067 「ファンタスマゴリア 光学と幻想文学」 マックス・ミルネール 川口顕弘、篠田知和基、森永徹訳 ありな書房




 以前取り上げたマリア・タタールの「魔の眼に魅されて」は、ロマン主義文学が精神分析へと舵を切っていった流れを催眠医学というテーマで跡付けた本。このマックス・ミルネールの「ファンタスマゴリア」は、ロマン主義文学から幻想文学―視線に込められた無意識の欲望が「不気味なもの」を見出すに至る流れを、その名を持つ光学器械で切り込んでいった本です。

 ファンタスマゴリア”Phantasmagoria”とは序文で引用されているように、ゾラやランボーの時代には、ファンタスマゴリアという光学装置の名称は、幻想や埒もない絵空事、玄妙怪奇な幻を指すことばとして使われるようになっており、現在に至っています。しかしながらもともとは、18世紀末、19世紀初頭のいわゆる幽霊興行ghost showに付けられた技術用語でした。具体的にはスライド・プロジェクターに若干の仕掛けを施して、映画的効果を創りあげる光学器械のこと。幻燈器のことだと思ってもらってもかまいません。


Phantasmagoria(ファンタスマゴリア)

 ファンタスマゴリアは18世紀の末、1798年にベルギー生まれのロバートソン、本名エティエンヌ=ガスパール・ロベールが、アタナシウス・キルヒャーの幻燈器に改良を加えて、パリの大蔵省別館で披露して、その後見世物にして大当たり。念のため付け加えておくと、アタナシウス・キルヒャーは17世紀イエズス会士で幻燈”Laterna Magika”を発明した人。これは内部に1本の蝋燭と1面の凹面鏡を蔵する灯室(ランタン)でできており、両端には凸レンズを付けた管があり、小さな絵が描かれたガラス板を入れて壁もしくは紗の映写幕に拡大された画像を投射するというもの。

 さて、その幻燈器を改良した装置による光学的スペクタクルによって、ロベールはおよそ6年間で一財産作りました。ところがというか、当然にというか、国内外に模倣者が出てきて幻燈器興行が乱立、どれもこれも幽霊を出すものだからパリ中が冥界になったかのよう。もちろんファンタスマゴリアはドーヴァー海峡を渡り、根っからゴシックものが好きな英国の地でも熱狂的に受け入れられ、ロンドン大衆娯楽の定番となりました。

 ・・・が、19世紀末の数十年に至ると劇場でのファンタスマゴリアが精巧になっていくのと軌を一にして、家庭用幻燈器が普及しはじめます。プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭にも、少年時代の話者が人からもらった幻燈器のことを語っている箇所があるのを思い出す人もいるでしょう。こうして一般人の手にも届くものとなってしまえば、興行も下火となり、しかしことばとしては長く生き延びたわけです。それというのも、この光学装置がもたらすさまざまな映像が、夢の非合理性をもって出現する「もうひとつの舞台」を連想させるという、同時代のドイツ・ロマン派の想像力と共通するものがあったから。

 ミルネールによれば、ドイツ・ロマン派のなかでも、とりわけファンタスマゴリア的な想像力を発揮したのはE・T・A・ホフマンです。なぜなら、ホフマンの作品では、実際に、双眼鏡、顕微鏡、眼鏡、鏡などがふんだんに登場するばかりか、その光学器械が平穏を保っていた主人公の人生に、異世界をのぞかせる穴を穿ち、「不気味なもの」の幻影を生ぜしむる点において、主人公の禁じられた窃視症的欲望の隠喩となっていたからです。

 日常生活の中に突如侵入してくる「不気味なもの」が光学装置によって示されるという主題は、鏡に映った自分の像が消えたり、危害を及ぼしてきたりするホフマンの「大晦日の夜の椿事」やモーパッサンの「オルラ」といった分身テーマの小説に見ることができます。この場合、鏡とは「ナルシシズムをうまく統御できないことから生じる人格遊離」の恐怖を象徴している、というのが著者の主張です。

 「見る」という行為については、19世紀末の申し子、シャーロック・ホームズがその代表。さすがコナン・ドイルも眼科医だけのことはあって、この偉大な私立探偵は虫眼鏡で「見る」、顕微鏡で「見る」・・・「見る」ことによって、見えるものから理論的に謎を解いてゆくわけです。”detective”はすなわち「探偵」と訳されるわけですが、”detect”ということばは、「屋根の付いた建物の屋根を剥がす」という意味なんだそうで、なるほど、窃視症的欲望だなと納得できますね。


Magic Lantern(幻燈器)

 やがてこの光学装置の持つ、人間の視力を強化する能力は、作家の想像力によって飛躍的かつ空想的に進化を遂げます。つまり、じっさいに実現されて世のなかに存在している光学装置から、「見えないものを見せる」空想上の光学装置になるのです。この幻想の光学装置は、人間の能力では超えることのできない距離を消滅させたり、可視空間の領域を大幅に拡大させたりするもの。

 ああ、コナン・ドイルもシャーロック・ホームズの物語にすっかり興味を失ってからは、妖精写真だとか心霊研究などといったものにのめりこんでいきましたよね。なぜか。「見えないものを見せようとする」野望は、「感覚世界における既知の事実相互間の新たな関係の発見」としてあらわれてくるからなのです。

 「見えるもの」より「見えない(はず)のもの」がリアリティを獲得してしまったのは、これ、精神分析の発達とその理論の確立ともパラレルなのでしょう。「無意識」などという、「無」の字が付くものが「有」るという話になってしまったんですから。ここにおいて「認識」ということばは、視覚文化とは遊離してしまったのです。19世紀末から1920年代あたりまでの、医学から文学、あらゆる分野における、これは「革命」といってもいい転換だったんじゃないでしょうか。

 だから19世紀末から20世紀はじめの映画黎明期には、多重露光だの逆廻しだのと、いわゆるトリック撮影の技法を駆使した、亡霊やら首の切断やら頭部の破裂やらといった映像が目白押しになったわけです。これを直接的に光学器械の影響と見る向きもあります。ファンタスマゴリアをはじめとする幻燈器の見世物には、たしかに幽霊を見せるものが多かったことは事実で、それは決して誤りではないんですが、間には上記のような事情があることも見落としちゃいけませんよ。


Magic Lantern(幻燈器)

 第五章「時を征服する光学」では過去や未来を覗く装置が取り上げられています。これが使用者の意図を超えて制御不能となると、「不気味なもの」が出現するのです。失われた過去に対する不思議な情動を喚起するとどうなるか。ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」やジュール・ヴェルヌの「カルパチアの城」の主人公のように、愛する女性の幻影を光学的に作り出そうとすることになる。現実の女よりも幻影の「女」。なんだか現代人にも通じる欲望の一形態ですね。

 つまり、著者は現実世界へ突如現れる「不気味なもの」を表象する幻想文学は、視線に込められた無意識の欲望の結果であり、それは光学装置の隠喩であると言っているのです。「窃視衝動」と「無意識」とくればフロイトの精神分析で論じられるのは当然のこと、ましてや「不気味なもの」の表象においておや。「不気味なもの」のimaginationが光学器械の隠喩であるということは、私たちの想像力という心的現象が、いかに19世紀以降のテクノロジーによって影響されているか、ということなのです。

 最初の話を思い出して下さい。幽霊を投影する幻燈器のような光学器械の名前が、幻想や埒もない絵空事、玄妙怪奇な幻を指すことばとして使われるようになったこと。つまり、人工的に演出された幽霊の幻影、つまりなにか外部に存在していたものの名前が、その後内面的・主観的な、人間の精神が生み出すものを指すことばとなった。この意味の変化は、外に、たしかに存在していたものが、人間の想像力が生み出したものだといことになってしまったという意味で、きわめて象徴的です。心霊的世界の地位は下落して、幽霊を見るのは想像力に原因があるということになった。ということは、幽霊たちが精神世界・思考の世界に吸収されていったということです。


Sigmund Freud

「不気味なもの」について

 フロイトの「不気味なもの」は、第一次大戦終結翌年の1919年に発表されました。

 フロイトはこの論考において、ドイツ語の「不気味なもの」”unheimlich”が”heimlich”(ひそかな)、”heimisch”(その土地の)、”vertraut”(なじみのある)の対立語であることから、なにかあるものは既知のものではなく、親しみがないから怖いのだと考えました。さらに、”heimlich”は反対語の”unheimlich”と重なり合っていて、感情活動の情動は抑圧によって不安に変換されるとすれば、不安なもののなかにはこの不安なものが抑圧されたものの再来であることを示すようなグループが存在するはずである、だから、「なつかしいもの」”das Heimliche”を「不気味なもの」”das Unheimliche”に寝返らせるのだという結論に至ります。

 つまり、不気味なものは新奇なものものでも見知らぬものでもなくて、心的生活に古くから馴染みのあるなにものかであり、それが抑圧されてしまったものなのです。なので、「不気味なもの」とは「隠されたままでいなければならないはずなのに、それが表に出てきてしまったもの」ということになるわけです。

 フロイトは、あるものが不気味に思われる理由を、大きく分けて次の二つの系列に分けて考察しています。

1 幼年期の昔から「馴染んできた抑圧されたものが戻ってくる」ときに生まれるもの。
2 「抑圧された幼児期のコンプレックス、去勢コンプレックス、母体還帰幻想」などから生まれるもの。

 いずれも、不気味な感情は幼年期に起源があるとしているもので、第一の系列は幼年期に抱いていたアニミズム的な信念が成長して後には否定され抑圧されてきたにもかかわらず、もしかするとかつての信念が正しかったのではないかという不安を生むことにより生まれるもの。第二の系列は去勢コンプレックス、母体還帰コンプレックスのふたつを含んでいて、フロイトはこの去勢コンプレックスをもってE・T・A・ホフマンの「砂男」の作品分析を展開していますが、ここではふれません。

 フロイトによれば、切断された手足や首といったものの不気味さは、去勢コンプレックスに由来するもの・・・これはいいとして、生きながらの埋葬、これは精神分析の教えるところでは、もともと恐怖に類する要素は認められず、むしろある種の情欲的快楽、すなわち胎内生活というファンタジーに裏付けられたものなのであり、別種のファンタジーの変容したものであるとされています。これはちょっと不思議ですね。それではちっとも不気味ではなさそうです。どうも、フロイトは胎内=子宮と女性器を混同しているんじゃないでしょうか。

 なお、E・T・A・ホフマンの「砂男」とS・フロイトの「無気味なもの」を合本にしたのが河出文庫の「砂男 無気味なもの」種村季弘訳ですが、現在は品切れ・絶版のようです。フロイトの方は中山元訳による光文社古典新訳文庫「ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの」でも読めます。


(Parsifal)





引用文献・参考文献

「幻燈の世紀 映画前夜の視覚文化史」 岩本憲児 森話社
「映画の考古学」 C・W・ツェーラム 月尾嘉男訳 フィルムアート社
「砂男 無気味なもの」 E・T・A・ホフマン、S・フロイト 種村季弘訳 河出文庫
「ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの」 ジークムント・フロイト 中山元訳 光文社古典新訳文庫


Diskussion

Kundry:ポオの「アッシャー家の崩壊」の話のときに、冒頭の映像的なリアリティに関して、Klingsolさんが「映像的なリアリティという点ではファンタスマゴリア(幻燈器)などの影響も見逃せない」とおっしゃってましたよね。

Klingsol:そう、まさにそのとおりだ。ファンタスマゴリア的な形象をもって内と外の境界を、イリュージョンとリアリティを相互浸透させることで、特異なatmosphereを醸し出し、怪奇・幻想の世界を構築したんだよ。

Parsifal:何気なくしゃべっているようで、注目すべきご指摘だね。

Hoffmann:ファンタスマゴリアのパロディだと言うひともいるね。パロディといっても滑稽なものではないけれど・・・。

Klingsol:時代時代のテクノロジーでロマン派あたりから世紀末の文学作品を読み解こうという試みは最近よく見かけるよね。

Kundry:ブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」でも、当時最先端のテクノロジーが導入されていましたね。

Parsifal:とりわけ映画の基本であるだけに、ファンタスマゴリアは重要だよね。UFOフォークロアでもそうなんだけど、人間の想像力というのは、いま実現できていることの(わずか)一歩先が限界なんだ。だから、新たなテクノロジーが生まれることで、文学でも哲学でも、少しずつ先に進んでいく。

Hoffmann:20世紀(以降)は思想に関しても、学説に関しても、長続きしないと言われるじゃない? 時代の最先端でいられる時期が短くて、すぐに古びてしまうって。それはテクノロジーの進歩が加速度的だからなんだよ。