091 「サロメ」 オスカー・ワイルド 福田恆存 岩波文庫




 サロメと言えばその起源はキリスト在世中に遡ります。イスラエルの王女サロメと異父王ヘロデ・アンティパス、母王妃ヘロディアスの王家が、キリストに洗礼を与えたバプテスマのヨハネを幽閉して斬首した事件ですね。この事件の最後に場面に現れる「ヘロディアスの娘」は、その後幾世紀にもわたり、彫刻家や画家、文学者に音楽家たちの空想を刺激し、また霊感を与え、さまざまな作品のなかに結晶されてきたわけです。

 当初はヨハネの生涯の一場面であったところ、次第に風俗画に変貌していって、サロメ像が「ヨハネの首を持つ姿」として多く取り上げられるようになったのは、概ね17世紀頃。19世紀になると、もはやイスラエル王女としての側面はほぼ忘れ去られて、自分の意思を持つ女性となってくる。そしてこれが世紀末に至ると、その豪奢でデカダンな雰囲気とエキゾティックなオリエント趣味が、時代の頽廃的耽美主義と融合して、芸術家にとって理想的な「ファム・ファタール(運命の女)」となります。

 もちろん、オスカー・ワイルドの戯曲もその流れのなかに位置付けられるものです。ただし、ワイルドひとりがこのテーマに取り憑かれたわけではなく、ドイツの詩人ハイネから、フランスの作家フローベール、マラルメ、ユイスマンス、ラフォルグにも描かれており、画家も含めればさらに多種多様なサロメ像が創られていたことは心に留め置いて下さい。

 とはいえ、オスカー・ワイルドのサロメ像が、おそらくもっとも人口に膾炙しているのは、1896年に「サロメ」が上演され、1905年にはドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスによる同名のオペラが上演されたことにより、一般の人々の間にそのサロメ像が普及していったためでしょう。もはやサロメは宗教伝説のなかから抜け出してしまったのです。

 余談ながら、ヘロデ王のことを、新訳聖書のマタイ伝による福音書で、新たな王・救世主が出現するという預言に怯えて領内の2歳以下の幼児を虐殺したというヘロデ大王のことだと思っている人がときどきいるんですが、これは別人ですからね、お間違いのないように。ヘロデ大王は紀元前4年に没して、遺領は遺言に従って息子たちに分割統治させたのですが、このうちのひとつ、ガリラヤとペレアを支配した息子、ヘロデ・アンティパスが「サロメ」に登場するヘロデです。ついでにふれておくと、サロメの母ヘロデア(ヘロディアス)はヘロデ大王の息子アリストブロスの娘、ヘロデが別の女に生ませた息子ヘロデ・フィリポス(ヘロデ・アンティパスの異母兄)と結婚して、生まれたのがサロメです。つまり、ヘロデ大王から見れば息子と孫が結婚したわけです。その間に生まれたのがサロメ。しかし政治的な理由から離婚して、ヘロデアはサロメを連れてヘロデ・アンティパスの後妻に収まったのです。ややこしいですが、わかりましたか? これを洗礼者ヨハネが非難しているのは、異母兄の妻を娶るという行為がユダヤの立法では許されていないから。ちなみにヘロデとサロメには血のつながりがないわけです。あら、危険がアブナイですね。



Oscar Wilde

 オスカー・ワイルドによる「サロメ」の原稿は現在三種類が残されています。

 第一の原稿はワイルドの手書きで、フランス語によるもの。現行に日付けはありませんが、使用されたノートにはワイルドが当時宿泊していたパリのホテル・ド・キャプシーヌのマークが付いています。

 第二の原稿は、フランスの作家たちに「サロメ」のフランス語の訂正を依頼した写しで、日付けは1891年11月。ワイルドの手書きに、各所に加筆訂正が施されています。

 第三の原稿はピエール・ルイス宛てに送られたもの。ルイスによるものと見られる訂正や意見が行間に加筆されているのですが、これをじっさいの決定稿と付き合わせると、ワイルドは文法や語法上の指摘だけを取り入れて、その他の意見は無視していることが分かります。

 ―と、このように、ワイルドによる手稿はすべてフランス語。ちなみにその原稿はピエール・ルイスだけではなく、アンドレ・ジイドやマルセル・シュオブにも見せたようです。ジイドはワイルドがじつに立派なフランス語を話したと言っており、その他の友人もワイルドのフランス語は完璧だと褒めていますから、話すのも書くのも、その実力は確かなものだったのでしょう。

 ワイルドはまた、サロメに関してはフローベールの書いたものがすばらしいと言っているので、おそらく「三つの物語」の「エロディアス」の養生する踊るサロメをimageしていたものと思われます。また、画家によるサロメについては、ルーベンス、デューラー、ギルランダーヨ、ファン・テュールデン、ルニョーなどには不満を漏らしており、どうやらギュスターヴ・モローに関しては、そのユイスマンスによる描写を引用することを好んでいたようなので、気に入っていたものと思われます。オーブリー・ビアズリーの挿絵につては後ほど―。


  
Gustave Moreau

 「サロメ」のフランス語版は1893年2月にパリで印刷されました。アルフレッド・ダグラスLord Alfred Bruce Douglasによる英訳本がロンドンで刊行されたのは1894年。フランス語版の献辞はピエール・ルイス宛、英語版の献辞はアルフレッド・ダグラスへのものになっています。上演はこれより早く、1892年にサラ・ベルナールとパレス劇場による公演が計画されたのですが、リハーサル中に、宗教上の人物を劇化したとの理由でチェンバレン卿が上演禁止を通告するという事件が起こり、この上演は実現しませんでした。上演されたのはワイルドがレッディング監獄に服役中、友人たちがフランスの役者リューニュ・ポエに上演を依頼して、ポエ一座によってフランス語の「サロメ」がルーヴル座で脚光を浴びたのは1896年のこと。結果はあまり芳しいものではなかったようです。イギリスで上演禁止が解かれたのは1931年。しかし時既に遅し、「サロメ」熱は去っていました。一方、ドイツでは1901年、20世紀最初の年にベルリン小劇場で上演され、成功を収めていますが、ワイルドは1900年に亡くなっているので、この成功はもちろん、1905年のR・シュトラウスによるオペラの大成功も知ることはありませんでした。もっとも、ワイルドが見たとして、これを気に入ったかどうかは分かりません。

 念のため解説しておくと、アルフレッド・ダグラスも作家、詩人ですが、それ以上に同性愛者であったワイルドの恋人であったことで有名ですね。ダグラスとワイルドは若い青年たちへの性的関心を共有していたのですが、性的な好みは若干異なっており、ダグラスは十代半ばの幼い少年たちに惹かれ、ワイルドは十代後半の少年や青年に興味を抱いていたようです。



Oscar Wilde and Lord Alfred Douglas, 1894

 ちなみに私はアルフレッド・ダグラスの詩集”The City of The Soul”(1899)を持っているほか、1894年に出版されたロバート・スミス・ヒッチェンズRobert Hichensの小説「緑のカーネーション」”The Green Carnation”も入手して読みました(私が入手したのは1949年の再版もの)。後者はダグラスとワイルドとの関係をモデルにした小説で、決して下世話な暴露ものなどではなく、なかなか面白く読めるので、同性愛に関心がない方にもおすすめです。ただしいずれも初版は匿名出版で、本には著者名が記載されていないのでご注意を。

 さて、オーブリー・ビアズリーはサロメをモティーフにした作品を美術雑誌に発表した後、これを見たロバート・ロスの熱心な勧めによって「サロメ」の表紙デザインと16葉の挿絵を描きました。現在ではワイルドの「サロメ」と切っても切り離せないものですが、ワイルドは気に入らなかったのですね。やはりワイルドの頭にはギュスターヴ・モローのimageがあったようで、ビアズリーの挿絵は「日本的すぎる」と言っています。


  
Aubrey Vincent Beardsley

 さて、それでは、サロメはなぜヨハネの首を欲しがったのか?

 これはさまざまな理由付けが可能です。王女という地位にあって、なんでもしたことを自由にできるから、ヨハネに拒まれて自尊心を傷つけられたから、ヨハネの美しさに惹かれた純粋な処女の一念から・・・でもね、ここはぱっぱり、王女の誇りを傷つけられたと思うほどにヨハネに恋し、その気持に純粋に貫くため、首を手に入れて自由にしたかった・・・というのが、読者としては「そうあって欲しい」動機ですよね。我が儘よりは純粋な思い、情欲よりは処女の一途な盲目の恋心。だって、首だけでもいいんですから。地上的な情欲のわけがありませんよね。それに、「愛」でなければ「死」に結びつかない。もちろん、ヨハネが、この王宮に集っている俗物たちとは異なって、地上的なものに関心がない、天井の国だけを見つめている聖者であるからこそ、その肉体は白く美しく、サロメが惹かれるのです。だからその首との口づけの陶酔は現実世界のヨハネはもちろん、サロメをも滅してしまうのです。

 ヘロデはヨハネを怖れています。これは「救い主とは誰か?」と問うときにも、常に自分の身に災いが降りかからないかという怖れを抱いているからです。しかし、サロメは怖れてはいません。自分が愛を抱いた相手は、それが聖者であろうと何者であろうと、欲する女性です。つまり、自ら宿命を負うことができる。むしろ、その宿命の実現を求める。身を滅ぼす愛こそが世紀末的であり、つまりは愛と死の合一である、というわけです。とすれば、サロメはよく言われるような、世紀末的「ファム・ファタール(宿命の女)」であることさえ超越した純粋存在なのかも知れません。

 ここで自ら反論を試みると、いや、サロメは結局ヨハネを我が物にできなかったではないか、とも言えます。手に入れたのは首という物体だけです。愛による合一は果たされてはいません。永遠に満たされない存在として、死に至るのです。

 そのことと関連するかも知れないので、サロメの別な結末について、お話ししておきましょう。ワイルドの「サロメ」は、初期の段階では「サロメの斬首」という表題でした。当初の構想では、サロメは兵士たちの盾の下で殺されるのではありませんでした。ヘロディアスの懇願により命は助けられ、宮殿から追放される。サロメはあてもなく砂漠にさまよい出て洞窟に住み、惨めで孤独な暮らしに耐えることとなる。そこにキリストが通りかかり、サロメは預言者ヨハネのことばが正しかったことを知り、再び現世に戻ろうと川と海を渡り、歩き続けるのですが、アルプスを越えてローヌ河近くまできたとき、凍った川を渡ろうとして足を滑らせ、尖った氷に首を切断されてしまう。氷の上に転がった首は銀の皿の上のヨハネの首を思わせる。白い氷の上の、ルビーのような血で染まった頭の上には、金の光背が王冠のように光っていた・・・というものです。

 つまり、ワイルドはサロメの斬首の場面を描くつもりだったのですね。これを舞台劇で上演するのは困難と思われ、現在の形にしたのかも知れません。ちょっとパロディのようにも感じられますが、ヨハネとサロメが同じ結末をたどるというのは、皮肉好きなワイルドらしい展開であるとも言えそうです。

 
Gustave Moreau、Aubrey Vincent Beardsley

 ギュスターヴ・モローGustave Moreauの描いたサロメについて少し補足しておきます。

 フランス19世紀末の作家、ジョリス=カルル・ユイスマンスJoris-Karl Huysmansによるデカダンスの聖書と言われる長篇小説「さかしま」は、デ・ゼッサントという貴族の末裔の主人公が、彼の生きている19世紀の世界を厭い、過去を慕ってついには隠棲して自分の美意識世界にのみ生きる、という話です。最後はそうした不健康な生活が健康を害して、パリの俗塵世界へと戻っていくことが示唆して終わるのですが、このデ・ゼッサントが心酔しているのが、文学ではボードレールとポー、絵画ではギュスターヴ・モローとオディロン・ルドンなんですね。そして自宅に飾っているのがモローの「ヘロデ王の前で踊るサロメ」と「出現」です。じつは私もレコードを聴く部屋に額装して飾っています(笑)


 
「ヘロデ王の前で踊るサロメ」、「出現」

 ちなみにデ・ゼッサントは、当時のフランス社交界でその名を轟かせていたロベール・ド・モンテスキューRobert de Montesquiouがモデルです。マルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」に登場するシャルリュス男爵のモデルにもなっています。私はこの人の写真も飾っています。その隣にサラ・ベルナールSarah Bernhardtの写真も並べています。この皮肉にはロベール・ド・モンテスキューも苦笑いしているかも知れませんな(笑)


  
Robert de Montesquiou、Sarah Bernhardt、Joris-Karl Huysmans


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「サロメ」 オスカー・ワイルド 福田恆存訳 岩波文庫
https://amzn.to/41YvETn

「サロメ図像学」 井村君江 あんず堂
https://amzn.to/3tu27Ed

「ビアズリー」 スタンリー・ワイントラウブ 高儀進訳 美術出版社
「ビアズリーと世紀末」 川村錠一郎 青土社
「ビアズレイの芸術と系譜」 関川佐木夫 東出版





Diskussion

Kundry:やはり、不道徳という理由で上演禁止とされたのですね。

Hoffmann:あらゆる芸術は不道徳である。

Kundry:いまとは時代が違うとは言え、危険思想とされたのでしょうか?

Parsifal:危険ならざる思想など、およそ思想と呼ぶに値しない。

Kundry:これを美しいと考えますか?

Klingsol:美の崇拝は正気の沙汰ではない。正気であるにはすばらしすぎる。

Kundry;そういう考え方って主観的に過ぎるとは思いませんか?

Hoffmann:ひとが真に偏らない意見を出せるのは、関心のない事柄にだけである。

Kundry:生きてゆくためのスタンスの取り方次第でしょうか?

Parsifal:生きるとはこの世でもっとも稀なことである。たいていのひとは存在しているにすぎない。

Kundry:読んでいる本とか観ている映画のおかげで、そうした趣味嗜好の持ち主と思われないでしょうか?

Klingsol:たとえば、芸術家が主題として病的状態を扱うからといって、彼を病的と呼ぶのは、シェイクスピアが「リア王」を書いたからといって彼を病的と呼ぶのに劣らず愚かしい。

Kundry:いまどきの、いわゆる流行小説とは異なったものではありませんか?

Hoffmann:民衆が健康なと呼んでいる流行小説はつねにあくまで不健康な作品であり、民衆が不健康と呼んでいる小説はつねに美しい健康な芸術作品である。

Kundry:流行するような小説はいい作品ではないということですか?

Parsifal:いい作品、悪い作品というものはない、小説はよく書けているか、いないかだ。

Kundry:どんなによく書けている小説でも、人気においては必ずしも流行小説には及ばない場合があると思いますが?

Klingsol:人気とはひとが気にしないですむ唯一の侮辱である。


Kundry:はい、お疲れ様でした。以上、Hoffmannさん、Parsifalさん、Klingsolさんの発言はすべて、オスカー・ワイルドの箴言からの引用でした。たまにはこんなのもいいですよね。私もひとつ、引用しておきましょう。

 人生はまじめに語るにはあまりにも重大な事柄である(笑)



(追記) 音楽を聴く 061 R・シュトラウス 歌劇「サロメ」 upしました。(こちら

(追記 その2) 映画を観る 060 「ケン・ラッセルのサロメ」 upしました。(こちら