090 「希臘藝術模倣論」 ヰ"ンケルマン 澤柳大五郎譯 座右寶刊行會




 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンJohann Joachim Winckelmann(1717.12.9.-1768.6.8.)は、18世紀ドイツの美術史家、今回取り上げるのは近代思想に大きな影響を及ぼした名著、ヴィンケルマンの代表作です。

 私の手許にあるのは、かなーり以前に、神田の古書店街で入手したもので、昭和18年刊。現在は岩波文庫から「ギリシア芸術模倣論」(田邊玲子訳)の表題で出ています。

 ヴィンケルマンは1717年、ブランデンブルクの貧しい商人の家に生まれて、神学を学び、若い頃からホメロスをはじめとするギリシャの古典文学に憧れて、独学で研究を続けていました。1754年、研究のためプロテスタントからカトリックに改宗して、その翌年に発表されたのが「ギリシア芸術模倣論」。没年は1768年。ウィーンへ赴き、ローマに戻る途中のトリエステでイタリア人に殺害されました。これはウィーンで授与された金メダルを狙われたためと言われています。

 ここで「言われています」という表現をしたのは、別な事情が推測されるためで、それを小説形式で描いているのがフランスのドミニク・フェルナンデスによる「シニョール・ジョヴァンニ」田部武光訳(創元推理文庫)です。イタリアの映画監督パゾリーニが殺害されたときの通説(現在では実行犯とされていた男性が、新たな証言をしていますが)とよく似た状況です。興味のある方はどうぞ・・・って、いまは入手困難かな。



Johann Joachim Winckelmann

 さて、本書の主張するところをひとことで言えば、芸術の真髄は「高貴なる単純と静謐なる偉大」にあり、ということ。すなわち当時言われた「新古典主義」の精神を称揚するものです。この本が書かれたのは、18紀半ばからポンペイの発掘などにより考古学的な知識が増えて、古代遺物の収集が行われた時代。そうして発掘された古代ギリシャ美術を、ヴィンケルマンは「高貴なる単純と静謐なる偉大」と表現して、その普遍的な理想美は古代ギリシアにおいて実現していた、とするのです。

 ところが一方で、ローマの廃墟やアルプスの風景からは、別な意味での崇高美が見出され、これがロマン主義風景画の誕生につながってゆく。これを準備したのがエドマンド・バークの「崇高と美の観念の起源」(1757年)。広大なもの、恐怖を呼び起こすものに接したときに引き起こされる感情を「崇高」と定義して、積極的に評価しました・・・が、これはまた別な話。でも、このことは記憶しておいて損はありませんよ。

 話を「ギリシア芸術模倣論」に戻すと、これは40ページあまりの小著であり、しかもわずか50部という小部数の発行にもかかわらず、たいへんな反響を巻き起こして、無名の小学校教師に過ぎなかったヴィンケルマンは、一躍「時の人」となります。間髪入れずにフランス語やイタリア語への翻訳の申し出があり、わずかな例外を除いてそのほとんどは称賛の声。

 ヴィンケルマンが「ギリシア芸術模倣論」でかかげた「古代人の模倣」や「高貴な単純と静かな偉大さ」といった概念は、その後美術の世界だけではなく、文学や思想の分野でも大きな影響を与えることとなりますが、どうもじっさいのところその影響はドイツを中心としたもので、フランス、イタリアあたりではさほど大きな影響力を持ち得なかったようでもあります。

 ヴィンケルマンが「古代の模倣」によって求めたものは,あくまで理性に与えられた美である「理想美」であり、「普遍的な美の概念」でした。つまり、感覚的な美ではない。理性に与えられた像によって作られた、つまり自然の一種の理想の美であると主張しています。

 また、「模倣」Nachahmungは「真似」Nachmachenではない。このふたつの違いは、後者が模倣するものを理性によって導いていることろにある。あくまでも、理性の働きを重視しているのです。結果、すべての芸術は人を楽しませると同時に人に教えるものでなければならないとしています。18世紀の啓蒙主義を先取りしているわけです。だから、この本は個々の作品について解説する作品論をするよりも、理論的考察ばかりしている。体系的な理論の構築に意を砕いているのです。少々極端な言い方をすれば、芸術家の個性を重視するよりも、教育的な歴史的発展を重視しています。芸術の話なんだか、学問の話なんだか、わからないくらい。

 それでは、ロマン派はどうか。ヴィンケルマンに続く19世紀の古典主義者からロマン主義者への流れです。

 近代の、とくにドイツの著名な美学者や哲学者は、そのほとんどが古代ギリシアに対して偏愛とも言うべき理想を抱いているのですが、これは彼らがヴィケルマンが描き出した古代ギリシアのイメージに魅せられたから。ゲーテなんかがいい例ですね。

 それでは、ロマン主義の陣営ではどうか・・・といったことがすぐに問われるわけですが、「陣営」なんて言ってしまうと印象操作。まずはロマン主義が古典主義とは対立する立場なのかどうかという話から―。

 一応対立はあったとして差し支えないのですが、古典主義なんて概念は17世紀にはなかったんですよ。ロマン主義が「理性、規則、秩序、正確さ」といった概念を批判したので、逆に、「理性、規則、秩序、正確さ」が古典主義者の旗印だということになったのです。ロマン主義が古典主義の形を整え、明確に定義したのだと言ってもいい。ここのところ、大事ですよ。古典主義者が「わたくし、こういう者でございます」なんて自らを定義したわけではない。アメリカ・インディアンがコロンブスの船を見て、「や、コロンブスだ! とうとうおれたちは発見されたぞ!」「はじめまして、我々はアメリカの先住民族です」なんて自己紹介するわけがないんです。

 じっさい、フランスのロマン主義者は、ドイツ・ロマン主義の影響のもとに、文芸を解さぬブルジョワと、公式的芸術家、そしてフランス的伝統に忠実であるすべての理性・規則・秩序・正確さといった古典主義の伝統を攻撃しました。古典主義ということばと概念は、ロマン主義者からの批判によって、その像が明確になったのです。すると、18世紀のヴィンケルマンや人文主義者は、その準備、言わばお膳立てをしたということになります。

 ヴィンケルマンに対するいくつかの批判を要約すると、まず第一に模倣に高い価値があるのかという批判があります。むしろ内面から湧いて流れ出るような霊感にそって描くことが望まれるのであって、模倣などという教育的な規範は芸術には本来必要ない、とする考え。

 そして外界ではなく自らの内面に基づいて創作することこそ、芸術家の理想的なあり方であるとする考え。個人的なものから断絶した普遍的な美なんて、そのようなものがあるのか、という疑い。それぞれの時代、さまざまな地域、多種多様な文化によって芸術の形態は異なり、それはすべて肯定されてよいとする考えです。ある民族の作品は愚かな誤りであり、別のある民族の作品こそが正統であるなどといった優劣などあるものかってんだい―と。

 古代ギリシア美術中心主義など、自分の立つ場所がつねに全体の中心であると想像する愚かな裁判官だ。ギリシアが建てたような殿堂を建てなかったといって、中世人を弾劾しようとするのか。そのような理性の行使は排他的であるという点で、古い迷信よりもなお劣っている・・・すなわち、古代ギリシアのみを絶対化する古典主義美学の帰結は、芸術の終わりと現在の否定を意味するという批判があるわけです。

 時代はぐっと下りますが、古代ギリシアに絶大な理想を抱きながらも、その下に留まるのではなく、それを越えていくことを目指したのがニーチェです。

 ヴィンケルマンとニーチェでは、古代ギリシアそのものに対して抱くimageも異なります。というより、18世紀人のギリシア理解は、それこそロマンティックなものだったのです。その誤解は、現代人が「水戸黄門」あたりを観て抱く江戸時代の民衆のimageのようなもので、英雄的精神と市民精神、彼らの芸術と詩歌、彼らの美しい国土と気候、天真爛漫、一年中が乾期・・・じゃなくて歓喜のうちにあるような、健康的で幸福な世界と、そこにいる美しい容姿と鍛え抜かれた肉体の持ち主たち・・・古代ギリシアとギリシア人をそうしたものだと信じていたのですね。ま、ブラジル人は全員サッカーが上手いと思っているようなもんですな(笑)だから、ヴィンケルマンの「ギリシア芸術模倣論」には、彼がギリシア芸術に(勝手に)見た(と思っているもの)が反映されており、結果、それは多くの誤りと荒唐無稽な思い込みによる偽造なのです。

 じっさいのところ、古代ギリシアというのはむしろ非道徳的。道徳的義務や規範はポリスが与えるわけですが、哲学者の倫理学などどこ吹く風、名誉心が強いがためにねたみや非難のことばが公然と語られるのは他の民族にも類を見ないレベル。復讐が美化され、虚偽の宣誓をするのに良心のとがめもない。現在あるような人類愛の概念は未だなく、捕らえられた外国人は奴隷にされた、というのがブルクハルトの主張です。

 また、ヴィンケルマンは、古代ギリシアにおいて美術家は神の如く尊敬されたなんて言っていますが、これこそまさしく「見てきたような嘘」で、古代ギリシアの彫刻家たちは単なる職人、「俗業家」として市民からある種の社会的軽蔑にさらされていたと言われています。なので、当時の哲学者やソフィストも、彫刻家についてだけは語っていない。彼らを見下していたんですよ。

 つまり、ヴィンケルマンの古代ギリシアについての知識は、誤りだらけ。さらに追い打ちをかけると、古代ギリシアの彫刻家が造形したと彼が信じていた「ベルヴェデーレのアポロン」は、じつは後の時代のローマ人によるコピー品でした。語っているのは実在しない、(己のための)理想郷。こうした誤りを修正した古典主義者もいたことはいたのですが、どうも「知識」と「美学」は別問題と考えていたのか、ヴィンケルマンが描き出した古代ギリシアの理想的なイメージそのものが破棄されることはなかったのですね。



「ベルヴェデーレのアポロン」”Apollo del Belvedere”、高さ2.24mの大理石像で、ギリシア神話の蛇の怪物、ピュートーンに弓を放ったアポロンの像。紀元前350年から325年の間にアテナイの彫刻家、レオカレスLeocharesによって作られたと考えられている青銅彫刻をもとに、2世紀のおそらくハドリアヌス帝の時代のイタリアで、大理石で複製されたものであろうと考えられています。再発見されたのは15世紀終わり頃。右腕の下半分と左手が欠けていたため、ミケランジェロの弟子の彫刻家、ジョヴァンニ・アンジェロ・モントルソーリGiovanni Angelo Montorsoliが修復。

 一方でニーチェはというと、1872 年の処女作「悲劇の誕生」において、古代ギリシア悲劇の本質的な意味を、主人公の破滅と没落を通して事物の最奥の深淵を人々に開くことであると捉えています。このなかで、ニーチェが提示したのが、アポロン的なるものとディオニュソス的なるものです。このふたつの力はその名が示すとおり、古代ギリシアの神であるアポロンとディオニュソスからとられたもの。ニーチェは、このふたつの力が融合することによって古代ギリシアの悲劇が生まれた、と述べています。

 アポロン的芸術とは彫刻や叙情詩といった造形的な表現を有する芸術であり、一方ディオニュソス的芸術とは音楽などの非造形的な芸術。両者はその性質上対立するものでありながら、ギリシア悲劇においては合唱隊(コロス)による音楽と俳優による詩がひとつになることで、両者が一体化するとしています。しかし、ここで重要視されるのは、なんといってもディオニュソス的なるもの。

 ディオニュソス的なるものの表出は、彼らの祝祭にあらわれる性的放縦や残虐性といった無秩序の世界、節度を欠いた激情の世界です。それは主に東方から伝えられた熱狂的な激情の世界。自らに本来的であったアポロン的気質はこれに抵抗する。

 観衆は、アポロン的な個別化と秩序化の力とは反対に、悲劇において自身の個別性が破壊され、舞台上の合唱隊(および俳優)を介して、他者との一体化、そして根源的かつ自然的なるものとの一体化を体験する・・・これがニーチェが古代ギリシアの悲劇に見出した哲学的な意味なのです。自身の安定や個別性を危険にさらすようなディオニュソス的なるものの力に惹かれたのは、ディオニュソス的な芸術は永遠の現象だから。古代ギリシア人は生存の苦悩を直視しながら、逆説的に、そのような苦悩と不即不離である生そのものの肯定を体験するという、いかにもニーチェ的な洞察ですね。苦悩をはらむ生に対する力強い肯定こそが、ディオニュソス的なるものの力であり、「それにもかかわらず我々は生きよう」とするのがギリシア悲劇のもたらす歓喜だというわけです。

 それでは、アポロン的なるものはなにを目指しているのか。それは、生存の苦悩を覆い隠して見えなくするような「美しき仮象」を形成することなのです。悪く言えば、生の苦悩から目を背けさせてしまう欺瞞的な力です。プラトンは、現前しているものはすべて仮象にすぎず、真に実在するイデアを観照することこそが真理であると言いました。苛酷な現実から逃れて静かに安らぎたい・・・このように語るプラトンは、じつのところ、目の前の世界、すなわち生を否定しているのです。これが古代ギリシアなんですよ。

 さて、こうしたアポロン的なるものとディオニュソス的なるものというのは、そのままヴィンケルマンとニーチェに当てはめることができるのではないでしょうか。両者いずれも、古代ギリシアへと目を向けて、その精神を汲み取ろうとしたのです。そのふたりがそれぞれ見出したものが、片やアポロン的であり、片やディオニュソス的であった。ニーチェにしてみれば、ヴィンケルマンの古代ギリシア像は虚偽だらけだったわけですが、これを頭ごなしに否定するのではなく、ディオニュソス的なるものを看過してしまったものだと考えているのです。

 古代ギリシア人に支配的であった厭世観、すなわち、なによりもいちばんよいのは生まれてこないことであり、生まれてしまったからにはできるだけ早く冥界(ハデス)の門を通り抜けることである、というホメロスのことばに代表されるペシミズム。アポロン的なるものに見受けられる明朗性は、こうした生存の恐怖の裏返しにすぎないものであるのにもかかわらず、古典主義者は、この明朗性が古代ギリシア人自身の至福、満足感だと思い込んでいた。しかし、古代ギリシア人は、そうしたアポロン的な安定と秩序に反すようなもうひとつの芸術的な力、すなわちディオニュソス的なるもの、悲劇を有していた。古典主義者が看過ごしていたのはこの点であると―。悲劇は、歓喜から、力から、満ち溢れる健康から、途方もない充実から生じるものであるというのが、ニーチェの考えです。


Friedrich Wilhelm Nietzsche

 じっさいの古代ギリシア人の彫刻は、ヴィンケルマンが描き出したものとはかなり違っていたことが既にわかっています。彫像の眼には色のついた石が嵌め込まれ、顔全体には金メッキがほどこされていました。パルテノン神殿も風化に晒される以前は、赤や青といったコントラストの強い色で飾られており、そうした強烈な地塗りの色の上を人物や馬の彫刻が躍動するように浮かんでいたということです。ヴィンケルマンが、じっさいとは著しくかけ離れた、古代ギリシアのimageを描き出してしまったのは、彼が目にした彫像が、古代ギリシア人の手による実物ではなかったことにも起因していたのかもしれません。先に述べたとおり、ヴィンケルマンが古代ギリシア人の美術作品であると信じた彫像は、その多くがローマ時代のコピー品だったのです。つまりレプリカ。

 さらに、古代ギリシアの彫像は、オリンピアの祭典をはじめとする運動競技の大会や悲劇の上演と同様、彼らの民族宗教と結びつけて理解するべきものなのです。祭祀の際に、人々は神の彫像の前で呪文とともに祈りをあげ、神への捧げものとして羊や牛を屠り、それは彫像の面前で行われていました。つまり、彫刻は鑑賞するものではなかったのです。なので、古代ギリシアの彫像が失われてしまったのも不思議ではありません。それらのものは、神的なものを生起させる宗教的な力を有していたので、そのほとんどが、異教の偶像破壊を義務としたキリスト教徒によって破壊されてしまったのですよ。また、これも繰り返しになりますが、古代の美術家のimageを、ヴィンケルマンがプラトンやソクラテスに求めたのも失敗でした。古代ギリシアの彫刻家は、ポリスの上流階級である富裕市民や知識人と同列の存在ではなく、それよりも下層な身分の人間、単なる人夫であり職人であったので、プラトンは詩人とともに画家を否定していたし、ソクラテスは祭祀の秘儀には参加していないのです。

 こうしたヴィンケルマンの描き出した古代ギリシアのイメージが18世紀の多くの思想家や美術家に受け入れられたのは、純粋な古代ギリシア美術への礼賛のためではなく、当時の反対勢力への批判のためだったのです。古代ギリシアの美術を普遍的な「良き趣味」とすることで、ヴィンケルマンはバロックやロココの趣味を批判して、19世紀に至るとヘーゲルがロマン主義への批判に利用したのです。おかげで、普遍的な趣味や芸術は古代ギリシアという過去において完成していたことになってしまう。だからヴィンケルマンは「模倣」することを主張するしかないのです。常に「現在」が否定される、という芸術にとってはただひたすら虚しいだけの結論。だったら「模倣」だけしていればいいのか、という馬鹿みたいな話。

 こうした「現在」を否定・抑圧するような言説に対して異議をとなえたのが、ニーチェであったわけです。さすがニーチェ。ニーチェは、過去の偉大な成果を、現在を否定するために引っ張り出すような言説を、「記念碑的歴史」の否定的な側面として捉えています。

 模倣は、現在の創造的な力を抑圧してしまいます。古代ギリシアだって、その時代の現在的な力によって過去の規範を乗り越えていくことで、オリエントやエジプトの乗り越えることができたからこそ、完成されたのです。そして古典主義の美学を批判し、芸術における多様性を肯定したのがロマン主義であるわけです。


(Parsifal)


引用文献・参考文献

「希臘藝術模倣論」 ヰ"ンケルマン 澤柳大五郎譯 座右寶刊行會
「ギリシア芸術模倣論」 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン 田邊玲子訳 岩波文庫




Diskussion

Parsifal:急いで付け加えるけど、古典主義とロマン主義の境目なんて、曖昧なんだけどね。

KLingsol:美術の分野なら話はわりあい簡単だな。1820年代から1830年代にかけて行われた運動がロマン主義。当時は古典主義を新古典主義と呼んでいたわけだけど、その新古典主義に対立するものであると、それが妥当かどうかは別にして、そのように捉えられてきた。
 具体的に名前を挙げると、アカデミーの大御所アングルがいて、これが新古典主義。一方、ドラクロワがこれに対立するロマン主義の代表だね。対立というのは、ジャーナリズムなんかが面白がって煽り立てるわけだ。すると、ボードレールあたりがロマン主義とはこれこれこういうものだ、としきりに主張してくる。たとえばボードレールによれば、新古典主義は理想的な美の形態を想定していて、それはギリシア・ローマに手本を求める形で現れている。造形芸術などその代表。しかしロマン主義の感受性はもっと別なところにあると。ヴィクトル・ユゴーがロマン主義を芸術分野でのフランス革命だと言ったのは、ロマン主義が自由を求める運動だから。従来の規範や秩序を壊していくものであったわけだ。

Hoffmann:でもね、古典主義者がギリシアやローマをお手本にして古典古代に憧れたのは、ロマン主義とどう違うのか、そこにこそじつはロマン主義の萌芽が認められるのではないか、という疑問も生じてくるよね。

Klingsol:ドラクロワがすっかり心酔していた、またベルリオーズなども強烈に惹かれていたイギリスにおけるロマン派の代表にバイロンがいるよね。そのバイロンが1812年から1818年にかけて書いたのが「チャイルド・ハロルドの巡礼」。私小説ならぬ私詩で、自伝的な作品だ。この長篇詩の中で、主人公のチャイルド・ハロルドがイタリアへ旅行している。もちろん当時の文学者をはじめとする芸術家たちはみんなイタリア旅行をしているんだけどね、地中海がきれいだなあ、とか思っていたわけではなくて・・・いや、思ったかも知れないけどね(笑)重要なのはウェルギリウスの歌った世界とか、古代ローマの世界への憧れだ。チャイルド・ハロルドもそう。これは古典主義者の古代への憧れと同質のものだよね。

Parsifal:その半世紀ほど前に、やっぱりイタリア旅行をして、バイロンと同じような反応をしているのがヴィンケルマンなんだよね。なんだか、古典主義が目指していたものと、ロマン主義が目指すものとが、結びついているような気もする。つまり根っこは同じところにあるのではないか。まあ、バイロンは美術に大きな影響を与えたひとだけど、じつはさほど絵画や彫刻に深い興味があったようでもない。それでも、ヴィンケルマンくらいは読んでいただろうね。私でさえ、読んでいるくらいなんだから(笑)

Kundry:そうすると、バイロンを敷衍して、多くのロマン主義者についても同じことが言えるのではないかと考えられるわけですね。

Klingsol:そもそも、ロマン主義というものを、流派として捉えるのではなく、人間の生き方とか精神のあり方と捉えれば、科学の発達とか産業革命だとかいった、社会そのもののあり方の変動とともに、現在に至るまで連綿と続いているはずだよね。

Hoffmann:音楽史の上では、古典主義時代というのは上限が1750年代で、下限は1820年代くらいまで、といことになるのかな。ベートーヴェンが死んだのが1827年。そのベートーヴェンも、後期はロマン派だという見方もあるし、じつはハイドンだって「疾風怒濤」の時代は感情表現の幅が結構大きい。モーツアルトにしたところで、どこまで理想的・規範的なものを求めていたかとなると、とくに短調の作品にはロマン主義がのぞいているどころか、案外と色濃くあらわれているじゃないかというのがもはや常識的な見方になっている。

Parsifal:先日、Hoffmann君がレコードを取り上げたベルリオーズの幻想交響曲、これは1830年だったかな、ここに標題音楽が生まれたわけで、ロマン主義の宣言とされているよね。

Hoffmann:ロマン主義というのは主観的な世界を求めて形というものからはみ出していくわけだけど、それならまず形がなければはみ出すこともできない(笑)ロマン主義を、古典主義者が確立した形式が崩壊してゆく過程として捉えるのはあまりに一面的に過ぎるのではないかな。古典主義とロマン主義を統一的に捉えてもいいかもしれない。いまではそうした考え方もあるよね。いまだにモーツアルト、ベートーヴェンが古典派でシューベルト、ベルリオーズが・・・ってのは、義務教育に従事している日○組の音楽のティーチャーくらいのものだよ。
 よく、古典主義は形式を尊重して、ロマン主義では感情を表現するって言うよね。でもちょっと待ってくれと言いたい、そもそも形式と表現内容を同列で論じるのはおかしくないかと。ハイドンやモーツアルトに感情表現がないとでも? なんかもう、古典主義とロマン主義を対比させるための論点のすり替えとしか思えないんだな。


Klingsol:文学に至っては、前代が作った形態の遺産の上でしかはじまらない。そもそも、言語自体が表現形式そのものであって、同時に内容でもあるんだから。ユゴーの「エルナニ」が古典主義の劇作術というか、たとえば三・一の規則を破壊したといって、いや、それほど徹底しているわけでもないと言われたりもする。古典主義的な迂言法は避けているけれど、それは表現の問題、別問題だよ。

Hoffmann:ちなみにドラクロワはモーツアルトが大好きで、ユゴーは嫌いだったし、ベルリオーズも好きではなかった(笑)だから、形式と、表現したいものや表現意欲というものは、一応分けて考えた方がいいんじゃないか。

Kundry:絵に関しては、ロマン主義を推進したのはやはりルネサンスでしょう。

Parsifal:日常生活に潜む卑俗さを描く、表面に出してくるということで文学は変わったようなところがあるよね。古典主義の時代なら、理性が制御するような場面で、その抑制を分析してしまったりする。主人公をヒーローなんて呼んだのはまさに古典主義の時代のこと。つまり英雄だったわけだ。叙事詩の英雄なんてじっさいには日常の中には存在しない、つまり理想が描かれていた。しかし、19世紀になると日常生活で生きている人間が描かれるようになる。そこが絵画の写実主義とも呼応するところで、文学ではやがてリアリズムを経て自然主義につながっていったんだろう。

Kundry:つまり、ロマン主義というのは、あるべき人間の姿ではなくて、ありのままの人間をそのまま写す、ということですか? だとすると、ロマン主義ととともに、人間の行動や感情は、社会的な規範で抑えきれるものではないという認識が広まってくることになりますね。

Hoffmann:メリメの「カルメン」やドーデーの「アルルの女」を思い出すね(笑)みんなに祝福されるような、結ばれるべき相手がいるのに、わざわざよその女―それもあまり身持ちのよくない女に横恋慕して殺人を犯したり、自殺しちゃったりするんだから。

Parsifal:それも規範の破壊かな(笑)

Kundry:だとすると、以前「不倫が文化を生むこともある」と発言して叩かれた俳優さんがいましたけど、あれは間違っていますね。ロマン主義という文化が不倫を生んだんですよ(笑)