133 「自殺論」 エミール・デュルケーム 宮島喬訳 中公文庫




 エミール・デュルケームEmile Durkheimは1858年生まれのフランスの社会学者。総合社会学を提唱して、方法論的集団主義と呼ばれる方法で社会学のほか、哲学なども論じています。

 「自殺論」は1897年の刊行。19世紀後半にヨーロッパで自殺率が急上昇、ヨーロッパ各国での自殺率が短期間ではほぼ一定値を示した統計資料から、各社会は一定の社会自殺率を持っているとして、社会の特徴によって自殺がどのように異なるかを明らかにしようとしたもの。デュルケームは「社会的事実の決定要因は、個人の意識ではなく先行した社会的事実にもとめねばならない」として、自殺を個々の人間の心理からではなく、社会的要因(社会的事実)から解き明かそうとして、次の4つに類型化しています。

1 利他的自殺(集団本位的自殺)

 集団の価値体系に絶対的な服従を強いられる社会、あるいは諸個人が価値体系・規範へ、自発的かつ積極的に服従しようとする社会に見られる自殺の形態。

 献身や自己犠牲が強調される伝統的な道徳構造を持つ未開社会、さらにその延長線上にある軍隊組織に見られる自殺・殉死などが該当する。これは、一般人よりも軍人のほうが自殺率が高く、軍隊内では工兵や後方支援部隊の兵士よりも戦闘部隊の兵士のほうが自殺率が高いことから。つまり、個人の人格の価値を没却したタイプ。

2 利己的自殺(自己本位的自殺)

 過度の孤独感や焦燥感などにより、個人が集団との結びつきが弱まることによって起こる自殺の形態。個人主義の拡大に伴って増大してきたものとしている。

 デュルケームによればユダヤ教徒よりもカトリック教徒、カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高く、農村よりも都市部、既婚者よりも未婚者の自殺率が高く、つまり個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしている。

3 アノミー的自殺

 社会的規則・規制がない(もしくは少ない)状態において起こる自殺の形態。

 集団・社会の規範が緩み、より多くの自由が獲得された結果、膨れ上がる自分の欲望を果てしなく追求し続け、実現できないことに幻滅し、虚無感を抱き自殺へ至るもの。つまり、無規制状態の下で自らの欲望に歯止めが効かなくなった結果自殺してしまうもので、不況期よりも好景気のほうが欲望を過度に膨張させるので、自殺率が高まる。

 アノミーanomieというのは、社会秩序が乱れ、混乱した状態にあることを指す「アノモス」anomosを語源とし、宗教学において使用されていたことば。社会学にこのことばを用いたのはデュルケームがはじめて。デュルケームによればこれは近代社会の病理で、社会の規制や規則が緩んだ状態においては、個人が必ずしも自由になるとは限らず、かえって不安定な状況に陥るという。なので、規制や規則が緩むことは、必ずしも社会にとってよいことではないとしている。

4 宿命的自殺

 これは脚注において説明しているパターン。集団・社会の規範による拘束力が非常に強く、個人の欲求を過度に抑圧することで起こる自殺の形態。

 デュルケーム自身は、この自殺類型に関して具体的な事例を挙げていないが、宮島喬は身分の違いによって道ならぬ恋を成就できずに自殺へ至る「心中」がこれに該当するものとしている。


Emile Durkheim

 1の「利他的自殺(集団本位的自殺)」は、つまり個人の人格の価値を没却したタイプですね。拠り所が集合的な生のみである場合ですから、これはデュルケームの社会学的方法で論じるにふさわしい。

 2の「利己的自殺(自己本位的自殺)」は、逆にデュルケムの方法には馴染まないのではないでしょうか。社会構造にその要因を求めようとしながら、道徳的な構造に結びつけようとしている(結びつけざるを得ないでいる)ところが、そもそもの方法論では手に余ってしまったためとも思われます。それでいて、個人の内面は完全に死角に入ってしまっている。だからここで道徳問題を持ち出すと、どうしても宗教的な意味での道徳構造になってしまう。

 それに、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明されており、デュルケームが指摘するほどの大きな違いはないことが明らかになっているんですよ。

 また、自殺率の変動の要因を問題としていながら、自殺そのものを論じるというのは、論点を曖昧にしています。

 3番目のアノミー的自殺がもっとも注目に値するというのは、衆目の一致するところでしょう。逸脱とか競争とか、資本主義社会における、過度に誇示される消費行動とか、この「アノミー」で説明することができそうです。また、エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」の理論とも無関係ではないでしょう。ワイマール体制という文化・文明の爛熟期はまさしくアノミー的です。

 日本人について考えてみると、伝統的に、というのは、もともとはという意味なんですが、エロティシズム(快楽の追求)に道徳的違和感も罪の意識も伴わなかったように、自殺も罪の意識とは結びついていなかったところがあります。つまり、キリスト教のそれとは真逆。あえて類例を探せば、ローマのストア哲学のそれに近いんじゃないでしょうか。ペトロニウスが皇帝ネロから自死を求められて、その強制的な死を自らの哲学によって、「意志的」なものとして受け入れた。浴室で死に赴いた、あれですよ。

 以前お話ししたことですが、織田信長がキリスト教を拒否した理由に、自殺の禁止がありました。全軍の将士の生命を預かる立場にある者が、いざとなれば切腹して部下たちの生命を救わなければならない、その覚悟をはじめから逃げてしまうような卑怯者に、部下たちがついてくるはずもないから。織田信長という人物の判断としては、これが正しい。だから、善悪も道徳も、一時代の一社会のみにしか通用しない、相対的なものなのです。

 私にとってもっとも重要な「古典」であるギリシア悲劇でいえば、オイディプスが自らの眼を刺し貫いて盲いとなりますよね。あれも一種の自殺、意志的な自殺なんですよ。映画の「シャッター アイランド」"Shutter Island"(2010年 米)でのテディ=アンドリュー・レディスの行動、自らロボトミー手術を受けようとする決意もまた同じです。

 ギリシア悲劇や「シャッター アイランド」では、「自殺」は現実との折り合いがどうしても付けられなくなった人間が、最後に人間的尊厳の証として選択する行動なのです。

 いかがでしょうか、なにも自殺を奨励するわけではありませんが、たとえばキリスト教のような、これを禁止する倫理的制約が必ずしも是とされるものとは限らないのではないでしょうか。

 そのほか、自殺といえば思い出すのは三島由紀夫です。自分の(政治的)信条を世論に訴えるために、己の生命をその祭壇に捧げた・・・決して皮肉ではなく、その「演出」も周到なもので、これ以上になく華麗な生命奉献の儀式でした。その是非に関しては、異論もあるでしょう、私もあまり肯定的にはとらえていないことを告白した上で指摘したいのは、あのとき、口汚い野次を飛ばしてその演説をほとんど聞こえないものにしてしまった市ヶ谷の自衛隊員の、救いがたいまでに下品な振舞いです。

 しかし、三島由紀夫当人については、割腹というのならもっと静かに死ぬ、それが武士だったんじゃないかな、とも思うんですね。あれを「諫死」ととらえている人もいますが、それにしても同じこと。やはり、あの自己主張の強烈な、派手な死に様は、三島由紀夫という人格、精神の型(タイプ)が望み、選び取ったものであろうということです。


三島由紀夫

 つまり、自死というものは、個々人の人格や、そこに至るまでの精神の育成によって、いかにも多様な形態をとるということです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「自殺論」 エミール・デュルケーム 宮島喬訳 中公文庫




Diskussion

Parsifal:論文としてはいいと思う。

Klingsol:ところが、統計的な変動を論じて、そこから自殺そのものの類型化を図るというのは、論点のすり替えとまでは言わないけれど、ちょっと変則的だよね。

Parsifal:そこはあくまで社会学の視点だから・・・。

Kundry:道徳という名の宗教的戒律を前提に自殺を論じるという点で限界を感じます。その意味では、Hoffmannさんが言われるとおり、「アノミー的自殺」を論じたところがこの本の白眉だと思います。

Hoffmann:ところで、三島由紀夫といえば、澁澤龍彦を思い出すんだよね。三島の自決後のことだけど、池田満寿夫だったかな、「なんであんな芝居がかったことをしたんだ」というような三島批判をしたところ、澁澤龍彦がたいへん怒ったんだそうだ。その理由は「三島はおれの友だちだ」と、それだけ。私はこのエピソードが大好きでね。