148 「愚者の機械学」 種村季弘 青土社




 ある統計によれば人間の八十パーセントは馬鹿なのだそうだが、『馬鹿について』という本を書いた西独の人類遺伝学者ホルスト・ガイヤーの定義では、馬鹿の数は八十パーセントより多くて、人間の百パーセントは馬鹿なのであり、単に「知能の低すぎる馬鹿」、「知能の正常な馬鹿」、「知能の高すぎる馬鹿」の三馬鹿に分類されるのにすぎぬという。安心しよう。われわれはみんな馬鹿なのだ。


 ―以上は「愚者の機械学」の著者による「あとがき」の冒頭を引用したもの。

 種村季弘。1933年生まれ、2004年没、享年71歳。


種村季弘

 privateなことを書かないところは澁澤龍彦と似ています。それでも、澁澤龍彦なら書斎写真が何度か撮られている。しかし、種村季弘の書斎写真なんて一枚もない。そういえば父親とか母親のこともほとんど書いていませんね。

 いや、一見自分語りをしているようなエッセイは少なからずあるんですが、どれもフィクション。「漫遊記」シリーズなんてノンフィクションだと思っている人もいるようですが、ンなわけない、どれも虚構です。小説というほどではなくて、コントとエッセイが融合したもの。ついでに言っておくと、同じネタを二度は使わない、そうした倫理観ではたいへん自分に厳しい人だったようです。そして引っ越し魔。これはときどきリセットしていたんでしょうか。ペテン師とか偽物が大好きだから、ときどき見知らぬ土地へ行って「だれでもない自分」になりたかったのかもしれません。

 ああ、なにを言っているんだろう・・・種村季弘にふさわしいコトバを使わなきゃね。「漫遊記」シリーズはフィクションじゃなくて、「嘘」。「だれでもない自分」というのも違う、「百面相」の人だ。嘘とさまざまな顔という、伝説を纏った怪人。自分の尻尾をつかませない。それが証拠に、全集とか著作集の出版にはなかなかOKを出さず、たとえば青土社の「ユリイカ」が種村季弘の特集号を作りたいといっても断ってしまう。それが種村季弘です。

 それでは種村季弘とは何者なのか、だれなのか?

 その著書からキーワードを抜き出せば、「詐欺師」「偽物」「あべこべ」「だまし絵」「迷宮」「錬金術」・・・つまりはインチキ。キーワードというよりモティーフかな。さらにテーマを挙げれば「映画」「江戸・東京」「温泉」など。これらが渾然一体となった「見世物小屋」が種村ワールド。読者はそのこぢんまりと壮大な(笑)見世物小屋の中を、「漫遊」し、「徘徊」するんですよ。

 エッセイを書いていても、webでよく見かけるような、「おれが」「おれが」「私が」「私が」といった自己主張とか自己顕示がないんです。むしろ「私」がきれいさっぱりと消えてしまっている。もっと言えば「自我」を感じさせない。だから権威とは無縁。だって、権威のあるところには利害関係が必ず生じるでしょ。そんなものはどこにも見当たらない。「私」を消しちゃって、あたかも「群衆の中の孤独」に入り込んでしまうのは、現実でも同じ。ご当人が出没するのは安くておいしい大衆酒場。それもはじめて見つけた常連客ばかりの店に入っていって、違和感なくまぎれ込んでしまうような人だったそうです。書くものと本人が同じなんですよ。正体のない人間。ああ、カリオストロみたいだ(笑)

 パーソナリティ? そんな、実体のないものを信じこんでいる方がおかしいんですよ。だって、貨幣なんかご覧なさい。いまや一枚の紙ですらなく、電算記号としてオンライン上を流れているだけですよ。無なんです。あると思っているものが、じつはない、それが人間の実存の、いちばんの問題なんです。おっと、どうも際限なく脱線していきそうなので話を戻しましょう(笑)

 恐るべき博覧強記の人なのに、ちっとも高踏的でない。その語りは親しみやすく、世間話のような調子。ノンシャラン。面白いけどためにはならない(笑)都立大学とか國學院大學の先生もやったのに、アカデミックでないんですよ。むしろアカデミズムが認めないような異端・・・というより、本人がインタビューでこたえていたことばを使えば、「余白の部分」に関心が向けられている。それが自分がいちばん楽な姿勢でいられるところだと。だから「謎のカスパール・ハウザー」も、文学書になっている。研究書のような評伝にはならないんです。だからこそ、読んで面白いし、説得力もある。しかし一方で、アカデミックに評価されることもない。他人の研究を「学問的」に集積した結果の仮説と検証じゃないから。でもね、独自研究って言っても、webに溢れているような、素人の紋切り型と根拠のない断定ばかりの「感想文」じゃないんですよ、あたりまえですけど。これこそ独創性でしょ。真似できるものならやってみな。

 永井荷風についてお話ししたときに、為永春水を読むのにレニエが重ね合わされるって言いましたよね。種村季弘もそう。江戸についてのエッセイのなかで、ドイツの文献が引っ張り出されてくる。その意味では最後に書かれたという「畸形の神 あるいは魔術的跛者」で、身障者こそ創造者だという神話や伝説が自由自在に紹介・引用されるのも種村流。これこそが集大成だったのですよ。

 旅ものについて―。


 一九八〇年頃、種村さんと九州の阿蘇山麓のひなびた温泉を巡る旅をした。・・・ある乗換え駅で、次の列車まで時間がある。そこでビールを飲んだ。いい心地になって時間がたつのも忘れた。と、おかみさんが「あんたたち、汽車がきたわよ。早く出ないと乗り遅れるわよ」と親切にいってくれた。あわてて店を出て列車に飛び乗った。向かい合った席に着いて、二人同時にいった。「金を払うのを忘れた」。


 ―これは川本三郎の「路地裏の散歩者」から引用。

 都立大学をやめたあとに、秩父の農家を買って住んでいたときのこと―

 三十万円だったかな。翻訳の収入もあったので買えたんですよ。いいとこでしたよ。ただ、昼間は本を読んだり寝そべっていて、夜にさあ仕事をしようとすると、近所の人が酒もって来るんだな。「飲もう」って。それはいいんだけど仕事ができない(笑)。

 
これは1970年のこと。「それはいいんだけど」というのが、いいですね(笑)ここには1年住んで、再び愛宕山に引っ越して、秩父の家は1976年まで仕事場にしていたようです。

 また、中央線沿線の、どの駅からも遠い、さびれた商店街の一隅に部屋を借りれば、そこは風呂もついていないのに、商店街全体を修道院に見立てて、「料理番が百人いて、風呂番も宮廷理髪師も控えている」と喜んでいたんだとか。異端じゃないんですよ、ちょっと反対側からのぞいてみた、のぞいてみたら、そこに楽園が広がっていた、ってことなんです。

 ここに、種村季弘の旅ものの原点があるんですよ。つまり、本拠地があって、そこからよそ行きの恰好をして出かけていくのではない。どこに行っても、そこが自分の居場所。ここが出発点だっていう、「家」の観念がない。人生そのものが旅。いろいろなところを転々として、気に入ったところをコレクションしちゃう。その場所を自分の側に引き寄せるのではありません、自分が溶け込んで行ってしまう。だから、お店の支払いも忘れちゃうし、たぶん忘れられたおかみさんも気付かなかったんですよ、溶け込んじゃっているから(笑)

 でもね、1997年の「週刊文春」に掲載された「聞き書き」、インタビューを構成したものには次のような一節があるんです―


 澁澤龍彦さんが亡くなったり、過去のことをゆっくり話し合える友人も少なくなって、時代を共にした人がいなくなるのは寂しいことですね。何だか自分が経験した過去が本当にあったことなのか、夢の中の出来事のように思えてきます。
 前はもっと現実と関わっていたいという気があったんですが、それも変わってきた。いまは現実に対して半覚半睡の状態で付き合っているという気がしますね。六十五を過ぎると、判断力はそうでもないんだけど記憶力が落ちてくる。判断力と記憶のズレを放っておくと自然にボケになるんだけど、そのズレを異化作用にして、トボケにしちゃえばいいんですね。老年というものを芸にしてしまえばいい(笑)。


 ここで私はふたりの大人物を思い出します。ひとりはここに名前の出ている澁澤龍彦。晩年、昭和62年の池内紀によるインタビューでの、次のような発言―

・・・病気によっても人生観は変わったと思いますね。ますます観念的になり、ますます「人生は夢」という意識は強くなって・・・やがて夢見るように死んでゆくでしょう。

 そして同時に、都合の悪いことは聞こえない「トボケ老人」を自称していた山田風太郎も連想しますね。これこそ老年の境地として、うらやましいほどにあるべき姿と言えるんじゃないでしょうか。



 さて、種村季弘の本を取り上げるにあたっては、どの本を選んでもいいんです。テーマは先に挙げたキーワードのいずれかに当てはまるし、どれを読んでもハズレなんてことはない。今回「愚者の機械学」を選んだ理由は、目次をご覧になれば納得いただけるはず―


 影の女 C・C・ユングの霊媒
 新ハムレット S・フロイトの約束の地
  *
 獣体と機械と ニジンスキーの神隠し
 聖アドルフ二世の王国建設 アドルフ・ヴェルフリの二〇年代
 愚者の祝祭 F・Sch・ゾンネンシュターンの方へ
 ある女霊媒の想像妊娠 エンマ・クンツの処女受胎機械
  *
 梅毒としての文学 オスカル・パニッツァについて
 詐欺としての文学 カール・マイの不思議な冒険
  *
 私の自転車修行 P・シェーアバルトと永久機関
 愚者の機械学 ローベルト・マイヤーの永久機関


 それぞれのテーマがいい。しかも、各章の表題と副題が、それこそ異化効果を醸し出しており、この目次に目を通したその時点で、バナナのたたき売り、香具師の口上に惹き込まれてしまったかのような気分になってしまいます。

 しかも、「愚者」ですからね。中央に位置する人やテーマではない。ここで以前から何度も言っていることを思い出して下さい。愚者や道化や酔っぱらいこそが真実を語る、ということを―。これが種村季弘の方法論そのものなんですよ。そのコレクションを披露してくれているのが、たとえばこの「愚者の機械学」という本なんです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「愚者の機械学」 種村季弘 青土社




Diskussion

Parsifal:澁澤龍彦を取り上げたら、やっぱり種村季弘についても語ってもらわないとね(笑)

Kundry:Hoffmannさんが職場で「尊敬する人物」のアンケートで名前を挙げたのは、種村季弘と、あとは?

Hoffmann:南方熊楠、倉橋由美子、多田智満子だよ。

Klingsol:じゃあ、倉橋由美子は以前取り上げているから、南方熊楠と多田智満子についても語ってもらわないと(笑)

Kundry:今回もそれぞれの好きな本を挙げてみませんか? ちなみに私は「漫遊記」シリーズが好きですね。「書物漫遊記」「食物漫遊記」「贋物漫遊記」「好物漫遊記」に加えて、「日本漫遊記」(すべて筑摩書房)もいいですね。

Klingsol:「パラケルススの世界」(青土社)、「謎のカスパール・ハウザー」(河出書房新社)・・・翻訳はどれもいいし、アンソロジーも、「よくこんなものを見つけてきたな」というセレクションの妙が、まさにいまHoffmann君が話した周縁・余白への関心を示している。


Parsifal:後期のエッセイがいいのは当然として、比較的初期の仕事から「ヴォルプスヴェーデふたたび」(筑摩書房)。もしも代表作をひとつ挙げろと言われたら、これだな。目で見ているのはその時点の「現在」の風景でありながら、心象風景は永井荷風が見ていたような古の情景であるというのが、後の街歩きのエッセイにも通じるところがある。翻訳なら最初の仕事であるグスタフ・ルネ・ホッケの「迷宮としての世界」(矢川澄子との共訳 美術出版社)。

Hoffmann:全部・・・と言いたいところだけど、「畸形の神 あるいは魔術的跛者」(青土社)を挙げておこう。翻訳ではE・T・A・ホフマンなどの小説もいいけど、ハンス・H・ホーフシュテッターの「象徴主義と世紀末芸術」(美術出版社)がとくに好きな本だ。