047 「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生」 ”Night of the Living Dead” (1968年 米) ジョージ・A・ロメロ




 お花が匂う春の朝に森のこやぶで生まれたのはバンビ、突然理由もなく生まれたのがゾンビです。



 ゾンビと言えば南米ハイチのブードゥー教において、労働目的のために呪術で蘇らせられた死者のこと。それが「人肉を食らう生ける屍」として一般化したのは、この映画の影響によるものです。

 ゾンビが扱われた映画といえば、古くはベラ・ルゴシ主演の「恐怖城」”White Zombie”(1932年 米)があり、その後も「ゾンビの反乱」”Revolt of the Zombies”(1936年 米)や「私はゾンビと歩いた!」”I Walked with a Zombie”(1943年 米)といった映画が制作されているのですが、いずれの場合も、ゾンビは操られているだけの死体に過ぎない存在。イギリスのハマー映画の「吸血ゾンビ」”The Plague of the Zombies”(1966年 英)あたりなると、かなり現在のimageに近くなってきます。しかし、ロメロへの直接的な影響が指摘されるのは、ヴィンセント・プライス主演の「地球最後の男」”The Last Man on Earth”(1964年 伊・米)。

 ジョージ・A・ロメロが「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」で確立したのが、ゾンビの「カニバリズム」と「伝染性」、そして脳を破壊されるまでは動き続けるという特性です。以後、とくにイタリアではゾンビ映画が大流行、制作された亜流ゾンビ映画は、まず本家のモノクロ画面をカラーにして、テンプル騎士団がゾンビになって蘇ったり、ナチスの兵士だったり、のろのろ歩かせずに走らせてみたり、といった、ロメロ・ゾンビに若干のアレンジを加えた程度のほぼ「変化球」の類い。

 ロメロは、先に述べた「地球最後の男」の原作者リチャード・マシスンから冗談で、「よくもアイデアを盗んでくれたな」と言われたそうなんですが、ロメロが言い返したように、この映画でのゾンビは「吸血鬼じゃない」。ロメロが描いたのは正確に言えば「ゾンビ」でもなくて”Living Dead”、すなわち「生ける死者」です。どっちだって同じだろ、ってことにはなりません。それまでのゾンビのように邪悪な主人に付き従っているわけではなく、人肉への飽くなき食欲に取り憑かれているだけ。まあ、周囲がゾンビだというのでロメロもやがて「まあ、ゾンビと言えばゾンビだな」と折れたのですが、ハイチのブードゥー教からは離れた存在です。そしてこの「生ける死者」を退治するときに破壊するのは、人体そのものなのです。つまり、堂々と人間の死に様を描写することになるわけです。亜流のゾンビ映画が、血と内臓がスクリーンにぶちまけられるようなハードコア・スプラッターに流れたのは当然のこと。



 理由も判然としないまま突然死者が蘇り、人間に襲いかかるという状況下で、田舎の一軒家に立てこもった人々とゾンビとの一夜の攻防を、モノクロ映像で描いた、ロメロの処女作。よく言われることですが、噛まれた傷がもとで死にゾンビとなった子供が父親の肉をむさぼり、母親を殺すというのは、家庭及び家族関係の崩壊をあらわしており、生活基盤の最小単位をも破壊することで日常性への衝撃となっているわけです。そして内臓を食らうゾンビ以上におぞましいのは極限状況で浮き彫りになる人間のエゴ。

 さらにただひとり生き残った黒人青年ベンが翌朝救助を求めて外に出ると、ゾンビと間違われて射殺されてしまう。ベンの必死の戦いにはなんの意味もなかった・・・当時ベトナム戦争のまっただ中にあったアメリカへの批判や社会不安を反映させた、皮肉極まりない結末です。射殺された黒人青年ベンはフックで突き刺されて焼却されます。フックに吊られるというのは白人による黒人へのリンチを連想させ、シェパード犬を連れて次々とゾンビを撃ち殺してゆく自警団は嬉々としてリンチを行う南部白人集団のimageそのもの。


Martin Luther King, Jr.

 折も折、この映画が公開されたのはマーティン・ルーサー・キング・Jrが暗殺された6か月後のこと。アメリカでは公民権運動真っ盛りの時期でした。じっさい、地域によっては黒人の主人公など認めがたいとされており、この作品の上映を拒否した映画館もあったのです。ですから、当然のことに、この映画には人種的なメッセージが込められているのではないかと受け取られました。

 ところが、もともと脚本の段階では、主人公には白人を使う予定だったところ、たまたまオーディションで見せた演技がよかったために、黒人俳優デュアン・ジョーンズがキャスティングされたというのが真相でした。しかし、そうして主人公が黒人になったことで、この映画は人種問題をもえぐり出す作品になってしまったというわけです。まさしく、たまたまのタイミングというものが、監督や制作者が意図していなかった要素―それも作品の本質にかかわるものを、生み出してしまったわけです。偉大な作品って、案外とこうして生まれるものなのかも知れません。

 あと、2、3付け加えておきたいことがあります―映画のはじめの方で、バーバラが逃げ込んだ農家には、鹿の剥製が飾られていますが、これは「サイコ」のベイツ・モーテルの鳥の剥製を思い出させ、地下室でゾンビになった娘が母親をセメント塗装用の鏝で刺殺するシーンは「サイコ」のシャワールームでマリオンに振り下ろされるナイフのシーンをそのまま移植したものです。さらに言うと、地下室というのは無意識領域の象徴であり、ここで母親殺しが行われることにもご注意下さい。

 公開当初は評判がよろしくなくて、「第一級のアマチュア映画」なんて評されていたのですが、各都市のドライブ・イン・シアターや一般劇場で人気爆発、ボストンでは2年に及ぶロングランとなり、英国映画協会発行の”Sight & Sound”誌ではこの年のベスト・テンの一本に数え上げられ、評価が確立しました。


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 ジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ映画は次の6作があります。

「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」 ”Night of the Living Dead”(1968年 米)
「ゾンビ」 ”Dawn of the Dead”(1978年 米・伊)
「死霊のえじき」 ”Day of the Dead”(1985年 米)
「ランド・オブ・ザ・デッド」 ”Land of the Dead”(2005年 米)
「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」 ”Diary of the Dead”(2007年 米)
「サバイバル・オブ・ザ・デッド」 ”Survival of the Dead”(2009年 米)


 さらに、2017年に死去する前に残した原案に基づく、新たなゾンビ映画「死者の黄昏」”Twilight of the Dead” が、ロメロ未亡人であるスザンヌ・ロメロによって企画されていたところ、ようやく2023年末にプエルトリコで製作をスタートする予定だというニュースも入ってきましたね。

 私は上記の6作は全部観ているのですが、個人的にはこの第一作だけが突出していいかなと思っています。ここでは「生ける死者」が、「正常な」登場人物たちに対して、ひたすら理不尽な恐怖の対象であることに徹しているのが好ましいんですね。その後の映画では「生ける死者」が「ゾンビ」という名のsupernaturalな存在となって、特定の個人よりも、社会にとっての脅威―恐怖となってしまう。社会性が強まってくると、第一作で匂わせていたものがことさらに声高に主張されるようになる。それでも第二作、第三作あたりは「人間って愚かだなあ」と思って観ていられるんですが、「ランド・オブ・ザ・デッド」あたりになると安っぽい社会派映画と成り下がっているとしか感じられない。もっとも、おそらくそのあたりがかえって評価されているのだろうと思いますが、制作順に観ていくと、なんだかギリシア悲劇でアイスキュロスやソポクレスが本質的・根源的な人間像を描いたのに、エウリピデスに至って社会における人間像となってしまったのと同様なツマラナサを感じるんですよ。ロメロなら、断然この第一作ですね。

 それでも、満更捨てたものではない第二作と、私が「?」となった第三作について、少しコメントしておきます。


 第二作 「ゾンビ」 ”Dawn of the Dead”(1978年 米・伊)

 これも相当な傑作には違いありません。



 第一作がふつうの民家におけるゾンビとの一夜の攻防なら、こちらはショッピングセンターが舞台。さすがにファンも多くてほとんど語り尽くされているとは思うんですが、主人公側に感情移入させられているかと思うと、ゾンビの大暴れに爽快感を覚えてしまうシーンもあり、ときにユーモアもにじませつつ、身勝手な欲に駆られた人間たちの醜さを描いてゆく様はまったく見事と言うほかありません。

 この第二作にはいくつかのversionがあって、私もその内のいくつかを観ているんですが、アクションをゴブリンの音楽にのせてテンポよく観せるダリオ・アルジェント版は、お祭り気分でドンパチを楽しんで、爽快感を求めるのであればこれはこれでアリだとは思いますが、私はユーモアとほろ苦いイロニーが交錯する米国劇場公開版が好きですね。いや、こちらでなくては、良くも悪くも第三作につながっていかないでショ。


 第三作 「死霊のえじき」 ”Day of the Dead”(1985年 米)

 この映画、邦題で損をしちゃいましたね。映画自体は第一作、第二作に及ぶものとは思わないんですが、残酷描写はここまでの三作のなかでは随一、地下要塞という舞台の閉塞感も効果的です。人間側のエゴや醜さを前二作よりも徹底して描いているあたり、その後の作品につなげてゆく中継的な位置付けが可能でしょう。もちろん、なにより悪役のローズ大尉のキャラクターが魅力的ですばらしい。私も、もしも人生の幕引きにゾンビに食われることとなったならば、ローズ大尉のように「おれの肉で窒息しやがれ」なんてセリフを吐いてグチャグチャになりつつオダブツしたいもんです(笑)



 おそらく人気がありそうな知性の芽生えたゾンビ、バブもいいんですが、ベートーヴェンの第九交響曲を聴いたり、ローガン博士が殺されたことを知って慟哭したりなど、そのあたり、ちょっとあざといのが嫌ですね。悲嘆にくれるゾンビに感情移入させて、その復讐の的が悪役ローズ大尉であることから、観客はバブの復讐に胸のすくような思いがする・・・なんてちょっと見え透いている。俳優さんの演技は見事だと思いますよ。言うまでもなく、台詞抜きですからね。

 このあたりの扱いが、いずれ製作されることとなるゾンビ映画を(結果として)予告しているわけですが、逆に言えばここからロメロ・ゾンビの行き詰まりがはじまっているのかもしれません。いや、決して悪くはないキャラクター造形とその扱いなんですけどね、どうもロメロにしてsentimentalismの介入に抵抗できなかったんだなあと思うんですよ。ゾンビを人間として扱ってしまえば、その行く末は社会派ホラーとなってしまうことは自然な成り行き。次の「ランド・オブ・ザ・デッド」の後には外伝的な小さなエピソードを点描したような作品が続いていますよね。つまり社会派は結局行き詰まっちゃうんですよ。

 個人的には残酷趣味は少々やりすぎ・・・と言いたいところなんですが、トム・サヴィーニの仕事ぶりにケチはつけたくない(笑)なお、ゾンビたちの「お食事」シーンで手前を横切っているマフラーのひと、あれはロメロ自身なんですよね。

 さらにもひとつエピソードを―ピッツバーグではゾンビ役のエキストラ募集には苦労しなかったそうで、皆さん喜んでやって来てくれて、なかには大学教授とその夫人なんて人たちもいたそうです。その日の撮影が終了すると、メイクも落とさずにそのままファミリーレストランやマクドナルドに行って食事をしているひとたちもあったとか・・・なんだか楽しそうで、ちょっとうらやましくなりますね(笑)

 「ランド・オブ・ザ・デッド」”Land of the Dead”(2005年 米)以降の作品については特段語りたいこともないので、省略します。なお、「地球最後の男」”The Last Man on Earth”(1964年 伊・米)その他、特筆すべきところのある名作については、機会があれば語りたいと思います。 


(Hoffmann)


参考文献

 とくにありません。




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