日常的であるが故に、カメラは亡霊の実在を確証させたにとどまらず、それが主観的な幻覚ではないことを証明しました。心霊写真は霊の客観的実在の揺るぎない実証とされたのです。しかも、幻像とは異なって、写真乾板や印画が制作されれば誰にでも見ることができるようになったのです。ただし、ここでことわっておきたいのは、「カメラという特殊な技術によって見えるようになった」・・・のではない、ということです。あくまで、霊媒の役割が転嫁されたのだ、ということです。

 もちろん、写真の原理を理解している経験豊富な手品師は、心霊写真を「有害かつ拡大しつつある陰謀的捏造」として、その手口を複数述べています。たとえば、感光板の入った遮光ケースをあらかじめ用意していたものとすり替える、感光板を遮光ケースに入れた後で小型閃光電球を用いて像を写す、現像の際に化学薬品を加える・・・等々。そうかと思うと、コナン・ドイルも騙された(騙されたがっていた?)妖精写真は、原板とプリントには手を加えず、戸外において、作り物の妖精を切り抜いて木の枝にピンで留めたり、カメラのレンズの前にぶら下げたりしたというもの。トリックは単純な方が見破られない? 専門家は知識豊富だから考えすぎるんですね(笑)

 その意味では、ファンタスマゴリアと心霊写真は同一線上にあるものなのです。心霊写真がファンタスマゴリアの末裔と言ったらいいのかな。生身の人間がいる、そこにもうひとつの世界の住人が重なり合うように、同一空間に存在している(ように見える)。人間は「外」界を見ているようでいで、じつは「内」なる欲望や不安が投影されたものを見ているに過ぎない・・・と言ったのはフロイトです。言い換えれば、人は「外」を見失って、自らの「内」なるものを見つめながら、その虚実、それをどう解釈するのかという問題に、(好んで)時間を費やしているだけなのです。

 19世紀から20世紀初頭にかけての心霊写真は笑えるほど稚拙な仕上げです。重ね焼き、脱脂綿とガーゼ、肖像写真から切り抜いてきた顔、煙草の煙のコラージュの痕跡があからさまなもの・・・。先の妖精写真なんかも原始的なトリックという点ではいい例ですね。

 ましてや、そこに写っている幽霊の視覚的表現たるや、文学上の亡霊描写から影響を受けたものなのです。4人組の亡霊が描かれたチャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」(1843年)の初版が出てから5年後には心霊主義が誕生し、8年後の1851年には世界初の心霊写真が撮影されています。そして18年後の1861年にはマムラーが自らの心霊写真を制作、ディケンズの亡霊描写の、亡霊の容姿に関する一般的観念及び視覚表現に対する影響は見過ごし得ぬものでした。すなわち、顔だけでの出現、弱々しい輝き(発光)、いずれもディケンズに倣ったもの。全身であらわれた時は透明・・・じつは、透明な存在としての亡霊描写は、12世紀から19世紀までの怪談の伝統からは完全に抜け落ちているのです。透明なのは厳密に事実に沿ったものというよりも、象徴機能のゆえと思われます。つまり、霊と生者の区別をするため、という理由です。とくに心霊写真で霊が透明でなかったら、ただ人が立っている(そこにいる)だけにしか見えないでショ。

 時間の経過とテクノロジー、それにカメラの習慣化によって、我々はimageの製版と加工に馴れ、過去の心霊写真に向き合う態度も変化しました。今日では、もはや写真は神秘でも魔術でもなく、また必ずしも信頼しうる媒体でもありません(デジタル・カメラにおいておや!)。心霊写真がかつての隆盛時のように、人々の関心を引くことは、もはやなさそうです。


(Parsifal)


引用文献・参考文献

「幽霊学入門」 河合祥一郎編 新書館






Diskussion

Klingsol:心霊写真か・・・子供の頃、流行ったね。

Hoffmann:TVでもやっていたね。変なものが写っていました・・・って送られてきた写真を見た心霊研究家がウムムと唸って、「たしかに、写っています」(笑)

Parsifal:あったあった(笑)でも、どう見ても顔なんか見えない。天井のシミの方がよほどそれらしい(笑)シミュラクラ現象っていうんだっけ? あれなら、自動車だって、壁のコンセントだって顔に見えるよ。

Hoffmann:(^・^)←これだって(笑)

Kundry:心霊研究家と言えば、TVで「電波は見えないけど、アンテナで受信してテレビで見えるようになるでしょう。霊もそれと同じで、一定の条件でカメラに写ることがあるのです」と言っているのを見たことがあります。

一同:あははははは゜゜(^0^。)°゜。゜゜(^0^。)°゜。あはははははは

Kundry:それで会場のみなさんはうんうん、と頷いているんですよ(笑)

Hoffmann:でももう、流行ることはないだろうね、デジタルカメラの時代では。フィルム送りのミスはあり得ないから、多重露出は起こらないし。素人でも後からいくらでも加工できるのでは・・・Nevermoreだ(笑)

Parsifal:それもちょっと寂しいけどね。

Klingsol:不適切な露出、手ブレ、埃、ハレーション、反射も含めた映り込み・・・滝なんかだと、水蒸気の乱反射。これで説明の付かないものは、まずないよね。

Parsifal:あと、この本で語られていることなんだけど、インチキ心霊写真師や土産物の亡霊写真の制作者たちと同じ手法、すなわち二重プリントや合成プリント、ソラリゼーションなどを駆使したのが、シュルレアリストたち、たとえばマックス・エルンストやマン・レイなど。しかし、心霊写真が死によって分かたれたものとの再結合を表明して、物質界と霊界との分断を超越しようとしていた。つまり心霊写真が目指すものは潜在意識ではなく、「超在」意識、死後の霊的な意識であったのに対して、シュルレアリストは現実と夢の分離を伝えようとした、というのが著者の主張だ。