069 「箱男」 安部公房 新潮社




 「箱男」とは、ダンボール箱を頭から腰までかぶり、都市を彷徨する男のこと。一人称の語りに加えて、新聞記事や詩、写真や供述書などがたびたび挿入されており、おまけにひとつひとつの章が、不規則に並べられていて、読者の側はそれを再構成することで参加できる(せざるを得ない)という実験的な小説です。書き下ろし作品で、発表は1973年(昭和48年)3月30日、新潮社より刊行されました。


安部公房

 この頃の安部公房は、インタビューやエッセイで、自作についてよく語っているんですよ。安部公房自身が語っていたことからいくつか拾っておくと―発想のきっかけは浮浪者の取り締まり現場に立ち会った際に、上半身にダンボール箱をかぶった浮浪者と遭遇してイマジネーションが膨らんだと安倍公房は語っています。また「贋医者」については戦争中の経験を積んだ衛生兵が、自分(安部公房は東大医学部卒業)よりも技術が上で、国家登録か否かで、本物か贋物か判断するが、実際は免状を持つ医師が危険な場合も多い現状も問題として提起しています。つまり、「乞食」である「箱男」と「贋物の<箱男>」の関係については、本物と贋物ということが、実際の内容であるよりも登録で決まるという問題。さらに、見る・見られる、覗く・覗かれるという関係、人間の帰属の本質的な意味について・・・等々。

 なにしろ作者自身が方々でいろいろ語ったり書いたりしていますから、評論家もたいていそれを参考にして安部公房や「箱男」について論じていましたね。

 なので、あえてここで私なんぞが論じて語ることもないんですが、じつは前回のParsifal君による「心霊写真」の話で思いついたことがあるので、その点だけ―。

 まず、この小説は物語ではありません。ですから、ここで「あらすじ」を紹介しないのですが、そもそも「あらすじ」なんて意味がないんです。物語ではないんですから。物語というのは、因果律があるもの。AだからBになった、Cが起こらなかったのでDとはならず、Eになった・・・という因果関係、それも読者に関連性が容易に想像できる程度のもの。そういうものがない。安部公房のほかの作品だと、読者が想像する因果律が「裏切られる」ことが多いんですが、「箱男」ではそもそも、ない。

 だから、運命は交換可能、箱男の箱の内部と路地裏も交換可能、語り手やノートを書いている「ぼく」も入れ替わりが可能。なので、storyを追うような読み方をしたら、なにがなんだかわからないのも当然のことなんです。それでも、デタラメを並べているわけではありません。こうしたときによく利用されるのが探偵小説の形式。追う者と追われる者。誰を追っているのか、なぜ追っているのか、そんなことは説明しなくても問題ありません。だいいち、探偵小説だったら犯人が誰なのかわかりませんから、追っている対象なんかわからなくても問題ない。

 このあたりで勘のいい人はもうお気付きでしょう。この小説は、ズバリ言ってしまうと、発表時期に流行っていた「反小説(アンチ・ロマン)」なのです。ロブ・グリエあたりの影響ではないでしょうか。従って、作者本人があれこれ発言しているからといって、そこに従来型のテーマを見出そうとするのも、少々的外れ。いや、数多くの評論家が見つけだした(つもりでいる)テーマが的外れなのではなくて、テーマというものを見つけだそうという行為そのものが、的外れなんです。

 一人称の入れ替わり、挿話や写真の挿入など、読者が「再構成」することで参加できる形式を試みた、実験的な小説・・・といえば聞こえはいいのですが、実験的ということは、完成していないということです。安部公房がテーマかモチーフか、いろいろと並べ立てていますが、そうした要素に重要度の優劣はなく、回答・解決が示されることはない。

 で、安部公房はこの後、1977年発表の「密会」や1984年の「方舟さくら丸」では普通にstoryを紡いでいる。この「箱男」は従来型の小説ではなく、過渡期における、あくまで実験作であったと見るべきなのではないでしょうか。その意味では、「箱男」はそれまでの安部公房の作品の集大成とは言わぬまでも、ひとつの区切りに位置する作品だと思います。しかし、いまとなっては「古い」。まさしく1970年代初頭の「アンチ・ロマン」の流れのなかに位置していて、以後の「密会」「方舟さくら丸」はもとより、これより以前の「燃えつきた地図」「他人の顔」「砂の女」とくらべても、その時代を感じさせてしまう小説なのです。

 それでは、安部公房が意識していたのか意識していなかったのか、この小説「箱男」に見ることができるものはなにか。それは、挿入された安部公房撮影による写真がもたらすものです。前回の”Diskussion”におけるParsifal君の発言を思い出して下さい。

 あと、この本で語られていることなんだけど、インチキ心霊写真師や土産物の亡霊写真の制作者たちと同じ手法、すなわち二重プリントや合成プリント、ソラリゼーションなどを駆使したのが、シュルレアリストたち、たとえばマックス・エルンストやマン・レイなど。しかし、心霊写真が死によって分かたれたものとの再結合を表明して、物質界と霊界との分断を超越しようとしていた。つまり心霊写真が目指すものは潜在意識ではなく、「超在」意識、死後の霊的な意識であったのに対して、シュルレアリストは現実と夢の分離を伝えようとした、というのが著者の主張だ。

 心霊写真の件はいいとして、シュルレアリストが伝えようとしたものの話です。写真が、人間の視覚・視点と大きく異なるのは、人間がなにかを見るときの眼差しは、対象だけを見ている。周囲にあるものは、見る者にとって無意味であれば、まったく注意を払いません。見ているようで、見ていない。しかし、写真というものは、そのような対象の差別化を行わず、被写界深度内(小説中では「焦点深度内」)のものであれば、関心のないものでも克明に写し仕込んでしまい、その写真を見る者に突きつけてくる・・・見た覚えのないものも、見たはずであると。つまり、これが無意識の領域なんです。

 安部公房は撮影上のトリックを駆使したり、現像の際に手を加えたりはしていないと思いますが、カメラで写真を撮るということには、普通にシャッターを切っただけでも、そうした効果があるのです。


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「箱男」 安部公房 新潮社




Diskussion

Parsifal:たしかに、安部公房の小説の中でも、特異な位置にある作品だよね。

Klingsol:次の「密会」と対になるようなimageがあるな。「箱男」は救急車のサイレンの音で終わり、「密会」は救急車のサイレンの音ではじまる・・・。「箱男」の視線に対して、「密会」は盗聴器で聴くことが重要なモチーフになっている。

Kundry:帰属とか帰属離脱というテーマはよくわからないのですが・・・都市における参加の機会に関しては、現代のようなインターネットの時代になってしまうと、かなり自由に振る舞えるようになっていますから・・・。

Hoffmann:「匿名性」が問題になるかもしれないね。でも、安部公房が問いかけたような問題は、だれも気にしていない。歴史上の問いにはなっていないんだ。

Parsifal:安部公房が現代人とか都市とか、そういったものについて考えていたことがスルーされているだけじゃない?

Hoffmann:かなり根本的な問題を取り上げているからね。ほとんどの人は気にしていない(笑)だから、現実がもっと先へ行ってしまったように見えるんだ。

Parsifal:だとすると、読者の問題か・・・。

Hoffmann:帰属にしたって匿名性にしたって、みんな、そのときどきで都合のいいように使い分けているじゃない。上手いこと立ち回っているんだよ。だから、個と社会の関係になると、あまり形而上学的な取り組みはされなくなってきたんだよ。もっと、実利的な関わり方にしか関心が持たれていない。フェミニズムの台頭なんかがいい例だ。

Kundry:Hoffmannさんはあまり社会派じゃありませんからね(笑)

Hoffmann:否定はしない、そこに時間と頭を使うことにどれだけ意味があるのか・・・(笑)だから、「他人の顔」とか「砂の女」だったら、個人の内面とか精神構造的なものに対する興味で読めるけど、「箱男」とか「密会」になると、ちょっと煩わしい要素を感じることも事実なんだ。


Kundry:文体、というか、語り口はそれまでの安部公房ととくに変わりはないのですけどね。比喩や形容が、絶対に紋切り型にならないところはさすがです。

Klingsol:ここでは、「アンチ・ロマン」という「実験」が作品を古びたものにしてしまった、とは思えるね、たしかに。ただ、物語性を放棄したのは当然の成り行きだろう。あらためて感じたのは、Hoffmann君が言うようなロブ・グリエからの影響よりも、これ、じつはカフカがとっくにやっていたんじゃないかっていうことだな。