075 「オルレアンのうわさ 女性誘拐のうわさとその神話作用」 エドガール・モラン 杉山光信訳 みすず書房




 オルレアンはフランス、ロワール県の県庁所在地、パリの南100キロに位置する地方都市です。そのオルレアンで、1969年5月、ひとつのうわさが広まりました。

 何人かの女性が行方不明になっている、ブティックの試着室で薬物を嗅がせるか注射するかして、地下の通路を経て、果ては外国の売春街に攫われていった・・・と。当の婦人服店は最初は一軒、ついで二軒とされ、後には六軒が名指しされることになります。

 ところが、警察にはだれひとりとして行方不明になったという届けが出ていない。新聞も、ラジオもテレビも、このうわさに関係する事実をまったく報じていない。従って、このうわさはつねに口から耳へという経路で広まっていったのです。そうして、何万人というオルレアンの人々は女性誘拐が行われていることを本気で信じ込まされていきました。注目すべきことのひとつに、六軒の婦人服店はすべてユダヤ人の商人が所有し、経営するものであったという事実があります。

 そして、じつはこれはオルレアンだけのことではなく、洋装店を標的に、同時期に同様なうわさがポワティエ、シャテルローでも発生しており、その後パリ、トゥールーズ、リモージュ、ドゥーエ、ルーアン、ル・マン、リール、ヴァランシエンヌでも同一の筋書きのうわさ広まっています。

 どうも、うわさを誘引したのは雑誌「黒と白」に掲載された女性誘拐記事であったらしいのですね。これはもともと1969年にフランス語に翻訳されたイギリスのジャーナリスト、シュテファン・バーレイによる「性の奴隷制」に収録されていた事件をそのまま再録したものでした。実業家の若い妻が洋装店に入ったきり戻らず、外で待っていた夫が店で妻のことを訊ねても「私どものところでは、お見受けしませんでしたが」との返答。夫が警察官を連れて店を捜査すると、裏部屋で深い眠りに陥っている妻を発見する、妻の右腕には注射の痕が見られた・・・というもの。この号の雑誌が発売されたのが5月10日なのです。

 これを直接の発端と呼ぶべきなのかどうかは別にしてこのようなうわさが広まった背景は―

 まず、反ユダヤ感情、それも、マス・メディアとは関係のない、うわさだけに関係する潜在的な反ユダヤ感情です。「おい、あれをやったのはユダヤ人なんだぜ」―と。

 次に、試着室の罠というテーマ―というより、私はモチーフということばが適切だと思うのですが―服を脱ぐ秘密の小部屋、密室ではなく、カーテン一枚で仕切られた不安定な密室が創造力に働きかける危険性。

 そして、これはオルレアン固有の要因と考えられるのですが、5月10日、この都市の中心街に、少女たちや若い女性向きの洋装店が開店していました。この店は、よくはやっているユダヤ人の所有する店に対抗するべく、試着室を地下に作り、地下牢のような装飾を施して、ちょっと不思議な雰囲気を演出していたのです。つまり、たまたまタイミングよく、「黒と白」の記事による筋書きに、うわさが現実化するための舞台装置が用意されてしまったわけです。

 うわさは思春期の少女や若い女性たちを対象にした事件です。その対象となっている世代の女性たちの性的なことへ欲求と恐怖。欲求は恐怖や不安と分かちがたく結びついているのです。大人の生活に入っていく不安、現代という新しい時代の性格から来る不安・・・。

 一方で、成熟した(年配の)女性たちの精神面は、先進的なファッション(当時ならたとえばミニ・スカートなど)に不道徳や性的堕落を感じ取って眉をひそめる感情、さらに保守的であればミニ・スカートなど売春に通じるという先入観が潜在的にあったわけです。このうわさ=妄想は、彼女たちに、若い女性に対する失われかけていた権威を取り戻させる機会となったわけです。つまり、うわさはモラルと教訓の説教へと変化する。

 さらにうわさの原因に、地方都市ならではの事情もありました。さびれた都市の不安な気分、空しさ、退屈。そしてすぐ近くの大都市パリがこの地方都市に及ぼす影響。そうした雰囲気を背景とする、地方の上流ブルジョワ社会が崩壊・衰退していく時代、女性解放が進んでいく時代。各人に対して責任ある市民として振る舞うように求める古典的な都市文明などが失われてゆき、現代的な精神構造が広まっていった結果の、空しい気分が地方都市を覆っていたのです。

 うわさはエスカレートしていきました。マスコミや警察がこの問題を取り上げないのは、買収されているからだ、としてユダヤ人商店主に加えて知事にまで脅迫状が舞い込みます。警察署長は「私は100万フランもらっていると言われましたよ」と言っています。

 中傷された6人の商人たちは名誉毀損で告訴の手続きを取りましたが、うわさの容疑者を逆探知することなどできるはずもありません。おまけに、警察が、行方不明に関するいかなる告訴も受け付けていないこと、名指しされている商店主が名誉毀損で告訴したことが新聞で報じられた翌日、店の前にはいくつもの人の群れができて、ショーウィンドウが破壊されたのです。事態はかえって悪くなったわけです。

 この、雑誌記事から現代版に再構成された「神話」によるヒステリックな狂乱は、ある面で陰謀論と似ており、またある面ではUFOフォークロアのような、人々の思考の陰画でもあるように思えます。少女たちの性への不安も、年配女性の嫌悪感も、おそらく多くの人々の潜在的反ユダヤ主義も、それぞれがオルレアンという都市全体を覆い尽くして、この妄想imageに対する防御反応はほとんど役に立たないほど微弱だったのでしょう。第二次世界大戦が終結して、反ファシズム(反ヒトラー)の教化が人々の記憶から薄れてきた時期、つまり「『戦後』が終わった」と言われた時期に、こうした事件が発生したことは象徴的であったと思えます。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「オルレアンのうわさ 女性誘拐のうわさとその神話作用(第2版)」 エドガール・モラン 杉山光信訳 みすず書房




Diskussion

Klingsol:警察やマスコミが否定しても「おれは知っているんだ」というのは、たしかに、陰謀論と似ているね。

Hoffmann:誘拐された女性の直接の知人はいなかったわけだろう? 自分で確かめたわけでもないことを、真実だと信じ込んでいるんだから、UFOフォークロアとも似ているよ。

Parsifal:UFOフォークロアだと「おれの知り合いの友達が・・・」なんてパターンが多いんだよね。

Kundry:事件が起きたのであれば、起きたことは証明できますけれど、「事件が起きなかった」ことは証明できませんからね。

Parsifal:誘拐された女性のうちのひとりは警官の家族だ、なんてこともまことしやかにうわさされていたらしい。

Hoffmann:この事件に関しては、最初の雑誌記事を除外すれば、マスコミが絡んでいないんだよね。

Parsifal:1969年という脱「戦後」の時期に発生したということも意味深いと思うんだよ。

Klingsol:社会が新たな犠牲の子羊を求めていたってこと?

Parsifal:そう、それはユダヤ人に対する感情で、そこに、世代間のズレとか、地方都市の現代的な風俗とのズレが作用したんじゃないかな。

Hoffmann:ヒステリー・・・というより、集合幻想だったんだな。

Klingsol:1969年のフランスに、迷信深い中世都市が出現したかのような印象があるね。

Hoffmann:これまで、田舎や江戸時代がのどかで素朴だなんて予定調和の世界ではない、という話は何度も出てきたけど(たとえばここ)、事情はヨーロッパでも同じなんだな。

Kundry:ヨーロッパに関しては反ユダヤ主義という、歴史上長期にわたる風土病が蔓延していましたからね。それがまたふとしたはずみで表面化した事件なのでしょう。

Parsifal:ペストのときに、キリスト教徒が、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだと告発したのは、ペストの流行というきっかけがあったわけだけど、この事件の場合はそのような具体的な被害がないところではじまっているからね。ことばは悪いけど、でっち上げだ。この本の著者は反ユダヤ主義が主たる原因ではないと分析しているんだけど、市民の信仰や教会関係を調査していない。個人的にはやっぱりユダヤ人に対する感情がいちばんの原因だと思うな。