011 マーラー 大地の歌 その1 歌詞について




  この作品は私のもっとも好きな音楽です。もしもあらゆる音楽作品のなかからひとつだけ選べと言われたら、WagnerでもMozartでもなく、この「大地の歌」を選ぶことでしょう。とりわけ終楽章(第6楽章)の「告別」は感動的な音楽です。

 とはいえ、わりあいモノフォニックというか、あまり重層的に聴かせるよりは親しみやすいメロディの目立つ音楽ですから、演奏によっては通俗的な歌謡性ばかりが前面に押し出されてくることもあります。とくに現代にありがちな、歌手を楽器の一部のように全体の響きに埋没させてしまうと、うまくいかないようですね。

 この作品はマルマ・マーラーの信頼性低い手記のおかげで、「第九番とするとそれが最後の交響曲になるというジンクスを避けて番号をつけなかった交響曲」という認識が広まっており、じっさい、我が国ではこれまで「交響曲『大地の歌』」と表記されることが多かったようです。

 マーラー自身が「大地の歌」を交響曲と位置付けていたのかどうか、ということについては、前島良雄の「マーラーを識る」(アルファベータブックス)で考察されており、この影響か、近頃は「交響曲ではない」と発言する人が増えてきたようですね。ちなみに私はこの本における著者の主張の多くは「状況証拠」レベルなので、どれもあまり鵜呑みにはせず、参考程度と認識しています。shopやweb上ではたいてい交響曲に分類されておりますが、その方が探しやすいので、それはそれでかまわないと思っています。看板になんて書いてあろうと本質が変わるわけではありませんからね。ただ、もはや無批判にアルマの証言をよりどころにしてマーラーを語ることは避けるべきだと考えています。


Gustav Mahler

 それよりも重要なのは歌詞について・・・言い換えれば「原詩」についてです。

 マーラーの「大地の歌」の歌詞はハンス・ベトゥゲ Hans Bethge が1922年に出版した漢詩のドイツ語訳アンソロジー「中国の笛」”Die chinesche Floete:Nachdichtungen chinesischer Lyrik”から選んだもので、第1楽章は李白、第2楽章は銭起・・・などとされていました。

 これをあらためて検討したのが、NHK交響楽団のプログラム「フィルハーモニー」から執筆依頼を受けた故吉川幸次郎で、NHK交響楽団の1970年10月のプログラム「フィルハーモニー」に「『大地の歌』の原詩について」というエッセイが寄せられており、ここで従来の説の修正されるべき点が明らかにされています。このエッセイは、その後以下の本に収録されています。

 「他山石語」 吉川幸次郎 (1973年 毎日新聞社、1990年 講談社文芸文庫)
 「吉川幸次郎全集 第24巻」(1977年 筑摩書房)
 「音楽の手帳 マーラー」(1980年 音楽之友社)

 ところが、どうもレコードやCDの解説書は相変わらず旧来のまま、ということが多いようです。

 吉川幸次郎のエッセイに語られているところをまとめてみると―

第1楽章 「大地の悲しみによせるうたげの歌」 ”Das Trinkleid vom Jammer der Erde”

 ベトゥゲの本に見えるものをそのまま使っており、”Li-Tai-po”と署されているため李白とされており、感情はいかにも李白的ではあるが、このとおりの詩は李白の詩集に見当たらない。この歌詞の主題となったような感情をうたう歌はいっぱいあって、たとえば「将進酒」「襄陽の歌」が挙げられる。「永遠に蒼い空」「また常春なる大地」といった悠久の自然と対比して、人生のあわただしさを悲しむのは、李白のみならず、中国の詩にあまりにも普遍的な感情である。

第2楽章 「秋に寂しき者」 ”Der Einsam im Herbst”

 ベトゥゲでは冠詞“Der”を“Die”としており、”Tschang-Tsi”と署するのを従来は銭起としていたが、「銭」の中国音は”ch'ien”であり、張籍か張継か。しかし銭起をふくめていずれの詩集にもこの歌詞を生んだと思われるものを見出せない。

第3楽章 「青春について」 ”Von der Jugend”

 ベトゥゲでは李白の”Die Pavillon aus Porzellan”「陶器の亭」とされているが、李白の詩集には相当するものがない。

第4楽章 「美しきものについて」 ”Von der Schoenheit”

 ここではじめて原詩の見当がつく。これは李白の「採蓮曲」。ベトゥゲは”Au Ufer”「渚にて」と題して、だいぶ変形しているものを、マーラーはいっそう変形している。


第5楽章 「春に酔いて」 ”Der Trunkene im Fruehling”

 ベトゥゲの”Der Trinker im Fruehling”で、原詩は李白の「春日酔起言志」。ベトゥゲもあまりいじっておらず、マーラーもそのまま使っており、全6楽章のうち、もっとも原詩に近い。

第6楽章 「告別」 ”Der Abschied”

 ベトゥゲの”In Erwartung des Freundes”「友を待ちて」と”Der abshied des Freundes”「友の分かれ」のふたつを綴り合わせている。前者はMong-Kao-Jenすなわち孟浩然、後者はWang-Weiで王維。ベトゥゲは原詩に忠実だが、マーラーは自由に綴り合わせて自由な附加を行っている。しかし変形を受けながらも、その感情は依然として中国的、少なくとも唐詩的であり、マーラーの作曲もそれを増幅する。


Hans Bethge:Chinesische Floete

 ひとつ補足しておくと、ベトゥゲ自身は中国語の一文字も知らず、その後記にハンス・ハイルマンの「支那叙情詩」(1905)、ジュディット・ゴーチエの「硬玉の書」(1867)、エルヴェイ-サン-ドニイの「唐の詩」(1862)による、と書いているんですね。つまり、他人の独訳を選んできただけ。「編」はしているけど「訳」はしていない、そもそもできない。そしてハイルマンの「支那叙情詩」は後の二書によったものなので、原詩から遠のいても無理もないことなのです。で、以下は私自身が確認したことではないのですが、じつは第3楽章の詩は「硬玉の書」に載っているジュディット・ゴーチエ自身の創作詩で、それをハイルマンを通じてベトゥゲが李白の詩として「中国の笛」に採録したということらしいのですね。なので李白の詩集に該当する詩が見つかるわけがない。それにしてはいかにも李白的な詩で、ジュディット・ゴーチエもなかなかの才女です。ワーグナーに気に入られただけのことはありますね。

 ※ ジュディット・ゴーチエの創作という従来の説を覆す、第3楽章の原詩を特定する研究が発表されていました。詳細は「(追記)」として記載したlinkページを参照して下さい。

 また、第1楽章については、「李白 巨大なる野放図」(平凡社)の宇野直人は原詩を「悲歌行」としており、だとするとベトゥゲが(あるいは引用元の編者が)かなり変形したということになりますが、なるほど、たしかにそうかもしれないと納得できます。

 ここでその李白の「悲歌行」を引用しておきましょう―

 
悲歌行

 悲しいかな
 悲しいかな
 主人 酒有るも 且く斟むこと莫れ
 我が一曲 悲来の吟を聴け
 悲来 吟ぜず 還た笑はず
 天下 人の我が心を知る無し
 君に数斗の酒有り
 我に三尺の琴有り
 琴鳴 酒楽 両ら相得たり
 一杯 啻に千鈞の金のみならず
 悲しいかな
 悲しいかな
 天は長しと雖も 地は久しと雖も
 金玉満堂 応に守らざるべし 
 富貴百年 能く幾何ぞ
 死生一度 人 皆有り
 孤猿 坐して啼く 墳上の月
 且つ須らく 一に杯中の酒を尽すべし
 ・・・(以下十八句、省略)・・・


 さて、あらためてマーラーの「大地の歌」を聴いてみると―

 第1楽章は無常なる大地を憂えて、「生は暗く、死もまた暗い」を3回繰り返すのがたいへん印象的です。酒を飲み、琴を弾ずることで、そうした自然を肯定して、あたかもニーチェの永劫回帰の思想のような、絶望やニヒリズムとは無縁の楽天性がうかがわれます。

 そして、マーラーの音楽は第2楽章こそ緩徐楽章で静かなものですが、第3楽章から第5楽章までは、たいへん楽天的です。第5楽章の原詩なんて、そんなに楽天的な内容ではないんですが、この音楽で歌われてもあまり違和感を感じない磊落さが感じられます。

 第6楽章に至って、別れを告げる友は厭世的な孤独者でありながら、大地(自然)と一体化してそこに安住しようとしている情景が歌われます。やがて春が巡ってきて、死と再生を永遠に繰り返す大地に、あたかも東洋的な輪廻が見出されるようです。これは歌詞と音楽が分かちがたく一体化していますね。マーラーがニーチェの永劫回帰や東洋の輪廻思想をどこまで意識していたものかはわかりませんが、「大地の歌」はそのように歌い、語っています。ここに至って、マーラーは既成の宗教、ましてユダヤ教やキリスト教による救済を求めてはいない、と見ても間違いではないでしょう。いや、そんなことは第8交響曲のゲーテ「ファウスト」の「神秘の合唱」の時点で、すでに明らかだったことなのかもしれません。


(Hoffmann)

012 マーラー 大地の歌 その2 LP篇 (こちら

013 マーラー 大地の歌 その3 CD篇 (こちら


(追記)

 やはり研究している方はおられるようで、「大地の歌」の歌詞(原詩)については、以下のwebサイトが参考になります。

https://www.kanzaki.com/music/ecrit/mahler-erde.html
https://www.kanzaki.com/music/ecrit/mahler-erde-trans.html#v3-h1

http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/mahler-erde1.html
http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/mahler-erde2.html

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 長らく原詩が不明とされてきた第3楽章ですが、1989年に原詩を特定する論考が発表されていました。上記link先でその内容を確認することができます。ただし、ジュディット・ゴーチエの誤訳という前提に基づくもので、またそもそも原詩にかなり手を加えられていることも明らかであり、この説には批判もある模様です。